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Frank Notestein (1945)の一般化「19世紀末のヨーロッパ諸国における多産多死から少産少子への変化,とくに30年間で半分という低出生化は,近代化にともなって一般的に見られる現象である」が,人口転換理論のはじまりといえる。ただし,Notestein自身はそれをtransitionと呼んではいなくて,Kingsley Davisが同時期にでた論文の中でNotesteinの理論をtransitionと呼んでいる。transitionという表現を初めて使ったのはAdolphe Landryの"La Revolution Demographique"であり,それは1934年に出ている。
先駆的な研究として1929年のWarren Thompsonの出生力と死亡率の組み合わせによる人口分類(低死亡かつ急速な低出生による人口停滞=グループA:西欧諸国,低死亡低出生だが死亡率低下の影響がより大きい=グループB:東欧と南欧,出生も死亡も制御されていない「マルサス的」=グループC:世界の人口の70-75%を含み,30〜40年でBへ移行)がある。Thompsonの研究は15年間無視され続けた。LandryのアイディアもThompsonとほぼ同様である。さらにLandryは出生率低下の原因として「egotistical」な動機が大きいといっている。つまり,子どものコスト,子どもが親に痛みや苦難を与える能力,親の行動や休暇が制限されること,そしてもちろん女性が妊娠と育児において経験する諸問題のために,個人主義と自足を大事に考えるようになった近代化社会の人々は少ない子ども数を選択する,ということである。A.M. Carr-Saunders (1936)もヨーロッパの人口について同様な考察をしているが,彼らはこれを「理論」として一般化することは考えなかったらしい。
古典的人口転換理論には,大きく分けると次の3つのタイプがあると言われている(阿藤, 1996)。
人口転換=死力転換(死亡率の低下)+出生力転換(出生率の低下)
である。近代化に伴う死亡率の低下は直感的にも当たり前なので,出生率の低下にのみ言及する転換理論が多いが,出生と死亡を組み合わせて人口動態の変化の様相を統一的に説明しようとする試みとして,Omran (1971)の「疾病構造転換(epidemiologic transition)」理論(注:阿藤訳では「疫学的転換」)は触れておくべきであろう。
Omranは,死亡率の低下を死因の観点から(1)疫病と飢餓の時代,(2)世界的疫病後退の時代,(3)変性疾患(degenerative diseases)ならびに外因性疾患の時代,に3区分し,この3段階と出生力転換を組み合わせて,
に人口を区分した。この理論は,古典的モデルでは経済発展から疫病が後退しやがて近代医薬の進歩が起こったのに対して,遅滞モデルでは先進国からの近代医薬の流入によって急速な死亡率低下が起こったという違いを強調するものである。Omranの理論の発表後,先進国では変性疾患の死亡率も低下し始め,これをJay S. Olshanskyら(1986)は「(4)変性疾患停滞の時代」と呼び,発症の遅滞によってもたらされたとしている。その後もこの理論の発展は続いているが,出生力転換のメカニズムにはほとんど踏み込んでいない。
どの国でも同じように出生力が低下したというためには,経時的な国間比較のための出生力指標が必要である。プリンストン研究(Ansley J. Coaleが中心となってヨーロッパの出生力転換を研究)で,Coaleはデータが不十分な18世紀,19世紀のヨーロッパ各地の出生力,結婚,結婚出生力の統一的な尺度として,いくつかの間接的出生力指標を考案した。一名ハテライト指標と呼ばれるこれらの指標は,人口史上の最大自然出生力集団であるハテライトの年齢別出生率を基準とした相対指標なので,母の年齢別出生数のデータが必要ないという利点があり,出生力転換をデータで示すときに広く使われている。
記号 | 説明 |
---|---|
Wx | 当該人口集団のx歳女子人口(x in 再生産期間) |
