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2009年2月ソロモン諸島往還

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2009. Last Update on March 3, 2009 (TUE) 18:15 JST .

この記録はオリジナルから公開のため必要な匿名化と秘密情報の削除を行ったものです。

春一番のような強風が吹き荒れた日の夜に(2009年2月14日土曜〜2月15日日曜)

19:30にJALのカウンター前で待ち合わせなので,19:00少し前に空港第2ビルに着いた成田エクスプレス45号という選択は少し早かったかもしれない。でも,多少は買い物も必要だし,ちょうどいいかも。

成田エクスプレスの改札を出てすぐのところにパスポートをチェックするゲートがある。まあ大した手間でもないけれども,いつも無駄なんじゃないかと思う。そこを抜けると,すぐに旅行用品の売店がある。買い物というのは,ここで予定していて,抗菌目薬とトランクにぐるっと回す帯状の器具(どういうわけだか名前が出てこない。健忘症か?)とメモ帳と強力LEDライトを買ったまでは予定通りだった。しかしこういう店には物欲を煽るモノがいくつもあって,これまでにも買いたかったミニ三脚と,外貨を入れるための財布を(いや,別に普通の財布だが,日本円を入れてある財布と区別する必要があるので)買ってしまったのだった。まあこれくらいならいいか。

JALのカウンタに行く前に,3階に上がったところでK先生にお会いした。これまで2つの大学を定年退職されたあと,辞めるつもりでいたのに引き続き「こきつかわれている」とおっしゃるのだが,まだまだ矍鑠としていて,とても引退されるようなお年には見えない。もちろん,ぼくらの調査のマラリア検査はひとえにK先生の確かな顕微鏡検査技術に支えられているので,引退されていただいては困るのだし。既に近くのカウンタでJL761の受付カウンタを尋ねてくださっていて,PカウンタがJALの受付だと言われるので,その近くまで行って待っていたら,ほどなくO先生がいらした。O先生は都内の研究所に所属されていて,主にマラリアと住血吸虫の対策のため,世界中を飛び回っていらっしゃる方である。O先生が到着されたとき,ぼくは,着てきたジャンバーをトランクにしまいこむのに悪戦苦闘していたのだが,K先生とO先生にも手伝っていただいて,やっとトランクの蓋を閉めることができた頃には,もう一人のメンバーである東大人類生態の後輩F君もやってきた。F君はいくら暖かい日だったといっても流石にそれはないだろうというくらいの軽装だったので驚いた。既にソロモン化しているのか? 正しい態度だと思うが。

さて4人揃ったのでカウンターに向かおうとしたところ,JALの係員がDの機械に行ってくださいと声を掛けてきた。自動チェックイン機でまずは受け付けるということらしい。パスポートは読み取ってくれたのだが,ブリスベン経由でホニアラに向かうことと,荷物はホニアラまでスルーにして欲しいことを係員に告げたら,結局それはチェックイン機ではできないので,カウンターに行くように言われた。まあ,ブリスベンまでしか行かない客はチェックイン機でことが済むわけで,その分カウンターが空いていたのは良かった。

カウンターに行ったら順調だったかというと,そうでもなかった。中でも驚いたのはオーストラリアの法律で32kgを超える荷物を労働者に運ばせることが禁じられているとのことで,33.4 kgあったトランクの中身を減らさねばならなくなったことである。せっかくさっき苦労して詰めたのに,水の泡だ。紙類を1つを手荷物の方に移し,もう1束の紙をF君に預けて,再び苦労してトランクの蓋を閉め,計量したら31.7 kgであった。われながら絶妙な目分量だ。これで漸くチェックイン手続きが進んだ。

Brisbane Airport

ボーディングまでは暫く時間があったので,二人して小腹が空いているF君と一緒に新しくできた回転寿司に行ってみた。これが当たりで,量も多すぎず,味も悪くなかった。狭い店なだけに,回っているものはそれほど多くなくて,大抵の場合1品ずつ注文して握ってもらえるのだ。アジ,エンガワ,ブリ,もう1品何かを食べたが,とくにアジが美味だった。胃にもたれることもないし,寿司は偉大な発明品だ。出発時刻が近づいたので回転寿司を出て94番ゲートに向かったところ(AKIHABARAという電飾がかかった店の電気用品売り場で土産物にするというMP3プレーヤーを選んでいたF君を残して先に行ったのだが),異様に混んでいた。機材到着が遅れているとかいうことで搭乗手続き開始が30分ほど遅れたが,ボーディングはとくに問題なく終わった。機内映画は低調だったが,レッドクリフIだけ見た。諸葛亮孔明と周兪の描かれ方が異様に格好よかった。とくに,Jazzのフリーセッションみたいな箏を通した腹の探り合いの緊張感が素晴らしかった。飛行時間が短かったので,ブリスベン着時はほぼ予定通りだったが,食事とかいろいろ起こされたので,あまり眠れなかったのが少々痛い。

