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2012年9月のパプアニューギニア往還記

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2012. Last Update on 2012年9月28日 (金) at 19:22:35.

【第4日目】 カパール村入り(2012年9月11日火曜)

朝食を食べてから部屋にいたらJr.IN氏が来てくれて,MAFのエージェントから連絡はあったかというので,無いというと,MAFのエージェントに連絡してくれた。エージェントが9:30に飛行機の時刻を教えてくれるというので待っていたが,9:40になっても連絡が来ないので不安になってきていたところ,再びJr.IN氏が来てエージェントに連絡してくれた。結果,10:00に飛行機が出るのですぐにチェックアウトして飛行場に行けと言われたので,慌てて荷造りをしてホテルをチェックアウトし,ホテルの車で飛行場まで連れて行ってもらった。ソロモン諸島の某ホテルと違って,送迎がすべて無料なのがこのホテルの利点だと思う。

飛行場でもエージェントがまだいないし,MAFという会社はチェックインカウンターが無くてパイロットに直接料金を払って乗せてもらう形なので,途方に暮れかけたが,再びJr.IN氏がエージェントを探してくれて事なきを得た。実は荷物が重すぎて,既に乗り込んでいた地元の人たちの荷物の一部を外に出して別送するということをしないと,我々の荷物が載りきらなかったとか,それでもコパイロット席まで使って5人乗りのセスナ機なので,コパイロット席に座ってとてもいい眺めだったとか,いろいろあったが,何とか無事にカパール村の飛行場に到着したのは11:20頃だった。

1997年以来だから15年ぶりに会う村人たちと感動の再会を果たしながら村の中央部に歩いて行き,15年前はまだ少年だったB君が建てたという家に落ち着いた。残念ながら,B君の父で,以前は村の長老だったI氏は既に亡くなっていたが,お母さんとお姉さんは健在で同居しており,他に2人の若者が同居していたが,我々のために1部屋空けてくれるくらいに大きな家であった。前の村長(現地ではカウンシラーと呼ばれる)が非常に有能な人で,残念ながら40歳代の若さで夭逝してしまったのだが,どこからか援助を引っ張ってきて,村中の家がトタン屋根になっていたのには驚いた。トタン屋根だと熱がこもるので熱帯にはあまり向かない気もするが,雨水をためるのに使えるのと,草葺きに比べて長持ちするので好まれるようだ。

子供が非常に多く,しかも高齢の人たちが15年前とあまり変わらない様子だったので,人口がかなり増えている印象を受けた。聞くと400人というので,もしそれが本当なら15年間で倍増に近いことになるが,たぶんそこまでは増えていないだろう。

まだ熱帯の気候に慣れていないためか,何もしていないのに妙に疲れているが,まずは先発隊と連絡をつけなくては今後の予定が立たない。どうしようかと山内さんと話しながら,元長老I氏の墓参りに向かっている途中,山内さんの携帯電話(Nokia E71にポートモレスビーで買ったDigicelのSIMを挿したもの)に先発隊萩原さんからの電話が入った。カパール村内部ではアンテナが立たないのだが,開けた場所に出ると電波が通じるようだ。凄いタイミングの良さだ。電話の内容は,これから歩いてカパールに向かうというものであった。先発隊はカパールよりさらに奥のルアルという村に2週間いたため,バッテリーが切れかかっていて,あまり連絡もできなかったそうだ。

墓参りを済ませて村に帰ってきたら疲れたので,B君の家に蚊帳を張って,夕方までその中で休んでいた。すると17:00頃に戸外が騒がしくなった。先発隊がルアルから到着したのだった。先発隊は翌日の飛行機でウィピムという村からダルーに戻ることになっていたが,車のアレンジを頼んだIN氏と連絡がとれていないので,ぼくらの電話を借りて連絡をとったり,情報交換をするために,カパールまで来たということであった。実はぼくらが来るときに乗ってきた飛行機は,カパールの前にウィピムにもいったん着陸して何人かの乗客を降ろしたので,そこで少しMAFのエージェントと話してきたのだが,どうもIN氏が日程を1日勘違いしているようで,IN氏はまだウィピムに不在で明日来るとのことだったし,エージェントが次の飛行機は金曜だと言っていたので,どうも話が違う。そのことを先発隊の2人に伝え,ぼくのNokia Jazz 303を貸して見晴らしのいい場所に行ってIN氏に連絡をとってもらうことにした。

連絡が取れた結果は最悪で,もしかしたら飛行機がカパールに来る可能性はあるものの,ルアルからウィピムに荷物を運ぶ車が手配できないということであった。そこでカパール村のエージェントに話して,明日カパールからダルーに行ける飛行機が手配できないか交渉して貰うことにした。望み薄とのことだが,それでダメなら,カパールからカヌーとディンギーを乗り継いで行くしかない。それもチャーターになるので,かなり高くつく。一縷の望みを託す先発隊の表情には悲壮感が漂っていた。

ルアルから先発隊2人と一緒に来てくれた村人が,夜のうちにルアルに戻って,早朝に若者を連れて先発隊の荷物をカパールまで運んでくれるというので,先発隊2人は明日までカパールで待てばいいことになったのは,唯一の救いであった。

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