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2006年ソロモン諸島往還・夏の陣

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2006. Last Update on January 10, 2007 (WED) 19:03 JST .(3点ほど写真を掲載)

このページは,オリジナルの記録から,公開用に多少詳細な情報を削ったものです。

往路(2006年9月8日金曜〜9月9日土曜)

QFは予定通り成田を発った。前回と異なり,チェックインカウンターの人は良くわかっていて,預け荷物(597円で買った,本来はバーベキューコンロ用の大きな布製バッグに入れたもので,16 kgあった)はスルーでホニアラまで行くけれど,人の発券はブリスベンでカウンターに行くようにと言ってくれた。機内では音楽を聴きながら,西澤保彦『神のロジック 人間のマジック』文春文庫(amazon)を読了。ちょっと無理があるような気もするが,傑作といえよう。素直に読まされる結末自体衝撃的だが,実は別の真相の可能性だって消えておらず,それが原理的に判別不可能だということを考えると,その深さに畏れ入る。機内映画はつまらなそうなので眠った。ビジネスクラスなら『ダ・ヴィンチコード』か『ミッションインポシブル3』が見られたんだが,格安エコノミーでは仕方がない。

食事は晩と朝で2回食べた。わりと美味だったが,それ以上にとくに書くことはない。現地時間7:30頃(日本時間6:30頃)ブリスベン着。Transit Passengerの案内板に沿って歩き,セキュリティチェック(トランジットの客にこれをやるのは無駄だと思うんだが,ここは前からこうなっている)を通ってからTransfer Deskに着いて,チケットを出してソロモン航空のBoarding Passを発行してもらった。さて,券面に書かれているボーディング開始まで,あと2時間,何をしよう? と思ったが,とりあえず持参した2冊目の小説,仙川環『転生』小学館文庫(amazon)を読み始めた。

ちょっと喉が渇いたので,ホール中央の両替屋の隣にあるATMからCITICARDでAUS$200を引き出し(そんなに使わないが,どうせ帰りの宿泊もあるし,日本への土産物も買うだろうから),ホールの端にあるカフェでCafe LatteのLargeとハムチーズトマトのトーストクロワッサンを買って食べながら,7割くらいまで『転生』を読んだところで,現地時間の9:00頃になった。9:30に87番ゲートでボーディング開始と券面に書かれているので,そちらに向かった。たぶん空港ビルが拡大して新しくできた,一番端のゲートなのはいいとして,途中にセキュリティチェックができていたのには驚いた。時間が早いので,ぼくが通ったときにはまだ機能していなかったが,ここでチェックする意味が不明だ。工事中だから,作業員に扮して紛れ込むテロリストがいたら困るということかもしれないが,それなら作業員が空港に入るところでチェックしたらいいんではなかろうか。建築資材までセキュリティチェックするなんてことは不可能だろうから,仕方ないか?

問題は,87番ゲートには違う行き先が表示されていて,9:10 Boardingとなっているんだが,その表示が一向に変わらないことだ。しかも,周囲に出発を待っている客は大勢いるんだが,係員がいない。それでも9:30まで『転生』を読みながら待ってみたが何も動きがないので,漸く機能し始めたセキュリティチェックのところへ戻って,係員に聞いてみた。すると,たぶんゲートが変わったんだろうから,センターホールまで戻って電光掲示板をチェックしてみろという。成田だったらもう少しいろいろなところに掲示板くらいあったと思うが,ブリスベン空港はセンターホールにしかないのだ。言われたとおり行ってみると,何とセンターホールを挟んでまったく反対側の端にある76番ゲート発に変わっていた。しかしBoardingはまだのようだ。せっかくセンターホールに戻ったことだし,売店をちょっと眺めていたら,1週間分メモリー可能な万歩計があったので,衝動的に買ってしまった。時刻をセットしておいて,日付が変わると自動的にカウントがゼロになる(前日分はメモリに記録されるので,一週間以内なら,後で呼び出せる)のは便利だと思う。

76番ゲートに着いてみると,IE701 10:30 Departureと表示されているのだけれども,Boardingがいつ始まるのかは,さっぱりわからない。仕方ないので『転生』を読み進めていたら,IE701は86番ゲートからBoarding開始というアナウンスが流れた。周りで待っていた乗客も慌てたが,係員も慌てていて,マイクに向かって,今のアナウンスは76番の間違いなので訂正するようにと要請していた。何だかブリスベン空港の管理体制はいま一つだなあと思う。5分ほどして,無事に76番ゲートからのBoardingが始まった。工事中のためか,飛行機まで戸外を延々と歩くのには驚いたが,いい天気だ。到着時の気温は15℃ということだったが,いまはもう少し上がって,たぶん20℃くらいと思う。乗機が済んで離陸したのは10:40頃だった。7割くらいの席が埋まっていたが,ぼくの並びの8列目は,ぼくのA席と,反対側のF席にしか客はいなかった。BOEING 737-400という機体で,カンタスとのコードシェア便であった。

11:00頃,『転生』を読了した。ストーリーの仕掛けは最初の方でわかってしまったが,スピード感ある描写が読ませる。解説ならぬ「解読」で読書家という肩書きの方が書かれている読み筋は当たっていると思う。鍵を握る医師があまりに間抜けすぎるとか,京都国際会館の国際会議で偶々噂話を耳にできるとかいった,ご都合主義な点はあったが,まあ楽しめた。気がついてみると,機内上映が始まっていた。この路線は普通,映画はやらないんだが,変わったのだろうか。カンタスの機内誌による案内でも,この路線は映画上映する中に入っていないので,もしかすると,最近やるようになったのかもしれない。Poseidonというパニック映画で,極限状況で人がどんどん死んでいく話であった。いつも希望を捨てずに,しかも細心の注意を払っていなくてはならない,それでも運が悪ければ死んでしまうほどこの世は無常で理不尽さに溢れているのだ,というメッセージがあるのかもしれないが,ここまでひどい状況を見せつけなくてもいいんじゃないかと思った。小説2冊はJICAの人か誰か,こちらの日本人にあげて帰る予定なので,ここで読破できたのは予定通りだったが,映画を見て時間がつぶれたのは予想外だった。