トランジットは最近の例にもれず普通のトランジットカウンターでは扱ってくれなくて,直接ゲートに行くようにいわれた。ゲート76Bというのは新しく延長されたウィングにあって,ともかく果てしなく遠かった。しかも,ゲートで確認したところ,Eチケットでtransitする人に対してはボーディングパスが準備されていなかった上,改めて発行し直すのに異常に時間が掛かり(この話には,結局は上の階のオフィスでの発行が間に合わず,手書きのボーディングパスを手渡されたという落ちもついた),40分ほど離陸が遅れた。いつもながら一筋縄ではいかないのがソロモン行きである。たしかナウルの航空会社だったはずのOur Airlinesの運行だったが,まるで塗装の途中なんじゃないかと思われるような真っ白な機体の飛行機で飛んだのは初めてだった。昼食はローストビーフがメインだったが,わりと美味だった。例によってスウィートが付いてきたが,今回のチョコレートムースはそれほどベタ甘ではなかったのは評価できる。

White Jet of Our Airline

タクシー2台に分乗して(ここのタクシー代は乗る前に交渉して決まるのだが来るたびに値上がりしていて,今回は70 SBDが協定料金だと言われた。ホテルの送迎バスなら1人50 SBDだということを知っていて,ホテルのバスより安いだろうとか言ってくるのだ)メンダナホテルに着いて,チェックインは無事に済み,明日8時にロビー集合と決めて,各々の部屋に分かれた。荷物を置いて一息ついてから,まずATMに行って現金を引き出そうと思ったのだが,ここでまたアクシデントが起こった。WestpacもANZ BankもATMが使えない,つまり,まったく何も反応しないのである。暫くカードを挿そうと無駄な努力をしていたら,ANZ Bankの前に屯していた若い男が,気の毒そうに"Sorry, no power."というので謎が解けた。日曜の午後だからかもしれないが,どうやらATMに通電していないらしいのである。仕方ないのでホテルに戻って,記録を打ち始めた。

途中,電話がかかってきた。ぼくが初めてソロモン諸島に入ったときのチームリーダーだったI先生で,韓国の先生と一緒に,ホテルのロビーまで来ているという。そこで,部屋に来ていただいて,少し打ち合わせをした。先週届いたメールでわかっていたが,I先生たちは1週間かけてマライタ島の調査を済ませ,ガダルカナルの村へ通い始めたところだそうで,月曜火曜でタラウラへ行って,水曜からバンバラに行きたいという。ICTでマラリアチェックをしているそうで,だいたい10%くらいの陽性割合だがマライタ島のF村はもっと多いそうだ。バンバラは,まず久しぶりに訪問して様子をみたいということだが,できれば同じICTでのチェックをしたいとのこと。指先穿刺の血を多目的に使うので,足りればいいんだが,どうかなあ。まあ,こちらの計画に支障を来たさない範囲内でやっていただこう。パシフィックカジノホテルに泊まっていて,1泊340 SBDだそうだ。メンダナの半額くらいか。ホテルでレンタカーを借りていて,400 SBD/日で,デポジットもクレジットカードを預けることで済ませているそうだ。ぼくらも研究所の研究協力窓口であるFさんに頼んでパシフィックカジノホテルのレンタカーサービスで600 SBD/日,デポジット9000 SBDのTOYOTAハイラックスを借りることになっているのだが,彼女の顔を立てるためには言い値で契約してやった方がいいのかもしれないし,どうすべきか難しいところだ。

19:00から晩飯のため待ち合わせ。I先生たちも日本料理の方に来るという話だったが,我々は日本から来たばかりなので,何もメンダナの日本料理を食べる必要もなかろう。ともかく相談してからだな。データ入力もしたいし,コピーもしたいし,ネットにもつなぎたいし,やることがいろいろあるなあ。

