最終更新: January 22, 2007 (MON) 23:19
米国神経科学会誌に100本以上の論文を発表しており,川島隆太氏らが師事したという,名実ともに日本の脳神経科学の第一人者である著者(久保田競氏)が,脳科学ブームで山のように出版されている擬似科学本を鵜呑みにしないで欲しいという思いから,現在のところ,科学的にはここまでわかっていて,ここからはわかっていないということを,きちんと述べた本である。口述筆記を編集者がまとめたものということなので(p.4),この目を引くタイトルは,編集者がつけたのだろう。
全体を通して,脳科学については知らなかったことやなるほどと思わせる話が多かったし,その他にも非常に正しく鋭い指摘が多々あったが,栄養学と疫学については,後述するように,首を傾げざるを得ない記述がなされていたのが惜しい。例えば,大豆にはアセチルコリンが含まれているので頭を良くするために大豆を食べろとか,毎日走れとかいった,生活アドバイスみたいなものはどうかなあ。人は頭を良くするために生きているわけではないし,大豆はアセチルコリンだけを含んでいるわけではなくて,食物繊維もあるし,ダイゼインみたいなイソフラボンも含んでいるし,タンパクも多く含んでいるのに,アセチルコリンの効能を期待して大豆を食べろというのは,栄養学的にいっても間違っていると思う。それこそfood faddismである。それと,疫学を,「原因はよくわからないが,観察・調査によって,これが有効なのではないかと推測する研究のことです」と説明するのはあんまりだ。なるほど,確かに19世紀のロンドンでSnowがやった仕事はそうだが,RCT (Randomized Controlled Trial)だって疫学である。むしろ落としてはいけないのは,集団についての因果推論をするという部分ではないか。久保田競ともあろう方がこの程度の理解かと思うと,疫学が知られていないことにうんざりする。
もちろん,総体としては,一読の価値はあると思う。ただ,ロールプレイングゲーム(RPG)を持ち上げすぎなんではないかと思われたのだが,これは出版社がアスキーだからか? とくに,出てくるたびに,わざわざ「ロールプレイングゲーム(RPG)」と表記するのは字数を増やす以上の意味があるとは思えない。もう少しまとめて余計な部分は除いて岩波ブックレットで500円で出した方が良かったと思う。
追加・補足情報のページがあるのは素晴らしい。巻末の診断テストは,自計式だったらもっと使いやすかっただろうにと思うが,そういうテストはないのだろうか。それとも,他人が判断するところが大事なのか? 目次は以下の通りである(打ってしまってから,アスキーのサイトで目次pdfが公開されていることに気付いた……orz)。
- はじめに
- 基礎知識〜脳の地図
- 《第一部》脳が良くなる一日の過ごし方,悪くなる過ごし方
- ●快感を起こす刺激は,すべて脳を発達させる
- ●ゲームやネットをやり続ける脳,そうした遊びに罪悪感を感じる脳
- ●一日中,家で本を読みふけっていれば,脳は良くなる?
- ●運動+「記憶し,思い出し,比較する」で脳を良くする
- ●脳に良い一日の流れを考える。まず,朝食はどうするか?
- ●通勤・通学時の電車内や道で,脳を良くする方法
- ●職種によっては意図して,脳のメンテナンスを
- ●帰宅してからはどう過ごすか? 睡眠はどうとるべきか?
- ●どんなにささいなことでも,覚えておくほうが脳にいい?
- ●脳科学者が認める,唯一,脳に良い食べ物とは?
- ●試験の成績が一時的にすごく良くなる薬は実在する
- ●奇跡の新薬アリセプトは,軽度の認知症に効く
- ●記憶の達人,藤田田さんの食習慣と日課とは?
- 《第二部》脳を壊すもの,脳を発達させるもの---さまざまな観点から
- ●恐怖映画やバンジー・ジャンプは脳に良い? 悪い?
- ●「癒やし」や「音楽」は,脳に良いか,悪いか?
- ●恋愛は,脳に良いか? わかったのは,つい最近
- ●子供や部下を賢くする叱り方,バカにする叱り方
- ●ヒトに備わる超能力(?)を使って,子供や部下を指導しよう
- ●見ているだけで運動能力が高まる,ミラー・ニューロンの力
- ●見る,思い出すだけで,スポーツの能力は高められる?
- ●高齢のサルと若いサルのモノの見え方の違い
- ●GABAを食品で補うことは有効か?