飛行機はほぼ定刻にヘンダーソン空港に着いた。入国書類は検疫と税関申告ありにして,目的はOtherでSpecifyのところにResearchと書いたら,ImmigrationでPermissionの書類があれば見せるようにと言われたので,2月にSIMTRIと作ったAgreementを見せただけでOKとなった。もっとも,ここのビザはResearchといったって,普通のビザのスタンプの隣にBusと書かれているだけに見えるが。税関申告はノートパソコンを持参していると言っただけでOK,検疫は食べ物として日本のRice crackerを持ってきているとお土産の箱を見せたらOKであり,すぐに外に出ることができた。メンダナホテルの乗り物が待っていてくれるはずなので,出てすぐ右のカウンタに声をかけたら,外にマイクロバスがあって,ドアに鍵はかけてないから乗って待っていてくれという。他に客が2人と,mortgage peopleが7人乗るから,と聞こえたのだが,mortgageでは抵当とかいう意味だから,乗ってきた人々から考えても何だか違いそうだ。年寄りカップル2組とそれより若めの女性1人,男性2人からなる人々で,うち5人はヨットクラブで降りて行ったので,余計にわけがわからない。別にどうでもいいことなので詮索はしなかったが。

メンダナホテルは入り口を工事していたが,無事にチェックインできた。ただ,満室らしく,予約されてないとか言われてカウンタで断られている人がいた。疲れたので暫く休んでから,ちょっと外に出たが,土曜の夕方なんて,チャイニーズの雑貨屋が何軒か開いているだけだった。これではカーボン紙は買えない。とりあえず資金が必要なのでWestpacのATMでCITICARDを使ってソロモンドルを200引き出して帰って来た。

晩飯はホテルのレストランに行ったら6番テーブルに呼ばれたので,支配人を含め北野建設の方3人に加え,偉大なるY.SATOも交えて5人で食事をした。いろいろな話を聞けた。成田で土産に買った泡盛と山崎12年を進呈したのだが,ワインが出ていたので,この夜は開けなかった。たぶん明日以降に出てくることになるだろう。話によると,このところ天気はいいらしいので,Tasimbokoには2月のときよりも簡単に行けるんではないかと期待したい。部屋に戻ってからはNHKの国際放送をつけつつ,月曜にSIMTRIやG.Prov.に出すべき調査スケジュール表を仕上げていたら,3:00を過ぎてしまったので就寝。

日曜なんで(2006年9月10日日曜)

9:00起床。寝坊した。とりあえずBread Kitchenに行ってバンズ2個を4ドルで購入し,そこらの雑貨屋を歩いてバンズに塗るようなものを探したら,HEINZのSmooth Vanilla Custardというのがあったので購入。ネスカフェのインスタントコーヒーとトイレットペーパーも購入。普通のインスタントコーヒーやMiloが雑貨屋から消えていて,代わりに砂糖やミルクもミックスしたものが出回っていたので,普通のインスタントコーヒーを探してしまった。月曜の買い物はカーボン紙だけにしておきたいので,これだけでも買えてよかった。

日曜なんで,公的機関の人に会うことはできない。仕方ないので部屋で過ごしている。朝は,バンズにSmooth Vanilla Custardを塗って砂糖をかけて食べた。まあまあ。昼はホテルのラウンジでキタノバーガーとペプシツイストを食べた。キタノバーガーは150 gのハンバーグが挟まれていて,フライドポテトも含め美味ではあるんだが,65ドルだと思うと,朝飯に比べるとパフォーマンス/コストは負けていると思う。日本円で考えると,まあ妥当な値段ではあるのだけれど。

NHKをつけつつ,論文の直しとか,『社会格差と健康』を読んだりとか,デスクワークをしていたら夕方になった。昼間,一度ホテルのネットワークルームに行ってwebでも見ようと思ったが,無人だったのでそれは後回しにした。と,部屋の電話が鳴った。来る前にメールを送っておいたFさんからであった。晩飯でも一緒にということで,香港宮殿へ行くことになった。あと15分で迎えに来てくれるというところ。

Fさんはご家族で来られ,ご馳走になってしまった。何だか申しわけない。戻ってインターネット室に行き,10分間だけwebmailをチェックした。133通溜まっていたものの,個人宛のメールは来ていなかったので,まあ良かった。ホテルの人にネット利用が終わったことを告げ,名前を利用簿に書くと,さっきS先生という方が呼んでいたと教えてくれた。6番テーブルに行ってみると,もう食事は終わったところだったが,S先生と少し話をした。SIMTRIのA氏と一緒に蚊の研究中だそうで,金曜からマライタにいくそうだ。こちらの研究班のK先生やO先生は良く知っているとのことだ。

ともかく,明日のSIMTRIでの交渉が大事だ。今日は早めに眠っておこう。

あっちこっち行って疲れ果てた一日(2006年9月11日月曜)

6:30起床。シャワーを浴びて目を覚ます。とりあえず朝食をとらねば始まらないので,Bread Kitchenまで歩いて,パンを3個買ってきた。11ドルといえば200円もしないので,安いというべきであろう。コーヒーを飲みながら食べ終わって7:50となった。

KGVI行きのバスに乗って(料金は市内は一律2ドル)SIMTRIに着いたのは,ちょうど8:00頃だった。すぐに所長B氏に会えたのはラッキーだった。彼はメールはどこからも届いてないので見てない(設定が間違っているんではないかと思うが確認不能)というし,電話回線は所内で1本しか生きてないのでFAXもまともに受け取れないと言い訳していたが,要するに前回来たときから何も進んでいないのだった。今日こそは保健省のSecretaryのサインを貰うぞ,と不退転の決意で,サインはどうなっているんだ,と尋ねたら,意外なことに,これまではPermanent SecretaryがSIMTRIを嫌っていて,何から何まで口を出す嫌な奴だったんだが,今度いい人(Good Fellow)に変わったんで,Permanent Secretaryのサインを貰うことにしよう,という答えであった。OKわかった。じゃあ,PSとすぐにアポを取って,今日会って説明しよう,と提案したら,さすがに怯んだようでもあったが,とりあえずアポ取りを頼んでくれた。

書類がUSからPSに変わったこともあって,B氏が3部作り直し,ちょうどPSもOKな時間になったから行こう,といわれたのは10:30近かった。その直前に新卒のマラリアテクニシャンD君が休暇になったところだから雇わないかと言われて面接していたのだが,彼が水曜から参加してくれることになったのはとりあえず良かった。PSのOfficeには,B氏が運転する車で行った。新しいPSのCP氏はB氏が言うとおり,大変にさばけた方で,あまり手続き重視型ではなく,すぐにサインが完了した。その後,SIMTRIに戻ってB氏もぼくもサインをして手続きが完了した。これまで約1年かかったわけだが,漸く,有効な調査許可書類が手に入ったということだ。長かった。