Wx[m] | 当該人口集団のx歳有配偶女子人口 |
Wx[um] | 当該人口集団のx歳無配偶女子人口 |
B | 当該人口集団の年間の総出生数 |
B[m] | 当該人口集団の年間の嫡出出生数 |
B[um] | 当該人口集団の年間の非嫡出出生数 |
fx[H] | Hutterite集団(人類集団がこれまでに経験した中で最も高い出生力をもつ自然出生集団)の年齢別出生率 |
として,
総合出生力指標(If) = B/Σ(Wx*fx[H])
嫡出出生力指標(Ig) = B[m]/Σ(Wx[m]*fx[H]) (有配偶出生力指標)
非嫡出出生力指標(Ih) = B[um]/Σ(Wx[um]*fx[H]) (無配偶出生力指標)
結婚指標(Im) = Σ(Wx[m]*fx[H]) / Σ(Wx*fx[H]) (Im = If/Ig * B[m]/B)
と定義すると,If=IgIm + Ih(1-Im)が成立する。それゆえ,出生力を結婚と結婚出生力に分けて考えることができる利点がある。つまり,晩婚ならImが低くなり,早婚ならImが高くなるので,晩婚化が出生力低下の主な要因であるならばIgはそれほど低下せずにImが小さくなることによってIfが小さくなるという現象が起きる。19世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパ諸国のIgの変化を見ると,半減以上に減っていることがわかる。
出生率の低下を巡っては,古来いろいろな仮説が立てられてきた。大きく分けると,経済論,西洋化原因論,進化的解釈,進化心理学モデルがある。途上国での20世紀後半については,政府の介入の役割も無視できない(これは,政府の意図を考えれば経済論であるが,個人レベルの話でなく,抽象論でもない……近成要因の一つを国レベルではあるがダイレクトに扱うことになる……点で他の経済論とは異なる)。
純粋経済学的なアプローチである。大前提として,転換前の社会も転換後の社会も合理的な行動をとっていたと見なす。さらに,(ケインズ流の)近代経済学の金科玉条である「嗜好一定の公準」を認める。
すると,産業革命によって所得水準があがっても,子どもの養育にかかる相対的コストが上昇したことによって,子どもの質を同等に保つために子どもの数に対する需要が減少したと考えることができる。これがシカゴ派の基本発想である。Leibensteinによって,「理論の本質が計量経済学の便宜のためにねじ曲げられている」と批判されている。1973年のMichaelからは供給要因にも触れるようになった。しかし子どもの供給側面は,受胎能力,自然出生力,避妊,授乳,禁欲,その他の生理的,生物学的要素,及び出生力抑制を巡る動機づけや慣行など社会文化的要素が多く,経済的要素は少ないので,シカゴ派の純粋経済学的フレームでは扱うことが難しい(大淵, 1988)。
シカゴスクールの理論は,2つのタイプに分けられる。一つは子どもの量と質の相互作用に注目するミクロ経済学的接近であり,もう一つは出生力行動を主に女子の就業行動と結びつけた新家政学的接近である。現在では後者が主流である。「子どもの質」仮説を実証するために,Beckerは子ども1人あたりの支出を子どもの質の代理変数と捉え,質に対する需要の所得弾力性が量のそれより大きいことを論証しようとしたが失敗した。新家政学的接近の嚆矢はButz-Wardモデルである。これは出生力行動と労働市場を直接結びつけて所得変化に対する出生力の反応を見るもので,米国,英国,戦後日本のデータをよく説明できることが示されている。
しかし,「嗜好一定」には批判が多い。PollakとWatkinsは,「文化は特定の社会で個人が選択する行動のタイプを規定するから,ヒトの『合理的な振る舞い』自体が適切な範囲も,文化によって規定されるかもしれない」ことから,合理的な振る舞いが不変に保たれるという嗜好一定の公準は無意味であると論じている。