結局,洋食の方に行ったのだが,偶然にも注文したのは3人とも(注:K先生はホテルでは食事はされない)日本料理となった。O先生が鉄板焼き定食,F君が生姜焼き定食,ぼくが焼肉定食だったのだが,なぜかF君のだけが届いたとき冷めていた。これが20 SBD分のサービスの差なのだろう。しかし味噌汁まで冷めていたのはひどい。どうもメンダナのレストランは年々ダメになるような気がする。熱々で届けば,決して味は悪くないのだが。

部屋に戻り,0:00頃まで書類作りをしてから眠ったような気がする。疲れた。

災難続き(2009年2月16日月曜)

起きたのは6:00頃だったか,昨日引き出せなかったので現金がないし,とくに空腹でもないので,朝飯抜きで書類作りをしていて,8:00近くなったのでロビーに出た。タクシーを呼んでもらって,とりあえず4人でSIMTRIへ向かった。まだFさんが来ていないので,Fさんの部下だという(つまりSIMTRIの中では最も下っ端といえる)N君に言って図書室に入れてもらって待機となった。暫く待っていたがFさんが来そうにないので,JICAのプロジェクトの部屋に行ってみたら,今回Fさんに連絡を取るために世話になった調整員のKさんとか,そのプロジェクトリーダーのK先生がいらした。日本から持ってきた沈思黙考という焼酎をプレゼントして,暫く話した。SIMTRIの所長が不透明な経理が問題になって停職中のまま何ヶ月にもなっているのだが,どうなっているのか,こちらにいてもわからないらしい。ともかく早く処分が決まってくれないと,復職するにせよ,所長交代となるにせよ,ちゃんと権限をもった人がSIMTRIにいてくれないと困ってしまう。話の途中からI先生と韓国からのC先生も現れて,狭い部屋が人でいっぱいになったので,適当に退出した。

図書室に戻ってから,さらに1時間待って,漸くFさんが登場した。なんと子連れであった。話をきくと,息子さんが腹痛で学校を休んだため,連れてこなくてはならなくなって時間がかかったとのこと。それならそうと連絡くらいしてほしいものだが,別にきっちりと約束があったわけではないので,まあ仕方ないか。彼女は家に電話がなく,携帯電話ももっていないらしい。運転手やマラリアテクニシャンも大抵携帯をもっているのに,やはり子供がいると金がかかるということだろうか。まあ,オーストラリアに出張しているという旦那が携帯をもっているのかもしれないが。

息子さんをSIMTRIの所長室に残して,図書室でFさんとブリーフィングをしたところ,調査許可に関しては日本から送った書類によって前回の合意文書のフォローアップということが認められたので,新たに委員会を開く必要はないとのことであった。所長が停職中であってもとくに問題はないそうだ。I先生と韓国のC先生がフィールドに行くのにA氏(テクニシャン兼ドライバーでもあり,しかも調査地近くの村出身)を連れて行ってしまうので,別のドライバーを探さなくてはならないが,とりあえず今日は自分とF君が村に入れればいいので,夕方になっても問題はない。午前中は日本円をソロモンドルに替えるという仕事もあるし,買い物も必要なので,15:00にレンタカーをピックアップしてホテルに迎えに来てもらうことになった。支払いは,それより前にレンタカー屋に行って済ませておく必要があるそうなので,銀行で金を作ってからバスで行くことにした。

タクシーを拾ってホテルに戻り,それぞれの予定を開始した。F君はウェスタン州で今回とは別のプロジェクトをハワイ大学の先生と始めるために別途調査許可を得る準備を進めていて,その打ち合わせで保健省で途中下車した。ぼくは一旦ホテルに荷物を置いてから銀行に行って,サクッと換金を済ませる予定だった。