B氏はすぐに書類をPSに届けに行くというので,ぼくはSIMTRIのG-Prov.セクションに行って車とドライバーを借りる交渉をした。しかし,まあ例によってというか,B氏はG-Prov.に何も伝えていなかったので(彼が言うとおり,メールもFAXも読めていないなら当然だが),G-Prov.セクションのトップのE氏は,「そう急に言われてもねえ」と渋い顔であった。6月から集中的なマラリア対策ということで,ガダルカナルの津々浦々に殺虫剤処理した蚊帳を配って回ったり,殺虫剤を散布したりしていて,10月まで活動が続くのだそうだ。あてにしていたタシンボコ出身のドライバーAS氏は多忙のため,とても手伝ってもらうのは無理そうだ。とりあえずドライバーだけでもいないと困るので,G-Prov.セクションで働いているタシンボコ出身のC氏に言って探してもらうことにした。午後1時過ぎに来てくれというので,とりあえず他の仕事をしに街中へ戻ることにした。

バスでポイントクルーズに戻って,WINGSというスーパーで水,MILO,Morten,バスタオルを買い,文房具屋に行ってカーボン紙を探した。ファックス原紙様のモノがあって,これでも使えるんじゃないかと思われたので買おうとしたら,100ドル超だったので,先に銀行に行かねばならないことがわかった。で,先にJICAに行ったら昼休みだったのでANZ Bankに行ったら,滅茶苦茶に混んでいて30分近く待った。換金自体はスムーズにできた。次に文房具屋に行く途中,スタンドバーみたいなところでハンバーガーとジュースを買って(約11ドル)昼食にした。その後,文房具屋でさっき目をつけた代替カーボン紙を買って,JICAに向かった。Aさんは任期が終わって帰国されたそうだが,連絡調整員の方はまだ残っていて,さらにAさんの後任の方と,新たに着任された所長とご挨拶をした。調査概要と今回の計画をざっと説明して日程表を渡し,JOCVのKさんの居所を聞いたが,保健省にいるはずだが,よくわからないとのこと。携帯電話の番号を聞いたので,後で電話をかけてみよう。

SIMTRIに行ってC氏にドライバーが見つかったか聞いたら,OKという返事。よしよし。運転だけの人(つまりマラリア検査はできない)らしいが,とりあえずドライバーが確保できたことは重要だ。Facility Feeを払ってから,ちょうどラボでボウフラの処理をしていたS先生と話し合って,金曜からは車が使えることを確認したが,問題は火曜から木曜までだ。B氏に再度窮状を訴えたところ,実はA氏が車をもっているという。つまりVector-borneセクションには2台の車があって,古い方のランクルは使ってもいいはずだというのだ。直接交渉でないのがやや不安だが,B氏が俄然やる気を出してかけあってくれて,OKということになったらしい。やはり決まっていたこととはいえ,Facility Feeを実際に払ったのが効いたか?

SIMTRIからメンダナに一泊延泊の電話をしてOKになったはずだったんだが,何か手違いがあったらしくて,満室だから別のホテルに移って欲しいと言われた。送迎はしてくれるそうだ。連れて行かれた先は,SUPREME CASINO APARTMENTというところなんだが,NHKを見ることができないのと町からちょっと遠い(空港には近い)のが痛いところだ。まあメンダナは満室だったんでしかたないが。新しいホテルの部屋から日本に電話して,出発前のY君に今日の首尾を報告できたのはよかった。しかし,JOCVのKさんの携帯にはかからなかった。メンダナのオフィスからもかけてもらったが,やはり駄目だった。ソロモンの携帯は駄目なことが多いのかもしれない(後で知ったところによると,実は充電切れだったそうだが)。18:30にメンダナから迎えに来てくれた車に乗って夕食に行った。とんかつ定食と日本茶が実に美味であった。

それにしてもこのホテルは,名前だけかと思ったら,本当にカジノになっているのには驚いた。ちらっと見ただけだが,黒服系のそれっぽい人が何人もいて,ちょっと怖い感じだ。明日は7:30に迎えの車が来るはずなので,それ以前にチェックアウトを済ませねば。ということは,朝食は6:30くらいから食べたいところだ。部屋にあった品書きの注釈によると,6:00-15:00の間,朝食と軽食を出すというので,それでも頼もうかな。

いよいよ村へ(2006年9月12日火曜)

21:30頃眠ったので,4:30起床。Y君とK先生への伝言を打ってプリントし,昨日の分の記録(上記)も打ったら6:40になった。もうあまり時間がないな。7:15にはチェックアウトに行かねばなるまい。今日はいよいよ村に入るつもりだが,さてうまく行くだろうか。

チェックアウトは無事に済んだが,国際電話をしたとはいえ,一泊で800SBD以上というのは高いと思う。ここはレンタカー屋もやっていて,古いタイプのHILUXなら500SBDで1日借りられることがわかった。いよいよ他の手段が駄目となったときは使えるかもしれない。迎えの車は時間通りで,ちゃんと7:40にはメンダナに着いた。一日前のチェックアウトの手続きをすると,1600SBDとかいう目の飛び出るような値段。二泊しかしてないのに何か間違っているんではと思ったが,日本への国際電話が高いのだった。

8:00前にちゃんと所長B氏自ら迎えに来てくれて,SIMTRIへ。結構新しい格好いいHILUX(Vector-borne disease control sectionにこんなものがあるとは!)に乗り換え,運転手W氏とともに村に向かった。冬の陣と同じく,ベランデ川の辺まで車で,川を渡渉してから数十分歩くという行路だったが,何とかうまく辿り着いたし,ちょうどCS氏がHolidayでいてくれたので助かった。彼の家に泊めてもらえることになったし,金曜までしかHolidayではないのだが延長願いを出してくれるという。すばらしい。彼は10年前にも,ぼくの調査のアシスタントをしてくれたのだが,FijiのUniversity of South Pacificに3年間留学して神学と歴史学のマスター(?)をとったという人で,英語もピジンも非常に達者である。今回はかなり深いインタビューをしなくてはいけないので,彼がいてくれたのは非常に良かった。入れ替わるように彼の兄であり冬の陣でアシスタントをしてくれたJS氏は,新しくできたオイルパーム農園の管理人として試用期間中で,村にはいなかった。この日はCS氏と調査目的とおよその計画を話した後,夜に村人を集めてもらってそれを正式に説明しただけで終わった。もしかしたら翌日からマラリアチームが来てしまうかもしれず,その場合は尿カップ配りを始めておいた方がいいのだが,尿だけ集めてしまうのもまずいのと,いきなり無理をしない方がいいという判断をした。さて吉と出るか凶と出るか? 22:00頃就寝。