- ●脳を良くするための最重要タームのひとつ,ワーキングメモリー
- ●遅延反応の能力が高まったら,知的能力も高まっていく
- ●fMRIで,ヒトもサルも同じだ,とわかったワーキングメモリー
- ●ワーキングメモリーを鍛える,具体的な方法
- ●ヒトとサルを大きく隔てている一〇野の役割
- 《第三部》NO-GO,ランニングと脳---ニート,引きこもり,うつ
- ●GOとNO-GOをうまく使い分ければ,脳が発達する
- ●キレる人が増えているのは,NO-GOの訓練不足のせい
- ●自分に厳しいばかりではダメ,自分にごほうびをあげよう
- ●現代人は身体が変わった,それで脳機能が衰えた
- ●脳を良くするために,まずは軽く走ってみよう!
- ●猿人がヒトへと進化したきっかけは,これを始めたせいだ!
- ●人類はなぜ,ランニングし出したのか? その謎に迫る
- ●人間が歩く/走るときの脳内は,従来は計測不能だった
- ●fNIRSを使った,歩く/走る実験でわかったこと
- ●ジョギングの習慣を持たせたら,脳はどう変わったか?
- ●早足で歩くだけで,考える力が向上する?
- ●走れば,脳を良くするBDNFという物質が出てくる
- ●「海馬で記憶が保存されている」と考えてはいけない
- ●ヒトの海馬と,サルやネズミの海馬は役割が違う?
- 《第四部》実践! 世代別,脳の鍛え方---〇歳〜十五歳篇
- ●脳は一生のうちいつごろ大きくなり,いつごろ縮むのか?
- ●シナプスは増やせる,多ければ多いほど脳の働きが良くなる
- ●赤ちゃんの脳は,生後すぐから,多彩な学習が可能になっている
- ●四歳から死ぬまで,どのように時期を区分けして生きていくべきか?
- ●親が意図して子供の脳を鍛えないと,脳はよく育たない
- ●乳幼児の脳を発達させる,簡単かつ具体的な方法
- ●ワーキングメモリーで,赤ちゃんの脳力を調べる,高める
- ●赤ちゃんをキレない大人に成長させるには?
- ●ミラー・ニューロンを使って赤ちゃんを賢くする,スポーツ上手にする
- ●男と女とでは脳が違う! 言語能力は女性のほうが優秀
- ●幼児虐待を受けて育つと,脳はどうなるか?
- ●四〜十五歳までの脳を鍛える---まずは外国語を学習させてみよう
- ●どういう一生を歩ませたいか決めて,脳の発達の方向性を操作する
- ●各種試験に備えて,脳を最適化するには,何をする?
- ●試験に際してストレスを感じると,記憶力は弱まる
- ●「記憶」をより確かなものにするテクニックと,脳内の活動
- ●試験会場ではどうすべきか? 会場の室温,貧乏ゆすりなど
- ●聞き慣れた好きな音楽を聴いて,試験の成績をあげる
- 《第五部》実践! 世代別,脳の鍛え方---十六歳〜高齢者篇
- ●一生を通じて,人間の体はどう変化していくか?
- ●歳を重ねても,皮膚を若く保つには?
- ●十六〜二〇歳にかけては体を鍛えることが脳のためにも重要
- ●二〇歳までに,赤い筋肉,「遅筋」を重点的に鍛えておこう!
- ●瞬発力の訓練をして持久力を高めたランナー,ザトペック
- ●脳と体を最高に発達させる,今一番新しい走り方は,これだ!
- ●二十一〜三十五歳では,特定の目的をもって脳を使い,鍛えるべき
- ●若くして結婚すると,脳が早く衰える? 浮気は脳にいい?
- ●三十六〜六〇歳は,脳を意図して鍛えるべき。出世と脳の関係は?
- ●生活習慣病は,脳にひどくダメージ。まずは脂肪の量を割り出そう
- ●うつ病と脳の関係---うつ病を防ぐための習慣とは?
- ●四〇代以上でこんな自覚症状があったら注意。脳内に梗塞ができている
- ●脳のMRI像を見て脳の衰えがわかる医者,わからない医者
- ●自分たちで脳の衰えをチェックできる簡単なテスト
- ●高齢になってこそ創造的に生きるべし。「年だから,できない」はダメ
- ●勉強や運動,恋愛をすれば,高齢者でも脳が若返る?