しかし今回の旅は何か悪いモノに捕り憑かれているのか,サクッと物事は進まないのだった。まずいつも使うANZ Bankに行って,自動受付機から順番待ちカードを引いたら,220番台だったのだ。処理状況としてはまだ80番台だったので,100人以上が待っているという,恐ろしい事態である。そこで先にATMで金を引き出して買い物を済ませようと思ったのだが,ANZ Bankの前のATMはANZ Bankのカード以外だと残高照会しかできず,Westpacの前のATMで順番を待ってやっと使えたと思ったら,今度は"PROCESSOR DOWN"とか表示されてCITICARDが使えないのだ。仕方なくWestpacの中に入ってInternationalのところで順番を待ち(ANZ Bankはすべての受付が一本化されていて8つの窓口があるというスタイルだが,Westpacは普通の窓口4つくらいと別にInternationalがあるのだ。どちらの銀行もVIPはまた別なのだが),漸く順番が来たところで,恐ろしい事実が判明した。なんと,こんなことはこれまで一度もなかったのだが,日本円の現金をソロモンドル(SBD)に替えることができないのであった。レートが出ていないということだ。急激な円高のせいらしい。日本円でもTCなら,売買とも1 SBD=11円台なので,こんなことならTCを作っておくんだったと後悔したが,後の祭りだ。ANZ Bankに戻ってみると,まだ100番くらいだったので,次の銀行に向かった。先頃Solomon Islands Banking Corporationを経営統合だか併合だかして意気軒昂なはずのBank of South Pacificである。ここは為替レートは出ていたが,TCが売買とも1 SBD=11円台なのに対して,現金は1 SBD=16円台後半という法外なものだったので,最後の手段に残しておくことにして,いったんホテルに戻った。そこでふと思いついて,ホテルのフロントに聞いてみたら,1円が0.066 SBDというレートで換金してくれることがわかった。これだと1 SBD=15.15円くらいなので,Bank of South Pacificよりは随分レートがいい。そこで,一応ANZ Bankの順番が来るまで待ってから,ダメだったらホテルで換金することに決めた。

それにしても順番待ちがかなりあったので,一旦ホテルの部屋に戻ってコンピュータ仕事を30分ほどやってから出直した。12:30に食事にしようとO先生とF君と約束したので,それまでに銀行の順番待ちが終わって欲しいところだ。3度目のANZ Bankで待っていたら,不意に後ろから声をかけられた。え,と思って振り返ったら,T嬢という調査地の村の娘が立っていた。前の晩からホニアラに出てきていて,今日村に帰るのだという。T嬢は高校まで出ていて,たまにホニアラでアルバイトをしているらしい。60代の両親と同居していて,基本的には村で家事手伝いをしているが,彼女くらいの年齢の娘が村にいると,親戚の子供の面倒をみたり,食事を作ったり,畑仕事をしたりと一日中とても忙しく働かねばならないので,たぶん町に出ている方が楽だろうと思う。最近どうしてる? と尋ねてみると,毎週水曜から金曜までホニアラのUniversity of South Pacificの分校がやっているコンピュータのAdvanced Courseを受けに来ているという返事で驚いたが,Advancedといっても中身はExcelとかWordの入門編らしかった。まあ,通常の事務仕事ならそれで十分なのだろう。

ぼくらも3時にホテルを出てハイラックスで村に行くつもりだから,一緒に行かない? と誘ったのだが,トラックで帰るからいいという遠慮深さは何なのだろう。でも,今日行くのは自分とF君の2人だけだからスペースはたくさんあるよ,と重ねて誘ったら,じゃあ行くかも,と言って去っていったT嬢であった。それからさらに15分ほど待って,漸く順番が来た。

係の男性に日本円をソロモンドルに換金したいんだけど,と訊くと,ちょっとお待ちを,と言ってレートを調べてくれたのだが,沈痛そうな顔を作って為替レート表を見せながら,サー,残念ですが当行では本日は日本円の現金は買いませんと言うのであった。Westpacでダメだったので覚悟はしていたのだが,残念だ。しかし,こちらもタダで引き下がるわけにはいかない。ホテルで換金するとなると,群大の事務にどうして銀行で替えなかったかの理由を証明する必要が出てくるかもしれないからである。そこで,この為替レート表のコピーが欲しいと頼んで,コピーを貰った。銀行にとっては一銭の得にもならないので嫌そうな顔をしていたが,コピーしてくれて助かった。

