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Papua New Guinea 1989
-- first fieldwork --

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 1990-2009. Last Update on April 22, 2009 (WED) 18:26 JST .

1989年の夏といえば,ぼくはまだ修士課程2年の学生で,調査どころか飛行機に乗るのも初めてで,パプアニューギニアでの調査を前にして期待にうちふるえていた。このときの調査は,栄養状態と遺伝的情報を得るための採血を大きな目的にしていたので,血液処理要員が必要で,それまでフィールドワーク経験が殆どないぼくにも,パプアニューギニアの,それもギデラという大塚さんの本拠地で,調査に参加させてもらえるチャンスが訪れたというわけだ。

血液処理という仕事内容のため,出発前にはコレラ,破傷風,狂犬病からB型肝炎に至るまで,ありとあらゆる予防接種を受ける必要があって面倒だったし,遠心処理用のポリプロピレンチューブや発電機,遠心分離器など道具の手配も,かなり大変だった。さらに,採血パトロールが始まる前の1ヶ月間はさておき,パトロール中は不眠不休に近い生活を経験することになった(生食で血球を洗うとか,全血を冷蔵で持ち帰るとかいった,さまざまな処理があったので,手間が大変だったのだ)。出発前にはそんな事態に陥るとはつゆしらず,はしゃいでいたのは,実に若気の至りといえようか。

The first day (1989.July.6)

1989年7月6日早朝,東京駅八重洲口タクシー乗り場に着いてみると,他のメンバー,すなわち大塚柳太郎(当時は東京大学人類生態学教室助教授,同教授,国立環境研究所理事長を経て,2009年4月からは(財)自然環境研究センター理事),河辺俊雄(当時は東京大学人類生態学教室助手,現在は高崎経済大学教授),秋道智彌(当時は国立民族学博物館助教授,現在は総合地球環境学研究所副所長・教授),稲岡 司(当時は熊本大学公衆衛生学教室助手,現在は佐賀大学教授)は,既に揃っていた。事前の打ち合わせ通りに,皆,麦藁帽子をかぶってきていた。当時のぼくは,昼過ぎにしか大学に行かない日常生活を送っていたので,たぶん遅刻するのではないかと懼れられていたのだろう,待ち合わせ時刻5分前の5:45に着いたとき,他のメンバーは,一様にほっとした様子だった。

タクシーに分乗して箱崎に着いたのが5:56で,6:00発のリムジンバスにぴったりのタイミングで乗れた。ここで,いきなりハプニングがあった。バスに乗ってから,研究室の鍵がついた小銭入れをタクシーに置き忘れてきたことに気づいたメンバーがいたのである。結局,後日無事に戻ってきたのだが,この時の我々にとっては,実に前途多難を思わせる出来事であった。7:10に成田に着くと,検問があった。ボディ・チェックもある,まじめな検問だったので驚いた。我々の大荷物(調査用具のかなりのものは別送してあったのだが,当日運んだものだけでも,相当な量だった)のうち,発電機が問題にされかかったが,何とか無事に通過して,ほっとしたところで,第2の難関が我々を襲った。半ば予想していたことだが,被験者へのお土産として古着をたくさんダンボールに詰めて運ぼうとしていたこともあって,チェックインのところで,莫大な超過料金を請求されたのである。予算に余裕がなく,そんなに払えるわけもなかったので,その場で荷物の詰め替え作業が始まった。古着だけのダンボールを3つ作って研究室に返送することにし,機内持ち込みの手荷物も限界まで増やして,何とか5万円の超過料金で許してもらったのだが,古着が詰まったダンボール3箱(1箱20 kgの重さがあったので,合計60 kgである)を1階の宅急便カウンターまで運ぶときは,気分がどんよりと沈んでくるのを抑えられなかった。

出国審査やボーディングは意外なほど無事に済んだのだが,機内にもちこんだ発電機と血液サンプル保管用のバッグ3つが,大きすぎて頭上のボックスにも前の座席の下にも入らず困った。いや,大きすぎることは最初から見えていたので,本来は預けるはずだったのだが,超過料金騒ぎで,急遽機内持ち込みに変更したものだったので,困ることはわかっていたのだが。困っていても仕方ないので,フライトアテンダントさんにお願いして,別の場所に預かってもらえることになったのは,不幸中の幸いというか,捨てる神あれば拾う神ありというか,ともかく救われて良かった。今にして思えば,これも最後は救われるという人類生態の伝統の一環として位置づけられるかもしれない。