集中調査開始(2006年9月13日水曜)

6:30起床。まだ暗い。7:00に朝食。昨夜蒸したクマラ(サツマイモ)とコーヒーのみという粗食だけれども,この組み合わせならいける。この半年間の様子を聞いたり,バンバラ村の見取り図を作ったりしていたら,9:30頃に後発チームがやってきた。K先生,Y君と,今回Y君の技術指導を受け,今後共同研究していくというJOCVのKさんと,ドライバーW氏とSIMTRIのマラリアテクニシャンD君であった。いろいろ打ち合わせをして,昼を一緒に食べた。けれども,今日はマラリアACDも身体計測もしないので,とりあえずK先生とKさんにはお帰りいただいた。マラリアテクニシャンD君は荷物運びしかしていないのに丸儲けであるが,まあそういう契約なので仕方ない。この日までは冬の陣と同じ,渡渉ルートだったのだが,実は道路の復旧が進んでいて,既にNgalitabethiまでは車が入れるとわかったので,明日からはそっち回りでくることになるはずだ。Y君はこれから来週月曜まで,ぼくと一緒に村暮らしである。

夕焼け

水浴びに行って,暫く休んでから,夕方のカップ配りに出発した。といっても,最初はバンバラ村からである。翌朝一番で持ってくるように言ってカップを渡し,テンションの影響についてのインタビューと24時間思い出し食事調査とWHO-QOL26をやっていると(QOLは成人のみ),思いのほか時間がかかり,30人近く終えたところで23:00となって村人はみんな寝入ってしまったので終わった。

マラリアACD開始(2006年9月14日木曜)

6:30起床。既に尿が届いている。尿検査をやってから朝食(これを打っている18日月曜の時点では,既に何だったか忘れているが)を済ませ,マラリアチーム到着を待った。Y君も身体計測を進めた。渡渉しなくても良くなったためか,8:50頃にK先生とKさんとW氏,D氏が到着し,マラリア検査を始めたが,34人しか候補者がいないので,軽く午前中で終わった。昼食後にK先生とW氏,D氏はホニアラに帰った。Kさんは明日の朝から計測を手伝うために村泊まりである。

後は昨日と同じく,水浴びをして昼休みをしてカップ配りとインタビューで,22:00過ぎに就寝。

既に疲れているのだが(2006年9月15日金曜)

7:00起床。朝食後,尿検査とか身体計測とかマラリア検査とか。今日からはK先生の代わりにO先生が参加している。30人余りなので,人数的には楽だったのだが,なかなか順番どおりに集まらないし,どれか一つだけやり残してどこかに行ってしまった人を呼び戻したりするのに手間がかかって昼までかかった。しかしこのペースでは遅すぎるので,今夜からペースを上げようと決意した。インタビューは後回しにしても,尿カップ配りと登録作業をしてしまった方がよかろうという判断である。

水浴びをして昼寝をして,16:00からカップ配りに回った。3つの村を回って80人余りを登録し,晩飯をとるためにバンバラ村に戻ったのは19:00近かった。食後再びインタビューのために村を回り,4人だけ終えたら22:00を過ぎた。やや体調が悪いのだが,短期決戦なので頑張ろう。

ピーク(2006年9月16日土曜)

6:30起床。朝食もビスケットとコーヒーだけで手早く済ませ,ともかく尿検査をしながら検査に来る人を同定してさばくのだけれども,次から次へと人が来て休む暇も無い。13:40までかかって80人を測りおえたときには疲れ果てていた。今日がピークだとは思うが,これが続いたらもたないな。

昼飯・水浴び・昼寝の後は前日と同じく,まずカップ配りと登録で3つの村を回り(これで一応,対象地区のすべての村をカバーした),晩飯のためにバンバラ村に戻って,20:00頃からインタビューをして22:30頃終了。

風邪気味(2006年9月17日日曜)

6:40起床。体がきついけれども後1週間なので頑張ろう……とは思うのだけれども,どうにも頭が重いし,36.9℃の微熱があったので,風邪薬を飲んだ。酸っぱいものを欲しくなったのでブッシュライムかレモンをくださいとCS氏に頼んでおいて尿検査等々を開始した。前日より人数が少なくて50人にも満たなかったので昼前に測定終了したけれども,体調が悪いので疲れた。しかし昼飯にブッシュライムを絞ったものをCS氏の奥さんが出してくれたので,少し元気が出た気がする。風邪薬を飲んで,水浴びには行かずに昼寝をしたおかげで,夕方になるとだいぶ体力快復した。

カップ配りのときに不在だった人がだいぶコヒ・マラマという場所から帰って来たので,17:30頃から村を回って最後のカップ配りと登録をした。19:30頃バンバラ村に戻って食事をして(ブッシュライムを絞ったもの付き),20:30頃から再びインタビューのために歩いた。帰り着いて就寝したのは,結局23:00近かった。

いったんホニアラへ(2006年9月18日月曜)

7:10起床。それより早くは起きられなかった。しかし,熟睡したおかげで風邪気味なのは治ったようだ。尿検査を50人分くらいと,これまでの積み残しの人や対象地域外の人を含めて,身体計測とかマラリア検査とかを終えたら昼になった。実は前日から,インタビューの一部を,CS氏がこの時間帯を利用してやってくれているので,非常に効率がよい。昼飯を食べてから,いったんホニアラに向かうために村を後にした。Ngalitabethiまで車が入れるようになっているのは,おそらくは4月の選挙で国会議員に当選したNgalitabethi出身のDS博士が別荘に帰るために優先的に工事をさせたのかもしれない。車が止まっているところまで歩く途中,今回のプロジェクトの成果発表についてダラダラ喋った。まず英文でオリジナルペーパーを書いて,それを収録して書下ろしを加えたPeople and Culture in OceaniaのSpecial Issueを出して,さらに,そこでまとまったネタを調査周辺情報で肉付けし,わかりやすく写真も入れて新書か叢書か何かで売れる本を出そう,と話が広がって盛り上がった。タイトルは真面目に『紛争と近代化の狭間で』とかするとつまらないので,『道路・ラーメン・マラリア』とか,ダイアモンドのパクリみたいなやつにしてベストセラーを狙うとか,他愛もなく。いや,ちょっとは本気なんだが。