ちょうど12:30を過ぎてしまったのでホテルに駆け戻り,ロビーで待っていたO先生とF君に遅れを詫び,カウンターで10万円を換金して為替レート表を貰い(これも事務に提出するためだ,もちろん),上海楼という中華レストランで昼食にした。すぐ隣にGarden Seafoodという別の中華料理屋もあるのだが,我々の間では上海楼の方が絶対にうまいということで意見が一致している。このときは種類の違う炒飯を2皿頼んで3人でシェアしたが,今回も最後の慰労会はここでやろうと思わせるくらいには美味だった。食後,バスに乗ってレンタカー屋に向かった。Pacific Casino Hotelの中にあるのでバスを降りるのは容易い。最初は月曜は往復だけだから4時間だけ時間で借り,水曜の朝から土曜の夕方まで4日間借りようと思っていたのだが,レンタカー屋のお兄ちゃんが24時間で600 SBD,1時間で120 SBDだから,その借り方だと2,880 SBDかかるが,今から土曜の夕方まで通しで借りても3,000 SBDしかかからないから,そっちが得じゃないか? と何度も言う。明日は使わないから120 SBDの違いだって無駄な金を払う気はない,と最初は言ったのだが,途中で気が変わって通しで借りることにした。つまり,明日も借りておけばO先生たちがタラウラとか別の場所で補足的な調査をするにも使えるわけだし,何よりも今日4時間で帰れる保障がないということに気付いたからである。後になって考えてみれば,この選択は賢明であった。懸案だった9,000 SBDのデポジットについては,I先生のようにクレジットカードを預けるまでしなくても,クレジットカードでpreauthorisationというサービスを使うと,実際の請求をする寸前の状態にしておけて,車が無事に戻れば請求はしないし,車が戻ってこなかったり損傷した場合は自動的に引き落とすということがわかって,そうした。普通にクレジットカードを使う場合のようにサインまでするのだが,カードを預けてしまうよりは安全だろう。土曜日に9,000 SBDの現金が戻ってきても困るし,そもそもが銀行で換金できなかったのでI先生方式しかないかと半ば覚悟を決めていたので,このやり方を提案して貰えたのは助かった。ピジンで交渉したおかげか?

ホテルへ戻る途中,WINGSというスーパーマーケットでコーヒーを買った。今回は100%ブラジル産RIVA GOLDという美味そうなやつを買ってみた。72.5 SBDもしたが,これだけは気合いを保つ命綱なのでケチらないのだ。戻って20分もすると15:00になってしまったので,荷物をまとめてロビーに行き,チェックアウトした。

さてしかし。待てど暮らせどFさんと運転手氏は来ないのである。一緒に来たら? と誘ったT嬢も来なかったが,たぶん彼女はトラックに乗ったのだろうから問題はない。しかしソロモン人には珍しいほど仕事熱心なFさんが来ないのはおかしい。月曜日だというのに,どうしたことだろうと思いつつ,我々は待つしかないのだった。待ちくたびれた16:00過ぎになって,漸くハイラックスがやってきた。事情を尋ねると,運転手が見つからなかったの,ごめんなさい,という。頼んでおいた運転手がどこかに行ってしまって,急に代わりの人を探していたので遅くなったらしい。FさんはSIMTRIの研究協力部門では下から2番目の地位にいる下っ端なので権威がなく,他のセクションの人は言うことをきいてくれないし,かといって彼女の直属の上司は5月まで出張中だし,その上は不適切経理問題で停職中のB氏なので,他に研究協力部門の人はいないわけで,この状況はいかんともしがたい。保健省に外圧をかけてFさんに偉くなってもらいたいところだ。後日提出するレポートで指摘しておくか。

漸く出発したハイラックスはホニアラ市内こそ普通に走っていたが,郊外に出ると無茶苦茶なスピードで飛ばすのだった。運転手のE氏は,昔はSIMTRIでバリバリ働いていたらしく,舟で調査に出たときにエンジンが落ちて,ワニで一杯の海にダイブした武勇伝などを語ってくれるのだが,こちらは脱輪とか人身事故とかを起こすんじゃないかと気が気ではなかった。高速走行はベランデ川を渡って左折し,村に入って行くガタガタ道に入っても続いた。もちろん舗装道路ほどではないが,水溜りにもバッシャーンと盛大な水しぶきをあげて突っ込むので怖かった。しかし何とか村に辿り着いてほっとした。

flat tire at the village

ところが,外に出てふと車を見ると前輪の片方がぺちゃんこになっている。パンクであった。しかも悪いことに,このレンタカーにはスペアタイヤが積まれていないのだった。最悪である。もちろん,村にはハイラックスなどないので,村でスペアタイヤを入手することは不可能である。

どうしたものかと悩んでいたら,村のリーダー(伝統的なチーフとは違って比較的若く,行政区分上の村長的な役割を果たしている)が,家にポンプがあるから持ってきてやるという。タイヤもないのにポンプ? 何なのだろう? と思って待っていたら,何と自転車用の空気入れなのだった。これじゃあ無理だよ,と思ったのだが,ジャッキを入れて車を持ち上げてから,タイヤのバルブを開けて,この空気入れをつないで空気を入れだしたのだ。へ? と思ってみていたら,不思議なことにタイヤが膨らんでいくのだった。凄い。しかしもちろん,この程度の圧では走行できないし,何よりもポンプを外した途端にバルブがタイヤの中に吸い込まれてしまって,どうしようもなくなってしまったのだった。

man-power pumping!