サイパン,グアムを経由して(transitなので空港の外には出ていないのだが,空港の売店で,円で買い物をするとドルでお釣りがくるのが面白かった。日本でタクシーに小銭入れを忘れたメンバーが,グアムで小銭入れを買っていたのも面白かった),ポートモレスビーに到着したのは21:16だった。入国手続きの途中,税関でもめたこともあり(荷物が多すぎたため。結局その場では受け取れずに,空港に残しておくことになってしまった),全員,疲れきっていて,タクシーを拾ってオーストラリア国立大学のロッジに着くやいなや眠りこんでしまったのも当然だろう。初めてみた外国の町としてのポートモレスビーは,いかにも「作られた都市」という感じであり,気温は高いけれども湿度が低くて過ごしやすく,蚊などもほとんどいなかった。勢い込んでいたわりに,あまり東京とかわらないので,なんとなく拍子抜けしてしまった。

Port Moresby Days (1989.July.7-11)

JICAの人と会ったりパプアニューギニア国立大学の図書館で調べ物をしたりしているうちに,日は飛ぶように過ぎた。

Go to West, Daru Days (1989.July.12-17)

7月12日になって,いよいよ調査地である西部州の州都ダルーへと出発した。プロペラ機で1時間ほどだが,ダルーに着くとさすがに,「おお,パプアニューギニアにきたなあ!」という雰囲気がした。家もみなオーストラリア式の高床造りだし,いかにもサバンナ気候,という感じなのだ。ここでは海外青年協力隊の安田 栄さん(残念ながら既に故人となられた)の家に居候させていただいた。安田さんの料理があまりにも旨いので,たいへん感激した。とくにカニサラダが絶品で,そのおかげで,すっかり太ってしまった。

パトロールの時は,大荷物をかかえて移動しなければならないので,エンジンカヌーやランドクルーザー(ヘルスセンターに一台ある)で移動することになっていた。そのとき船外機や自動車,あるいは発電機を動かすために石油が必要だったので,前もって買って送っておく必要があった。容器はこちらで用意しないといけないので,我々はドラム缶8つと2リットル入りのオレンジジュースの空き瓶を5つと4.5リットルの石油容器を1つ用意して,ドラム缶にはエンジン駆動用のディーゼルとズーム(オイル入りガソリン)とスーパー(ガソリン)を,小容器にはランプ用のケロシンを買った。このときBritish Petroliumの売り子が「その入れ物なら17リットルはいけるはずだ」とごねるので17リットル買ったら,ケロシンが0.5リットル余ってしまい(当たり前だが),道にドボドボこぼれた。もったいないことだ。しかし,よくよくみると道には油がこぼれた痕跡がたくさんあったので,あの男はどの客にも多めに売りつけていたのだろう。ダルーまでくると,オイル自体の値段よりもここまでの輸送費のほうが高くつくのかもしれない。

ダルーでは,昼はそうした準備の他は,西部州政府のヘルスデパートメントと交渉して採血の資格をもつ医師を手配してもらったり,ギデラ族の居住地のうち内陸の村落へ行くための飛行機をチャーターしたりして,比較的忙しく過ごていたが,夜はこれまでの調査でお世話になった人たちと安田さんの旨い料理を肴にビールを酌み交わす楽しい日々であった。それでも,調査の具体的な計画をつめたりして,だんだんと調査の雰囲気がもりあがってきた。そうこうして迎えた7月17日,いよいよ村へ行く日となった。しかし,例によってすんなりとはいかない。14:00に着くはずのチャーター便が,待っていても影すら見えないのだ。「いやー,30分来ないなんてのはざらですからね。前なんか,一日目,こない。二日目,こない。村人たちから心配されながら,朝から夕方まで飛行場でぼーっとしているのもね,まあいいもんですよ。まあ,あのときは三日目にきたのかな」なんて話をきくと,だんだん心細くなってくるのだった。結局,このときは15:30過ぎに飛行機が着いたので,16:00にギデラの村の一つである,ウィピムに着くことができて事なきを得たが。

Village Life (1989.July.18-Aug.8)

ウィピムで一泊した翌日,州政府のヘルスセンターのランドクルーザーに乗ってカパール村に到着し,いよいよビレッジライフの始まり。「セボレ!」という挨拶を交わしながら,大勢の村人と握手をして,これから居候をさせてもらう家に荷物を運び込んだ。ここでは,家の中に鶏が舞い上がってきたりするのは困りものだが,概ね平穏な日々が過ごせた。唯一困ったのは,パプアン・ブラックという毒蛇に妙に好かれたことで,ちょっと遠出をするたびに出くわすのだ。完全に咬まれると死ぬ可能性もあるので,これは本当に困りものだった。それと,ここでは猟犬をたくさん飼っているのだが,ピストンという巨大な奴が一頭いて,こいつだけが梯子をのぼって家に入ってくるのも困りものだった(イモなんかをのんびり食べているとピストンに盗まれるので)。もう一つ嫌なのはヒルで,道を歩いていると地面でゆらゆらと動いているような奴なのだ。これがしばらく道を歩いたあとでは足に群がり吸いついていて,血を吸ってパンパンに膨れ上がっていて,腹が立つことこの上なかった。