- ●高齢者こそランニング! 高齢者の世界記録を目指してみよう
- ●高齢者の脳を一気に衰えさせる,最悪の事態とは?
- ●ほとんどの人は,長生きしていれば最後は認知症になる
- 《第六部》高齢者の認知症とリハビリ〜現在の対処法には間違いが多い!
- ●脳は必ず萎縮する=体の全機能は低下する
- ●健常者の脳は,どのように萎縮し,死を迎えるのか?
- ●血管が硬くなって脳細胞が死んでいる証拠,虚血性変化
- ●平均寿命百数十歳時代には,より認知症を防ぐ生き方が重要になる
- ●認知症気味の高齢者---その症状を改善する試みとは?
- ●高齢になって一人暮らしを避けられそうもない場合の具体的な対策
- ●アルツハイマー病の発見---最近まで進まなかったその研究
- ●映画好きや旅行好きは,アルツハイマー病になりにくい?
- ●野菜や果物のジュースを飲んで,アルツハイマー病予防
- ●指を動かす脳領域を焼いて壊しても,他の領域が肩代わりしてくれる
- ●人間の脳もリスザルの脳と同じ性質,「代行作用」を持っていた!
- ●年寄りには席を譲るな? 急激に変わりゆくリハビリの常識
- ●片方に麻痺がある場合,こうリハビリをすると快復が早まる
- ●スーパーマン クリストファー・リーブ氏,長嶋茂雄氏の場合
- ●脳の重要領域「一〇野」が壊れたら,どうなるか?
- ●フィアネス・ゲージの脳を貫通したクロー・バーの事件
- ●手術で一〇野を切除された患者,EVRの場合
- ●リハビリ治療はこうして始まった! 脳科学者とリハビリ治療の接点
- ●ゲージやEVRと同じ症状の高校生が,なんとか治る時代になった!
- 《第七部》さらに脳を良くするために---こんな脳の本は信じるな!
- ●脳研究の源流のひとつ---電気刺激による“働き”の研究
- ●脳研究のもうひとつの源流---解剖による“形”の研究
- ●発展していく二大潮流とノーベル賞学者同士の対立
- ●二大潮流の行き詰まりと,「神経科学」の誕生
- ●ビジュアル・イメージング装置PETで,脳研究が変わった!
- ●もうひとつのビジュアル・イメージング装置,fMRIとは?
- ●脳研究の世界は,二十一世紀に入る直前に一変した
- ●病気のときのヒトの脳の状態がわかり出したのは,つい最近
- ●こんな著者が書いている脳の本は,読んではいけない
- ●PET,fMRIのデータでも,すぐに信じてはいけない
- ●「二十一世紀の骨相学」と専門家がバカにする言説
- ●脳研究の世界では,最新の知識同様に,昔の知識が重要
- ●ゲーム脳,ネット脳に,科学的裏付けがあると言えるか?
- ●川島隆太氏らの「ゲームと脳」に関する研究
- ●川島隆太氏らの「認知症」研究を見て思う---音読や計算は脳に良いか?
- ●大ベストセラー『バカの壁』を脳機能の専門家はこう見る
- ●信用できる著者かどうかは,PubMedで調べられる
- 付録 脳の衰えをチェックする医学テスト三種
以下,気が向いたところにバラバラとコメントする。
「はじめに」は編集者による本書が編まれた意図と内容構成の紹介であり,当然のことながらうまくまとまっている。ただ,7ページ「脳の解明がさらに進めば,人はもっと健康に,認知症にもアルツハイマー病にもならずに,百数十歳まで長生きできるようになるでしょう」は,192〜193ページ「脳の研究が進めば,ヒトは着実に長寿になっていきます。どこまで寿命が延びるかは,今は言えませんが,平均寿命が百数十歳になることもありえます」とその前後の内容を受けて書かれていると思うが,脳研究だけ進んでも寿命が延びるかどうかはわからないのではないか。がん研究やミトコンドリア研究が進む必要があると思うが。ここは編集者が書き過ぎたのではないかと思う。基礎知識として脳地図と神経核などの名称をまとめてあるのは,後の方を読んでいて確認したくなったときに便利な構成だと思う。