ホニアラに出るのは,集中調査が終わったので,SIMTRIの要人と今回の調査関係者を招いて打ち上げをするためである。しかしまた明日から村に入るため,酒は飲まないようにしたい。15:30頃ホテルに着いて,18:00頃までかかって,この数日間のメモを打ち終えたところである。

打ち上げパーティはSea Kingレストランで和やかに始まり笑いとともに進行し穏やかに終わった。Sea Kingは一時味が落ちていたが,たぶんシェフが戻ってきたのであろうか,美味になったと思う。とくにスープが美味だった。メニューに書かれている値段が高いのと,麺がパスタなのが欠点だが,あれだけ飲み食いして約1000 SBDで済んだことを思うと,十分にリーズナブルだったと思う。こういう金は私費で出すしかないので,そこそこ安く済ませることは個人的に重要なのだ。

予定通り酒は飲まずにホテルに戻り,Y君と協力してラスト2日分の生体計測データを入力して番号でソートしてプリントアウトし,1:00近くに就寝。

再び村へ(2006年9月19日火曜)

眠かったが6:30には起きたはず。プリントアウトしたデータを返却用のシートに転記しつつエラーチェック。いくつかおかしい点が見つかり,元の紙に戻ってみると誤読だったというケースが3つほどあった。しかしこれはアシスタントに雇用した村人S君の数字が独特な書体のために見間違えたものであり,仕方ないところだろう。パンを買ってきてホテルのテラスに持ち込み,コーヒーだけ注文して朝食とした。やはりメンダナホテルのコーヒーは,インスタントに比べると数段美味い。その後,返却用に2枚重ねだったデータシートを1枚ずつに仕分け,10:00にO先生とSIMTRIへ向かった。

K先生のマラリア検査やD君とO先生の投薬準備の様子を写真に撮ったりしていると,あっという間に昼になってしまった。投薬準備といっても,SIMTRIではプロトコルと年齢・体重で大別した薬のセットができていて,大抵の場合,対応する袋をとれば済むのだが,今回の場合,5-9歳の三日熱患者が多くて,セット済みの薬が尽きてしまったので,新たに薬を数えて袋に入れるのに時間がかかったのである。

昼にSIMTRIを出て村に向かった。村に着いて,途中で買ったパンを昼飯として食べつつ,患者リストを村人に渡して呼び集めてもらおうという計画だったのだが,既に村にいないという人が多く,やや計画倒れであった。仕方が無いのでO先生と相談して明日も来てもらうことになった。患者の半分にしか薬を配れないまま終わりというわけにはいかないのだ。夕方,村を全部回って結果を返却し,同時にマラリア陽性だったのに来なかった人には,明日の9:00に必ずバンバラ村に来るようにと言ってきた。

いったんバンバラ村に帰って晩飯を食べた後,夜は足りないデータを確認するための調査参加者一覧表(名前,年齢,村,性別と,項目ごとに調査済みかどうかチェックをつけたもの)を作りながら,CS氏に頼んでバンバラ村に3人残っていたWHO-QOL 26未調査者へのインタビューをやって貰った。22:00過ぎに就寝。

投薬終了後に食品サンプル開始(2006年9月20日水曜)

寝坊したような気がするが,良く覚えていない。朝食後,とりあえず9:00にO先生とD君がやってくるはずなので,それに向けて準備した。前日に声をかけておいたマラリア陽性の人が続々とやってきて,15人くらいになった頃,O先生たちが到着した。さっそくスタートし,昼頃終了した。あと数人,来なかった人がいるが,薬はパック済みなので,それは後で配ってくることになった。来た人については確認のためBlood Slideの再検をしているのだが,来なかった人については仕方が無い。

サツマイモ各種

昼食後,食品サンプルを開始した。世界中の食品中のセレン濃度を調べるというプロジェクトに貢献するのが主旨だが,食事調査の結果と組み合わせれば,村人のセレン摂取量の推定ができてしまうかもしれない。それで,24時間思い出し食事調査で出てきた品目を中心に集めてきてもらって,カットして秤量し,天日乾燥するのだが,これがまた,なかなか大変な作業だった。いろいろ試行錯誤した結果,うまく風除けをしながら直射日光に照らされるような構造を作り上げることに成功した。あと少し集まっていない食材があるのだが,それは明日に回すことにした。

乾燥用具

夕方と夜は聞き取り調査の続きをして,疲れ果てて就寝。

最後に雨か(2006年9月21日木曜)

雨音で目が覚めたが,朝食後に止んだので,村を回って特徴的な写真を撮りつつ,ラフな見取り図を書いて,各家の居住者リストを作るという作業をした。一時不在者と一時滞在者が結構たくさんいるので,そこをきちんと整理するのが大変だったが,これをしておかないと悉皆調査のカバー率が出てこないので必須な作業なのだ。もちろん,村を回って尿カップを配ったときは,そのとき村にいた人全員に配っているので,それを母数とするという考え方も可能だが,やはり通常は常住人口を母数としたい。結局,11時頃までかかってすべてを終えた。

昼食後,疲れたので少し横になってから食品サンプルを再開したのだが,天気が悪く,この日はあまり乾燥してくれなかった。しかも夕方になると海の方から黒い雲が垂れ込めてきて,とうとう雨が降ってきたので,半乾きのままチャックポリに入れてしまうしかなかった。

夕食前の聞き取りは土砂降りに近い雨の中,ササピ村まで行ってやってきた。実はササピ村にはコプラの集荷場とタバコの販売所があって,近隣の村からいろいろな人が入れ替わり立ち替わりやってくるので,聞き取り調査には非常に具合が良かった。