ここでは,朝,明るくなって鶏の鳴き声がするのと共にめざめ,トイレに行って(ここのトイレは深い穴を掘って屋根をつけただけの単純なものだが,実に清潔でよかった),聞き取り調査をちょっとやってからサゴヤシかヤムイモの朝食を食べて,集団でのハンティングがあるときは一緒についていって,そうでなければ村の中で女性たちに聞き取りをしたり,昼寝をしたり,水浴びをしたりして過ごし,夜になると教会に集まって(ここの人たちはパプア福音伝導教会派のキリスト教を信仰しているので,毎晩19:00にお祈りがあった)ギターの伴奏にあわせて合唱をしてから,家に戻って22:00くらいまで聞き取りをしてから眠る,という実に健康的な生活をしていた。聞き取りの内容は,人口静態調査と,既往出生児数調査が主だったが,時間がたっぷりあったので,ことばとか生活のしかた,ものの考え方などについてもいろいろ話を聞くことができた。まあ,中身についてはここでは語り尽くせないので省略するが,驚きの連続であると同時に,生活は全く違うけれども,日本人もギデラ族も同じ「ヒト」なのだなあと感動したとだけ言っておこう。

Patrol (1989.Aug.9-Sep.6)

8月9日。採血パトロールが始まる予定の日なので,ぼくは全ての予定を終えて村で待っていた。しかし,いつまで待っていてもパトロール隊が到着しない。連絡用のトランシーバーは役に立たず,結局この日はなにもすることがなくてぼんやりと過ごすしかなかった。翌日の16:30になって,やっとパトロール隊がきたときには,待ちくたびれて風邪をひいてしまっていた。遅れたのはランドクルーザーの故障が原因だったそうで,仕方ないのだが,トラクタで到着するのと同時に,いきなり身長,体重,血圧の測定と採血がはじまり,20人でその日はやめたのだが,血液処理完了は1:30(深夜の!)になっており,文字どおり泥のように眠った。

しかし,翌日はもっと大きなハプニングが待ち受けていた。朝食前に数人,採血をしておこうということになって,6:00に起きて採血を始めたのだが,4人目の男が採血中,急に気を失って倒れてしまったのだ。我々は一瞬,目の前が真っ暗になった。倒れた男の安全も気がかりだが,これがきっかけで採血を拒否されたら今回の調査は終わりである。それどころか,我々の生命の安全さえ危ないかもしれない。しかし現地の医師が「自分の血を見たためにショックを起こしただけで心配はない」と落ちついて言ってくれたおかげで,我々も冷静さを取り戻し,村人たちの間にも大きな動揺は起こることなく,採血を続けることができた。本当にいい医師が協力してくれて助かった。結局それは,本当に一瞬ショックを起こしただけでたいしたことはなく,しかもその後約700人から採血をし終わってみれば,気絶したのはその男だけだった。彼には「情けない奴」という評価が定着したことは言うまでもない。その日の血液処理が終わったのは3:00で(もちろん深夜の!),結局実労働時間21時間という,すさまじい生活を送った。翌日からもパトロールの間はずっとこんな感じで日々が過ぎて行ったのだった。

村と村の間の移動は,前半はトラクタまたは(途中から直った)ランドクルーザーだったが,トラクタはどろどろの道でぬかるみにはまって1時間半も動けなくなるし,ランドクルーザーはたびたびエンストを起こすし,予定通りにいかない分,どんどん睡眠時間が減るのであった。しかし,我ながら感動したが,これこそ適応というのだろうか,しだいにどんなに短い時間でもどんな場所でも眠れるようになってきた。トラクタの上で5分とか,遠心分離器を回している間に5分とかで疲労が回復できるようになった。若さってすばらしい。