第一部で「脳を良くする」には,腹側被蓋野(A10神経核)を働かせるのがよい,そのためには「快感を起こす刺激は全部いい」として,おいしいものを食べることが最高に脳にいいし,お金はおいしい食べ物以上の最高の報酬で「ヒトの脳にとってお金が一番」とあるのは,あまりに話が粗いのではないか。タイプ論としては成り立つかもしれないが,「おいしいものを食べる」に比べると,「お金」による刺激は,文化による違いや個人差が大きいように思う。もっとも,この第一部は,そんなに厳密な話をしたいわけではなくて,大雑把に,気持ちのいいことと体を動かすことは脳にいいし,罪悪感やストレスは脳に悪い,というアンチテーゼを読者にぶつけたいのだと思うので,多少話が大風呂敷でも仕方ないのかもしれない。常識的に考えて,体を動かすためには,ずっとゲームばかりとかネットばかりとか読書ばかりなんてできないわけだし,自分の体に合ったバランスの良い暮らし方をすれば脳に良いことになるのだろう。なお,通勤・通学電車の中で片足立ち(3秒以上片足で立っていられれば正常という「ロンベルグテスト」という神経内科のテストもある)とか,豆知識的なヒントが多々載っているのは,簡単に生活に取り入れることができて,役に立つと思う(評者自身は,毎週末に少年野球の練習につきあっているので,目をつぶって片足立ち20秒は平気でできるが)。なお,p.47-49のアリセプトについての記述を読んだら,個人輸入とかで入手したがる学生が現れそうでちょっと不安だ(既にネット代行業者もあるようだが,犯罪につながらないかも不安だし,安全な用法・用量が守られるかも不安だ)。p.50の藤田田さんのエピソードを援用すれば,ブログやウェブ日記をつけるのは脳にいいと言えそうだ。
第二部では,ミラーニューロンの話(運動におけるイメージトレーニングの効用)が前半示された後,ワーキングメモリーを鍛えることが脳に良いことと,その方法としてドラクエやFFのようなRPGを楽しみながらやることが素晴らしいという話が出てくる。単純計算よりRPGの方がいいと主張されているが,RPGはついついやり過ぎてしまうのが問題だろう。ともあれ,ここは,うちの子はゲームばかりやって,「ゲーム脳」になったらどうしよう? と根拠のない不安におびえるお母さんたちに是非読んで欲しいところだ。
第三部の導入部は脳科学の領域を逸脱しているので議論に飛躍が多いと感じる(もっとも,「関連づけて話を展開させてみたい」と書かれているところからすると,たぶん飛躍があることは著者も自覚していると思う)。例えば,「キレる人が増えているのは,NO-GOの訓練不足のせい」とあるが,やや疑問だ。まず,本当に「キレる人」は増えているのだろうか? 「キレる」の定義も曖昧だし,客観的なデータを見たことがない。次に,「キレる」のは本人のせいだけなのだろうか? 社会的制約が緩ければキレやすくなるのではなかろうか? また,ニートの理解が偏っていて,供給側の問題に一切触れないのも片手落ちだろう。
第四部は英才教育指南書っぽい。「場所法」という記憶術とか試験を受ける心構えとか,How-to本としても役に立つかもしれない。第五部は成人から高齢者向けのHow-to集なんだが,BMIと腹囲の説明は粗い。メタボリック・シンドロームの説明自体間違っているし(正確には週刊医学界新聞第2633号などを参照されたいが,腹囲だけでは決まらないし,腹囲も日本の8学会共同発表の基準では男性85cm以上,女性90cm以上が正しくて,本書の男性84cm以上という記述は間違っているし,国際糖尿病学会の基準では男性94cm以上,女性80cm以上であって,いかにも胡散臭い基準値である),共変量として身長や筋量を制御しないで腹囲だけで内臓脂肪を説明するのは説明力が低いだろう。あれは多めに引っ掛けてもいいという基準値としてだけ意味があると思うので(その利用の是非は別として),心配しすぎたり,食べるのを控えたりすると,かえってストレスが増えて,第一部の話からすると「脳を悪く」すると思われる。もちろん肥満しすぎは脳ばかりでなく体にも良くないわけだが,それは腹囲測定値でなくて,むしろ体が軽く動くかとか,階段を駆け上がっても息切れしないかといった機能から押さえるべきではないかと思う。その方が第一部の話と矛盾しないはずだ。
第七部の,脳科学(著者の文脈でいうと,システム神経科学,ということになるのか?)にパースペクティブを与える部分は出色の出来だ。すばらしく見通しのいい道標を与えてくれる。
【2006年6月2日〜6月9日記;8月4日一部訂正・追記】