19:30頃にバンバラ村に帰り着くと,最終日なので鶏をつぶしたりマングローブ林にいる二枚貝のスープが出てきたりと盛大なご馳走が用意されていて,CS氏一家とさよならパーティとなった。その後も別れを惜しみつつ,来年以降の計画とかいろいろ喋って,22:00過ぎに眠ったのだが,村人の話し声は真夜中まで続いていた。ぼくの話をしているのかと思ったのだが,実は,村の中で若い娘の出奔という事件が起きていて,その娘の扱いをどうするかという話題で盛り上がったり,ホニアラで開催されているtrade showの話をしたりで,1:30頃まで起きていたらしい。

報告書を作ってからホニアラへ(2006年9月22日金曜)

7:00前には起きたはず。昨日の夜更かしにもかかわらず,村人はもう起きている。体力あるなあ。朝食に昨夜のご馳走の残りがあるかと思ったのだが食べ尽くしたらしく,キャッサバとコーヒーだけというシンプルなものだった。荷造りを終え,村に残していくものを説明し,宿泊のお礼としてと調査のアシストに対して(別々に)幾許かのお金を渡してから,SIMTRIに中間報告をするための報告書を作成するためノートパソコンを開いた。9:00過ぎに打ち終わったのでポータブルプリンタをつないで印字した。2部作って,1部はCS氏に渡した。10:00過ぎに頼んでおいた迎えの車がホニアラから到着したので,村へのいくばくかの寄付をして(これはもちろん私費である。彼らは2月の寄付にもまだ手をつけていなくて,村の要人で会議をして用途を決めたら知らせてくれるとのこと。まあ,SIMTRIへのFacility Feeに比べたら2桁小さい額なので,大したことができるわけじゃないんだが),村人とのお別れをして,ホニアラに向かった。なんと,この日の朝に更に奥まで道路が開通して,ササピ村まで車が入ってきていたのには驚いた。新たに開通した区間はNgalitabethiからLengarauまでなのだが,LengarauからMbembeまでは,以前バス通りだった道がまだ通れた(草ぼうぼうだが)ので,Mbembeまでの途中にあるササピ村まで車が来たというわけだ。これだけ急速に道路事情が改善するというのは凄いことだ。村人の暮らしも急速に変わるに違いないので,今後のフォローアップ調査は絶対に必要だ。しかも,今回の聞き取りでわかったが,生活の近代化は,社会的な大きな流れの中でも個人差が非常に大きい。民族紛争終了後,まだ一度もホニアラに行ったことがないという人がいるかと思えば,毎週2,3回は出るという人もいた。バスが通るようになったら,またこの状況も変わっていくに違いないし,換金作物の作付け状況やホニアラでの需要が変わったり,あるいはコプラの相場が良くなったり,木材需要が増えたり,といった社会変化の影響を直接受けるに違いない。運転手に聞いたところによると,Ngalitabethiからホニアラへは,既に今週から毎日往復1便だけれどもバスが通っていて,片道20 SBDだそうだ。10年前は往復で12 SBDだったように記憶しているので,まだ高いけれども,今後,この状況が安定すれば変わっていくかもしれない。もっとも,ホニアラ市内のバスも,10年前は50セントか1ドルだったと記憶しているが,現在は2ドルか3ドル(本来は2ドルなのだが,5ドル札を出してもお釣りは2ドルしかくれない。これは外国人だからということではなくて,地元の人でも一緒である)なので,ガソリン代の高騰に伴って起こっていることかもしれず,だとすると安くはならないかもしれないが。

ホニアラに向かう車の中から,すれ違うバスを何台も見た。GPPOL (Guadalcanal Plantations for Palm Oil Limited)のプランテーション(従来CDCと呼ばれていたもので,Nguviaそばの1,Tetereの2,ベランデ川手前の3に加え,新たに4と5ができている)とホニアラの間は,既に一日何台ものバスが往復しているようだ。運転手W氏やCS氏が言うことには,この急速な道路事情の改善には,やはり4月に国会議員に当選したDS博士の影響があるということだ。DS博士はソロモン屈指のインテリで教育学博士を海外で取っているし,別に土建屋とつるんでいるわけではなくて,本心から自分の出身村の暮らしを近代化したいと頑張っているのだと思うが,それが村にとって,あるいは周辺の村にとって,全体的に見て本当にいいことなのかどうかはわからない。だからこそ,今後もフォローアップ調査をしたいと思うのだ。もちろん,ぼくらの調査自体が村に及ぼす影響もあると思うし(少なくともマラリア検査で陽性だった人への治療はしているし),バンバラ村で親しくつきあっている人たちには,何らかの健康教育的なことは無意識あるいは意識的にもしてしまっていると思うので,調査自体の是非も問われねばならないだろう。しかしやらなければ何もわからないので,そこは村人が喜んで受け入れてくれるならば許してもらおうと思う。

ホニアラに戻ってSIMTRIに行ったが誰もいなかったのでメンダナホテルへ。O先生と昼食を上海何とかという新しい中華料理屋で。JICA御用達らしいが,安くて美味い,なかなかの店だった。揚げ餃子と肉豆腐スープと海老炒飯は,2人で食べても量が多くて食べきれなかった。村暮らしで胃袋が小さくなっているのかもしれないが。

夕方,マライタから帰ってきているはずの所長B氏と会うためにSIMTRIに行ったのだが,飛行機が満席で,明日帰ってくるとかいう話で(偶々研究所に残っていたA氏による),空しくホテルに帰って来た。夜,KさんにY君から預かった調査用紙を渡した。晩飯は,本当はFさんに会ってお礼をしたかったが,電話がつながらなかったので,メンダナホテルでS先生とO先生と食事をした。久々にビールを飲んだが,あまり美味には感じなかった。海老野菜天うどんは美味だったが。

その後0:00近くまで,このメモを打ち,終わらなかったが眠くなったので就寝。

ブリスベンへ行く前にSIMTRIで会議(2006年9月23日土曜)

5:00に自然に目が覚めたのは,昨日疲れなかったということだろう。7:00までかかって,ここまでのメモを打ち終えた。明日は日本に着くわけだが,写真整理とか大変だろうなあ。それ以上に怖いのは,どれだけメールが溜まっているかということだ。たぶん間違いなく4桁だろうな。もう少ししたらパンでも買って来ようと思うが,最終日だから贅沢にホテルの朝食でも悪くはないな。今日13:00にはヘンダーソン空港に行かねばならないのだが,昨夜S先生から仕入れた情報によると,SIMTRIの所長は船で昼に戻るとかいう信じがたい状況なので,11:30頃チェックアウトしてSIMTRIに行き,中間報告をしてO先生と一緒にちょっと会議をしてから,その足で空港へ行くというスケジュールになる予定。