文化によって嗜好が変わるという論としては,女性の教育の影響を論じたClelandとWilsonの研究がある。Clelandは,各国の個人データに基づいて,既婚女子の出生児数の都市・農村間格差,教育程度別格差をみると,全般的に都市居住者は農村居住者より,教育年数の長い者は短い者より出生児数が少ない傾向があることから,近代化が女性の教育と地位の向上を通じて出生力を低下させたと論じている。メカニズムとしては避妊を考えているので,これはreproductive rightsの考え方に通じるものと思われる。出生力転換においては,避妊しても良いという新しい考え方の文化伝播が女性の教育によってもたらされたことを重視する。転換のタイミングが言語・文化的な境界に強く影響されていることが論拠である。
しかし,シカゴスクールの主張ともっとも激しく争ったのはEasterlinである。彼は,嗜好一定の公準を否定し,出産コントロールのコスト,及び子どもの需要と供給への近代化の間接的影響を論じた。
当初(1966-1975)は,子どもの相対価格こそが不変であると仮定し,所得が増えても子どもの数が減るとしたら,それは親の物質的生活水準に対する願望が上昇するためであるとした。1976年から子ども一人あたりの希望遺産額という概念を導入した点で子どもにかかるコストの変化も取り入れているが,相対価格不変ということと,供給因子をフレームに入れている点がユニークである。
イースタリンの説は,二つの仮説に分けられる。相対所得仮説(イースタリン仮説)と,需要供給理論である。需要供給理論では,前近代社会において出生力の超過需要状態があり,したがって自然出生力が現実に発現していたが,近代化によって子どもに対する需要(Cd)が減退し,同時に潜在供給(Cn)が高まり,調整費用(RC;抑制の心理的不快感と技術修得のための費用や心理的負担)が減るために,超過供給状態への転換が起こって家族制限への動機付けが生じたと説明される。近代化の初期には調整費用が大きいので抑制行動が具体化せず,しばらくは自然出生力が継続し,近代化による自然出生力の上昇によって出生力上昇も見られるが,近代化の進行とともに意図的な出産制限が起こり,超過供給状態が調整されて,現実の生存児数が需要と一致する点まで(BumpassとWestoffの「完全避妊社会」)出生力が低下する,と考える。
途上国の場合は技術移転によって初めから調整費用が小さいので,出生力低下はより急激に起こっても不思議はないことになり,現実と合っている。
Easterlinと同じく嗜好は一定でないとするものとして,Leibensteinの仮説がある。社会経済的地位,階級,集団による出生力水準の違い,つまり差別出生力の原因を,社会的地位に求めるものである。子どもを通常の耐久消費財とみなさず,拘束財と見なす点がユニークである。拘束財は,それへの家計支出がひとたびかかわりができると相当期間継続する点と,限界効用がある程度まで逓増的である点が通常の財と異なる。伝統的なミクロ経済学ではこの種の財は認めていない。
この論の根拠は,(1)人間は特定の目標に向かって進む種であり消費水準の達成は多くの個人にとって重要な目標,(2)人口はいくつかの社会文化的な集団に分割され,各家計はそのいずれかに所属する。その集団は社会的影響力集団(SIG)と呼ばれ,各家計の目標生活水準や家族規模の選好に影響する。SIGは社会経済的地位の集団と同じではないが単純化のため同一視してもよい,(3)SIGには構成員の共通目標があり,これによってある商品─健康,保険,教育,住宅など─が目標財となる。目標水準に達するまではその限界効用は逓増的でありうる。 集団は階層的で下層ほど目標を達成しにくい,(4)目標を達することは家計にとって一種の債務である。この債務には臨界的最小値があり,その水準までは限界効用の逓増が続く,(5)家計と個人は支出の一部によってその地位感覚を表現する,(6)家計所得の標準はSIGによって異なり,各SIGは主だった財について目標消費水準を決定する(地位財),(7)同一SIG内の競争は目標債務への要求を増大させ,非債務所得を圧迫する。その傾向は所得上昇によっていっそう強められる,である。
このフレームでは,支出の逓増的な限界効用が大きくなれば,高所得集団に属する家計の子ども数が低所得集団に属する家計の子ども数より小さくなる場合があることは明らかである。しかし,効用関数や需要関数が定式化されていないので,まったく実証を試みられていない(大淵, 1988)。