ところでランドクルーザーのエンストだが,この原因が傑作だった。ガソリンをドラム缶から入れるせいでガソリンと紙屑や土砂が混じってしまい,ときおりガソリンタンクの弁のところが紙屑でつまってしまうということだったのだ。これを解消するために,エンストが起こるたびに手押しのポンプをガソリンタンクにつないで空気を吹き込むという技が使われ,本来はお土産でもっていったサッカーボールやバレーボールに空気を吹き込むためのポンプが意外な形でも役に立って,我々を感動させてくれた。初めてこの状況に接したとき,河辺さんが,「中澤君,これはロールプレイングゲームにしたらいいんでない? アイテムとして,手押しポンプが車の修理に役に立つなんてことは,普通の人には絶対思いつかないし」と言われたのには,なるほどいいアイディアかもと思った。もっとも,冷静になって考えてみると,さすがにそんなゲームをしたがる人はいないような気もするが。

後半はダルーを中心としてカヌーで河岸や海岸の村を回ったので,移動は楽なはずだったが,そう易々とは片づかないのだった。我々を襲った最後の大事件の顛末を書いておこう。

そのとき,我々は,河岸の始めの村で採血が終わった後,午後の陽射しの中をのんびりとダルーへ帰る途中だった。河口にさしかかった所で,突然なにか変な音がした。誰もが「なんだなんだ」と騒ぐばかりで原因がわからない。そうこうしているうちに,誰からともなく,「カヌーがとまっている……」という声が上がった。そう,船外機が海に落ちたのだった。船外機には予備などないし,引き揚げる道具もないので修復は不可能だ。仕方が無いので,河口に漂着して助けを待つことにした。

最初のうちは,砂浜でしばらく暇な時間ができたので,リーダー大塚さんはともかく,他のメンバーはシオマネキをつかまえたりしてのんびりした時間を過ごしていた。そのうち誰かのボートが通りかかったら網か何かで船外機を引き揚げてもらえばいいだろうし,近くの村のカヌーに乗せてもらうこともできるだろうし,まあ何とかなるさと高を括っていたのだ。

しかし,待てど暮らせど,ボートもカヌーもなかなか通りかからない。1時間くらいして,近くの村まで歩いて助けを呼ぶかと思い始めた頃に,漸く近くを通りかかった小型のモーターボートに大塚さんが乗って,ダルーから助けを呼ぶことにした。しかし,モーターボートでダルーまでは15分程度なのだが,大塚さんがなかなか戻ってこない。だんだん太陽が西に傾きだし,辺りが暗くなってくるにつれて,我々残りのメンバーの気持ちも暗くなってくるのだった。結局,船外機を引き揚げるような作業は翌日以降にやってもらうことにし,ダルーのウェスタン州保健局のボートを出してもらって,大塚さんがこの砂浜に戻ってきたのは,もう日没も近いかという頃だった。待ちくたびれた我々は,血液サンプルと私物だけをもってボートに乗り込み(それでもかなり窮屈だったが),とりあえずダルーに戻るしかなかった。調査用具とか海に落ちた船外機とかいったものも,翌日無事に回収できたと記憶しているので,結局は最後は救われたのだが,危ういところだった。

そんなハプニングもあった反面,素晴らしい経験もできた。8月31日,河岸最後の村ではSeventh Day's Adventistというキリスト教の一宗派が流行していて,我々のパトロールによる採血を拒否する人が多かったので,二日滞在する予定を一日に変更して憤慨しつつ河を下って帰ったのだが,河口の付近で夜になり,所謂蛍の木を見ることができたのだ。数え切れないほどの蛍が乱舞する様子があまりにも美しくて,それまでの疲れも吹き飛んでしまった。しかも,その後,最後に行った海岸の村では鴨獲りに行ったり地曳き網をやったりする機会もあり,お祭りがあったりして非常に楽しく過ごせた。こんなに楽しんでばかりいてよいのだろうか,という程だった。もっとも,鴨獲りというのは,夜中に懐中電灯と棍棒をもって沼に入り,鴨の光る目をめがけて棍棒を振り下ろすというもので,動きの鈍いぼくでは1羽も獲れなかったし,沼に浸かったズボンの裾が足に張り付いたところを,嫌というほど蚊に吸血されたので,誰でもこれを楽しいと思うかというと難しいところだ。当時のぼくにとっては,確かに楽しかったが,いまだったら避けたいと思うかもしれない。

すべての調査が終わって,ダルーで2日ほど過ごしてから,9月6日にポートモレスビーに戻る飛行機に乗るときは,名残惜しくてたまらなかった。不思議なもので,初めのうちはそれほどうまいと思わなかったサゴヤシとヤムイモだが,ポートモレスビーに戻ってみるとあの味が忘れられず,もう一度食べたくなって困ったものだった。そこから日本に帰るときのことは,もうあまり覚えていないが,初めてのフィールド経験がこういうものだったことは,その後のぼくの研究生活に,間違いないく大きく影響したと思う。


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