SIMTRI行きまではとくにすることもないので,東大出版会の『社会格差と健康』を読む。それにしても,この第1章は大上段過ぎて読みにくい。ぼくの考えでは,社会疫学は,それまで,病気に対しての攪乱要因として扱われていた社会的な因子を表舞台にもってきて,個人的な因子と同時に分析するというフレームワークを指すのだと思う。これはマルチレベル分析のような統計手法ができて初めて可能になったわけだし,それを簡単にやってくれる統計ソフトと,質のいい乱数を高速に発生させるアルゴリズムと,それらを実行するためのコンピュータが簡単に手に入るようになったからこそ実用的になってきたという側面を見逃しては,話が片手落ちだろう。さらに読み進めると,biopsychological paradigmなんてものが登場する。うーん,ここまでくれば人類生態学まであと1歩だな。個々の人が社会をつくっているという視点さえ入れば人類生態学との差異が事実上なくなる(目的の違いは別にして)。社会的因子を所与のものとして分析する方が,きっと結果がクリアになるんだろうけれども,昨日開通した道路を通って,さっそくLengarau以遠の数十人以上が東タシンボコとホニアラを往復し,それに伴って金とモノの流通もあり,情報も伝わり,Trade Showをみて子供たちが何らかの文化的影響を受けたことが,将来の社会構造につながらないとも限らない,といったダイナミクスに思いを馳せればわかるように,実体としての社会は日々移り変わり,それは個々の人やモノの動きや情報などによって構成される複雑系に違いないので,社会疫学のフレームワークは片手落ちな気がしてならない。社会疫学が新しいともてはやされているのだけれども,フレームワークとしては人類生態学はそんなところは数十年前に通過しているので,全然目新しさを感じない。だからこそ,どこに目新しさがあるのかといえば,テクノロジーの進歩は非常に大きいのだ。そこに触れていないという点で,本書第1章はレビューワークとして手抜きと思う。手抜きなのは文章からも明らかで,例えばp.10『これに対してポピュレーションアプローチは,集団全体の危険因子の分布を減少させることで予防を行おうとする.』って,日本語としての通りの悪さを別にしても,「分布を減少させる」はあんまりだ。分布はシフトさせるとかずらすとか狭めるとかするもので,減少させるでは意味が通じないだろう。

それにしてもSocial Capitalは難しい。メラネシアでは近隣は相互に助け合うのが当然という文化が深く根付いているので,この手のインタビューをしても全員の答えが同じなのだ。もっとも,現地語を覚えて通訳なしで個人個人に内密に聞けば,もしかしたら結果は違ってくるかもしれない。そこまで行くには,もっと長期の調査が必要だ。半年くらい住んで現地語を覚えてくれる若い人がいればいいんだが。本当は自分でやりたいところだが,さすがに半年も海外調査に出ることは,今の立場では公私共に不可能だ。リタイアしてからやるか?

8:30になって掃除の人が来たのだけれども,11:00にはチェックアウトするから後にしてくれるように頼んで,パンを買いに出た。クリームパンとエッグバーガーで8 SBD。約128円の朝食なわけだが,そこそこ食べられる。

暫く本を読んでいたら,O先生から電話がかかってきた。SIMTRI所長B氏がホテルまで来ているという。すぐに準備をして降りていくと,確かにロビーに待っていた。聞くと,船でなくて,飛行機で帰って来たそうだ。一緒にSIMTRIに行き,今回の調査報告を簡単にして,別件のO先生とB氏の打ち合わせが終わったら11:00を過ぎたところだった。まあちょうどいいタイミングといえようか。

いったんホテルに戻って,昼前にチェックアウトし,テラスでジンジャーエールを飲みつつ『社会格差と健康』を読む。風が涼しくて気分がいい。昼もそのままスパゲティボロネーズを食べたが,なかなかに美味で当たりだった。13:30になったがどうもホテルのバスが出発する気配を見せないので,ホテルのKさんに頼んで,空港まで送っていただいてしまった。

いつになくスムーズにチェックインもボーディングも済んで,ごく普通にブリスベンに着いた。今回は食品サンプルがあるので検疫が面倒だろうなと思っていたが,想像通り,空港検疫に預けねばならないことになった。明日の7:30に取りに行けばいいとのこと。30ドルかかったが,それくらいならいいか。ただ,係員がコンピュータの操作に手間取ったので時間がかかり,IE700で着いた乗客の中で最後になってしまったのには参った。

O先生が予約してくださったBest Western GroupのAirport Hacienda Motelは,割と広い部屋で,シングルのはずなのにベッドが3つも入っていた。一泊125ドル(O先生が既に払い込み済みなので,明日,豪ドルで払うことになった)というのは結構高いが,Kingsford Smith Driveにあって空港からもそこそこ近いし,近くにコンビニもあって便利だと思う。晩飯はそのホテルのレストランに入って21ドルのRAMP STEAK(焼き方はMediumでソースはPepper)と赤ワインをグラスで1杯(4.5ドル)頼んだが,どちらも美味で当たりだった。赤ワインは一種類しかなく,一口目はまあ普通の赤ワインだなと思ったが,二口目からがとても美味だった。RAMP STEAKにはSEASONAL VEGETABLESかFRESH SALADをつけることができるので前者を頼んだら,皿に大盛りの温野菜(ジャガイモ3個を含む)がついてきたので,パンとかライスは頼まなくて正解だった。O先生が頼んだSEAFOOD PLATTERは,値段はRAMP STEAKと同じ21ドルだが,冗談じゃないかと思うくらいの大皿に大盛りで供された。オーストラリアの人は,本当にあんなに大量に食えるんだろうか。東大の赤門のそばにあるカフェホンのインドカレー大盛りを想起させるくらい,いや,あれより大量のFISH AND CHIPSとサラダで,O先生がお気の毒だった。食後,コンビニに行ってオレンジジュースを自分用に買い,ガムやショートブレッドを子供の土産用に買い(ガムは娘からリクエストがあったので),ANZ BankのATMがあったので400ドル引き出して戻ってきた。暫くメモを打っていたのだが,いつの間にか眠っていた。

日本へ帰る日(2006年9月24日日曜)