空はだんだん暗くなってくる。Fさんは腹痛の息子をお母さんに預けたままだというし,E氏は明日帰国するJICAチームのリーダーK先生のビザが延長されたパスポートを受け取りに行くために明日の朝一番でイミグレに行かなくてはならないという。二人とも,できれば今夜中にホニアラに帰り着きたいのである。しかしE氏が持っていた携帯電話も圏外でつながらないため,ホニアラに応援要請もできない。徒歩15分の村からホニアラに定期的に運行しているバスもトラックも最終便が終わってしまった。空と同じくだんだん暗くなっていく我々の心だった。

しかしそこに,バイクの轟音と共に救いの神が現れた。3年前の調査でアシスタント的なことをしてもらっていて,その後オイルパームプランテーションのマネージャーになったので村にはずっといなくて,ちょうど今日から初めての休みを貰えたので,村に帰ってきて,ずっと放っておいた家の新築作業の続きをするのだというJ氏であった。今日から暫く,毎日午前中はバイクで町に行き,午後は村に帰ってくるのだという。まるで下手な小説のようなご都合主義的偶然だが,事実である。E氏の携帯電話をJ氏に預けて,SIMTRIスタッフの誰か(車を出してスペアタイヤを持ってこられる人)への連絡をお願いした。バイクでなら近くで車を持っている人に交渉して車を出してもらうこともできるかもしれない,400〜500 SBDかかるかもしれないが,大丈夫か? というので,SIMTRIからの応援がダメだった場合はそれでもいいと答えた。背に腹は変えられない。

Monday's dinner

この村出身の牧師でありJ氏の弟でもあるC氏の留守宅(セントラル州に赴任中だが,仮に在宅していても間借りをさせてもらえるので,ぼくらの定宿にしている)に荷物を入れ,ぼくとF君が眠るための蚊帳を準備してもらってからJ氏を待っていると,夕食が出てきた。WINGSで買ったブラジルコーヒーは,想像を超えた美味さだった。下手なペーパードリップに勝っているかもしれない。またこれが,各種イモ類に合うのだ。キャッサバ(写真でいうと黄色くて細長いやつ)は太いスジがあって,あんまり好きではないんだが,コーヒーを飲みながらだったら何とかいけるし,クマラ(サツマイモ)は甘くてほくほくしていて,もう何も言うことはない。至福であった。たしかFさんとE氏も一緒に食べたはずで,E氏の武勇伝の続きを聞いたりと談笑しながらだったような気がするので,我々にも楽観的なムードが漂っていたのであった。

やがてJ氏が戻ってきて言うことには,SIMTRIの偉い人には連絡がつかなかったが(と言ったって,ここに来る途中で酒屋の前にいるのを見かけたLB氏のことなので,たぶんダメだろうと思っていたが),A氏への連絡がついたので,何とかなるだろうということだった。前述の通り,A氏は昼間はI先生のテクニシャン兼ドライバーをしているが,この近所の村の出身で,凄く頼りになる人なのだ。ほっとした空気が漂いつつも,22:30頃にスペアタイヤを積んだA氏が運転するハイラックスが着くまでは,とても待ち長かった。けれども今回も最後は(いや,調査自体は始まる前だが)救われて良かった。ハイラックスを見送ると23:30近かったので,この日はもう眠ることにした。曇っていて,前途多難を感じさせる夜であった。

それにしても,さすがにパンクはこちらの責任にはならないだろうな?