一方,社会体制の変化に出生力転換の原因を求める別の仮説としてMoskの論がある。これは,19〜20世紀のユーラシアでの出生力低下は,家父長制のもとにあった「前近代的人口体制」から「近代的人口体制」への移行によると論じるものである。有配偶出生力指標(阿藤訳では「嫡出出生力指標」)Igが高く,死亡力が低いところでは,経験的にImが小さくなる(晩婚になるか生涯未婚率が上がる)傾向があることに着目したモデルである。前近代的人口体制における家父長制のもとでは,小農の家計は,一定の土地を所有し,生産と消費について意思決定を行うが,決定主体は家長であり,家長は自らの効用(所得)極大化と家系の継承(家族の存続)を目的として行動する。家族内部では家長が子どもたちの結婚と職業選択について決定権をもち,遺産と結婚持参金を統制手段として子どもの労働用役を獲得する。子どもは家を離れれば家長支配を免れるが,同時に一切の権利を失う。家長は息子の1人によって相続され,その時点で他の子どもたちは親元を離れる。娘は稼ぎのある男性と早く結婚して所得の極大化をはかり,老後の保障を得ようとする。
こうした社会で,家長がとれる人口行動は,家計内になるべく多くの男子労働力を確保することを目指すことになる。妻の経済的価値は若いほど不利であるが,受胎能力は適齢期を境に低下するので,遅くなりすぎない限り高い年齢の妻を得て,自然出生力戦略を用いて比較的短い出産間隔で出産を続けることになる。家長自身の結婚年齢は,相続が家長の死亡か引退時にしか起こらないことから晩婚が合理的である。なお,死亡率と疾病罹患率は共同体の健康状態に依存する。
これを集計的なモデルに拡張すると,所得が高くなると健康状態がよくなることを通して自然出生力が上昇し,同時に死亡率が低下するので,女子の平均結婚年齢が上昇することになる。自然出生力があがることは現実の出生力に正の効果をもつが,結婚年齢上昇は負の効果をもつ。それがバランスしていたと考えれる。
近代化が起こると,子どもに対する経済的支配を保つためにかかるコストが増大し,さらに支配から生ずる労働力という便益が減少するので,家族成員間の力関係が変わって家長の権力が衰える。子どもに対する支配の純利益が減少するので,自然出生力戦略をとることが必ずしも合理的でなくなり,出生児数に応じた出産抑制をするようになる,ということで,出生力転換が説明される。
これまでの議論では,近代化に伴う人口動態の変化としてきたが,原因が近代化というよりもむしろ西洋化(Westernization)と考えるべきだ,というのがCaldwellの意見である。つまり,Westernizationが一人の子どもへの投資の集中を伴う核家族化をもたらし,「世代間の富の流れ」が「子どもから親への流れ」から「親から子どもへの流れ」に変わって,それが出生率低下の原因であるとするのである。流れの逆転だけなら,子どもが生産財から消費財に変わったというのと本質的な差はないが,それがWesternizationがもたらした社会文化的な諸変化によると考える点がユニークである。
ここでいうWesternizationは,進歩,世俗化,大規模教育,環境へのヒトの優位といった概念を含むものである。これは経済的発達に先行し,Bangladeshやアフリカ南部のようなところでも出生力転換が起こったことを説明するのに有効であった。Cain (1982)が拡大家族では老人が子どもの代わりに働けるから,老人が働けるように投資する選択もありうるはずで,核家族化がprimaryというアイディアには反対しているし,データで実証されていないが(Dow et al., 1994のケニアのデータで実証しようとする試みは失敗している),魅力的な仮説ではある。