5:15に目が覚めた。ソロモン時間では6:15だから,全然早くない。戸外はまだ薄暗いが,起きることにして,昨夜買って冷蔵庫に入れておいたオレンジジュースを飲みながら,この記録をここまで打ったところである。

6:30に予定通りRED BARONという車で迎えが来たので(昨夜ホテルのカウンタで7ドルでチケットを買っておいた),それに乗って空港へ向かった。いくつかのホテルを回ってから空港へ向かうので,途中ほぼ満席になったが,国内線ターミナルで大勢降りたので,最後はがら空きだった。しかし,さすがに成田に向かうJAL-カンタスのコードシェア便は,物凄い混み方だった。7:00前だというのに長蛇の列である。とりあえずO先生に並んでおいていただいて,検疫所に行ってみたが,月曜から金曜ならば7:00から開くのだけれども,今日は日曜日なので,7:30というのも特別にやってくれるということのようで,誰も人がいない。仕方ないので,いったん列に戻ったのだが,この列がなかなか進まない。結局順番が来る前に7:25になったので,再び検疫所に戻ってブザーを押してみた。今度はすぐに若い係官が出てきたので,書類を見せて説明すると,OK,ここで待っていてくれという返事を貰った。出てくるまで5分くらいかかったが,余程広大な検疫所なのだろうか。とりあえず無事に出てきたので,係官と一緒に出発ロビーのROW 3に向かったが,着いてみると,もうO先生はチェックインが終わったところだった。しかし検疫所に預けておいた物は預け荷物にしなくてはいけないと決まっているので,すぐにそのカウンターで他の荷物と一緒に預けてチェックインすることができた。O先生に待っていていただいて助かった。

出発までは土産物を買い込んで軽食をとったら,あまり余裕はなかった。今回はワインを選ぶときにプロっぽい人から的確なアドバイスを貰えたので,安く,いいのが手に入ったと思う。機内では,席が2階の一番前だったので,荷物が足元におけなかったのが予想外だったが,とりあえずトイレもすぐそばだったし,大きなスクリーンが目の前だったので映画を堪能できた。もっとも,2本ともあまりにもアホくさい恋愛映画だった(1本目の方が,黒人文化をいろいろ扱っていた分,多少マシだった)ので,堪能したといっても,感動したとかそういうのはなかったが。映画以外の時間は,いつも持参しているゼンハイザーのノイズキャンセリングヘッドフォンPXC-250で音楽を聞きながら,『社会格差と健康』を読了した。ご恵贈いただいていながら批判するのもどうかと思うが,ちょっとタイポとか文意不明なところが多すぎるような気がした。内容的には,章による差が大きかった。社会疫学へのフォーカスが弱くても,例えば疫学研究倫理指針制定の経緯の話なんかは,よくまとまっていて良かったが,ジェンダーの章はタイポも多いし,内容的にも新しいことがあまりなくて,まとまりも悪いと感じた。マルチレベル分析の手法紹介の章は,もっと詳しくてもいいのではないかと思った。というよりも,近藤先生の章を先頭にもってきて,マルチレベル分析の章を次にもってきて,もっと内容を拡充したら良かったのではないだろうか。それだとこの本とはフォーカスが違うか。

成田にはほぼ予定通りの到着だった。問題は,荷物を取ってから,植物検疫を受けたところで生じた。まず,米は検疫を受けたという証明が必要なのだそうで,これは書類に名前と住所を書いたら,すぐに発行してもらえた。他の食品サンプルは,もちろん加工食品はOKだったのだが,サツマイモとキャッサバが駄目だった。それらに付くゾウムシの類が有害なので,到着の時点で所定の条件を満たしていないと国内に入れられないというのだ。かなり地位が高そうな方まで出てきてもらって,このチャックポリで密封したままラボに持っていって酸で処理して成分分析をするだけだから,害虫が仮にいたとしても外に出る恐れは全然ないといって交渉したのだけれども,ともかく国内でどうするかは問題ではなく,空港に着いた時点での状態が問題なのだということで,拒絶の壁を崩せなかった。まったく杓子定規な対応でいかんともしがたい。本末転倒というか,密封チャックポリをここで開封して中身をチェックする方が,余程汚染の危険は大きいのではないかと思うが,ともかくどうしようもなかった。他のサンプルを通せただけでも今回は良しとしよう。どうせ来年も行くので,そのときのために書いておくと,サツマイモとキャッサバを通すためには,(1)カチカチになるくらい完全に乾燥させるか,(2)マイナス17.8℃以下であることを確認できる状態で完全に冷凍してくるか,(3)加熱調理済みのサンプルに限定するか,(4)予め検疫所と相談の上,農林水産大臣から個別承認を受け,一定の条件を満たした上で持ち帰るか,しなくてはいけない。いずれにせよ,事前に検疫所と相談しておくべき,と言われた。

もっとも,サンプル内容について,こちらが記入した名称と見かけでしか確認されなかったので,嘘のラベルを書いておけばそのまま通ったんじゃないかという気もしないではない。でも,論文を書く時に,サツマイモとキャッサバが含まれていたら,どうやって植物検疫を通したんだという話になりかねないので,やはり正々堂々と通さないと駄目だな。

サンプリング時ではなくて帰国時の状態が問題ということなので,血液サンプルの時のようにホニアラでマイナス80℃で凍らせ,ブリスベンでドライアイスを入手してきっちり保冷バッグで持ってくれば,今回くらいのサンプリング状態でも大丈夫なはずだ。ともかく,毎日晴れというわけではないし,夜の間も外に出しておくことは不可能なので,カチカチになるまで乾燥させるのは,たぶんこんな短期間の調査では無理だから,現実的な解としては(2)か(3)くらいしかないのではないだろうか。セレンだけなら加熱調理したものでもいいような気がするが,濃度がちゃんと出なくなってしまうので,やっぱり駄目か。

そんなわけで,食品サンプルについては,最後に数点を失ってしまったのが非常に残念で,しかもそのやり取りで30分以上かかったので,他の乗客は誰もいなくなってしまった。何だかなあ。税関は課税申告するものは何もないので,さっき植物検疫で貰った米の証明書を出して通過し,漸く無事帰国となった。現在,スカイライナー30号で上野に出た後,あさま585号に乗って長野に向かっているところである。この辺で今回の旅のメモをおえる(後で写真は追加するかも)。


Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.

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