出生力の理論は,出生力の全般的な低下と,富のような独立変数と出生力の間に観察される関係の両方について,何がもたらしたのかを特定すべきである。また何故それが人口転換をもたらしたのかを,より広い出生力理論(近成要因モデルのような)に基づいて説明できなければならない。人口学は学問分野としてそれ自身の理論をほとんどもたないため,経済学や進化論のモデルが利用されてきたわけだが,最近の総説によれば(Robinson, 1997),経済学の出生力に関する理論はいくつかの概念的な弱点があることを示唆している。最も顕著なのは,需要志向のモデル(「何人の子どもを欲しがるか?」)は,何故ヒトが今あるように振る舞うようになったのかを説明しないことである。つまり,現実に子どもをもつことは必ずしも合理的な行動ではないし,子どものコストは経済的価値として測れない部分が多いのに,経済モデルはそれらを扱えない。合理的判断をすると仮定し,経済学的尺度でモデルを構成するだけである。
では進化論ではどうか。もっとも根本的には,なぜ生物がいまあるようにデザインされているのかを,適応度と自然淘汰という概念を使って説明することができる。経済学はそうした因果推論を提供しない。出生力に関する限り,進化的モデルは,出生力がどのようにして環境の外因的な特性によって影響されるらしいかということを,生理的,心理的なメカニズムとの関連で定式化するのである(Kaplan, 1996; Ellison, 1993)。ヒトの行動のすべての面が適応として特長づけられるわけではないことは徐々に認識されつつあるが,出生力の多様性は単純な適応モデルが少なくとも開始点としては価値をもちそうな一つの例なのだ。そういうモデルが失敗したら,進化的ではあるが明らかに適応万能主義的ではない視点を調べることになる。大きく分けると,これまでの進化的な仮説は3つのタイプになる。
再生産行動のもとになる心理的なメカニズムを考え,それが進化的に淘汰されてきたと考える。経済的に豊かな社会階層の人ほど子どもが少ない(逆に見れば「貧乏人の子沢山」状態)ことに着目し,子どもを残すことへの最適化でなく,1人当たりの物質的豊かさに向かっての最適化が起こったと考える。material wealth per personはfitnessとtrade offの関係にある。ある意味では「子どもの質」論なのでシカゴスクールと相通じる点があるが,本質的な違いはそれらを遺伝する適応戦略と見なして淘汰を考えることである。
Rogersのモデル(資産が継承できる)では,haploidでは子や孫世代の人数について資産の方が出生力よりよい予測因子になること示されたが(Rogers, 1990),diploidでは失敗している(Rogers, 1995)。
Kaplan & Lancaster (in press) New Mexicoの男について家系毎のenergetic resourceを最大化するような淘汰がかかるというモデルで成功しているが,人口転換前のヨーロッパ社会ではうまくいかない。
「家族の物的所有」を考えると,長子相続(primogeniture)と末子相続(unigeniture)が,貧困と家族の地位低下を防ぐ戦略であり,かつ子殺しが後継ぎの数を適正に保つために行われることすらあると解釈されてきたが,現代アフリカの多くの国では,できるだけ多くの子を産もうとしている。少なくとも出産間隔の短さと子の生存がtrade offの関係にある。そこでLuttbeg et al (in press)が立てたモデルは,次のようなものだ。
個々の人は,生活史的な決定として,terminal payoff(富か子ども)を最大化することを選ぶものとする。このモデルは男性の結婚歴からなり,いつ次の妻を娶るかを予測することを目的とする。男性は,資本(家畜と土地),妻の数,子の数という特性をもつ。経済的生産性は,資本及び妻の労働と,さまざまな確率的影響による。家族が食べた後の,食糧の純余剰は家畜に投資される。子どもは生まれ,病気と教育についてコストがかかる。そのコストは家畜を売ることで賄われる。妻を娶ることはコストがかかり(婚資の支払い),すべての男は次の妻を娶るかどうか,毎年選択することができる。この社会では離婚は存在しない。分析は3つのステップからなる。
結果は,富を最大化することに重みが大きい場合が現実に適合していた(ガンマが0.7あたりで誤差が最小)。パラメータを変えてもピークが半分より左に行くことはなかったので,結果は安定しているといえる。
Correspondence to: minato@ypu.jp.