まさかこの日が村で最後の水浴びができる日になろうとは(2009年2月17日火曜)

6:30起床。まだ雲が残っているが,何とか村を回るくらいはできそうだ。ぼくらが住んでいる家のオーナーが作った,村に唯一のトイレ(深い穴を掘って底を抜いたドラム缶を埋め,和式便器を置いてセメントで固めたもの)の壁の一方と屋根が壊れたままで,しかも誰も使わないので(村人は海岸でとかココナツブッシュの中で用を足すのだ)水すら用意されていない状態なのだが,何とか使えそうだった。こちらの人はとても察しがよくて,使っているといつの間にか水が用意されたりするのだが,この朝はまだ水がなかった。まあ,できるだけ小便で流して,あとはトイレットペーパーで上から押し込んでおけば,とりあえず問題はない。こちらの食事に慣れてくると非常に便の切れが良くなるので,そもそもあまり拭かなくても良くなってくるのだが,村人はきっとそうなんだろう。トイレットペーパーを使う人は稀で,普通はココナツの実の外側の繊維をほぐしてトイレットペーパー代わりに使っているが,これで軟便だったら大変だろう。1995年に来たときは,まだこのトイレはなく,ぼくもココナツブッシュ派だったのだが,その後できて助かっている。こういう生活習慣はなかなか変えがたい。

Tuesday's breakfast

6:50頃,T嬢が沸かしたてのお湯を詰めた魔法瓶とビスケットを持ってきてくれた。今日の朝食ということらしい。コーヒーが美味いので悪くはないのだが,やはりビスケットよりもクマラの方が美味いと思う。たとえ冷えていてもだ。しかし昨夜FさんとE氏も含めて4人でイモ類を食べつくしてしまったので,今朝はまだイモ類がなく,ビスケットになったようだ。

食後暫くのあいだF君と計画打ち合わせをしてから,JCN氏に頼んで,村々を回って現在人口を確認するのと健診の宣伝をするのに付き合ってもらった。まずはカイオ村から回り始めた。ここには数年前に町から移り住んできた一家もいる。彼らはカパーハウス(屋根がトタンで,きちんと製材した材木を使って建てられている家で,金持ちでなくては作れない)に住み,顔立ちもずいぶん違っていたりするし,電池で動く玩具なんかも随分持っているが,健診への関心は他の村人と同じだ。歩いたら2時間かけないと診療所に行けないところなので,それも当然かと思う。ちょっと離れた場所に昔から住んでいる人たちにも,明日から4日間,いつもの健診でマラリアと高血圧と糖尿病を調べるよ,と宣伝した。本当は糖尿病を調べるためには朝食抜きで来て欲しいところだ。あるいはHbA1cをフィールドで測れる(つまりバッテリー駆動できてチップが常温保存可能でそんなに高価でない)道具があればいいんだが。Bio-radのMicromat IIというのはどうなんだろう?

次のケピ村に行く途中には大きな水溜りがあって,どうしてもその中を突っ切る必要があった。予想していたことなので,靴下を脱いでサンダル履きになり,ズボンの裾を捲り上げて渡った。昼間はハマダラカはほとんど活動しないので,靴下を脱いでいても大丈夫なはずだ。ケピは相変わらず建築作業をしている人が多く,カパーハウスも多い。養鶏で儲けてカパーハウスをいくつも建てた人がいるのであって,誰もが金持ちというわけではないようだ,それでもなお,相対的に他の村より物質的に豊かな印象を受けた。しかし村の端にはキリスト教の宗派が(他ではほぼ100%がAnglicanなのだが)SDAの家族がいたり,30代の奥さんが病気で急逝してしまって,大勢の子供の面倒を見るのが大変なので,出身地のサボ島から両親を呼び寄せて,当面いてもらっているという男性がいたり,いろいろと複雑な状況もあった。

Tuesday's lunch

いったんカイオとケピの間にある教会の近くまで戻って,そこから北に向かった。途中小川を渡渉しなくてはならない場所があったが,さっきの水溜りよりは楽だった。コムベンベとササピとスマの住民への聞き取りと健診の宣伝をおわらせたところで昼になったので,いったんバンバラに戻ることにした。案内に立ってくれているJCN氏も相当な高齢なので疲れたようだし,ちょうどいい頃合であったような気もする。昼食も用意されたばかりのようだった。昨日ホニアラのマーケットで買ってきたというカツオをスリッパリーキャベツと一緒にココナツミルクで煮込んだものを白いご飯にかけて食べると,カツオの旨みがじわーっと口の中に広がる。キュウリのスライスまで付いてきた。完璧だ。

食後,水浴びに行った。雨季のせいか,水浴び場の水量が多く,澄んでいるのが気持ちがいい。ベトベトの頭を石鹸で洗い流したら,とてもさっぱりした。ただし,ここは男の水浴び場だったはずなんだが,途中で近くの中学の女子生徒がやってきたのには驚いた。パンツをはいたまま水浴びしていて良かった。彼女たちは男の水浴び場にやってきたわけではなく,すぐそばにある湧き水のところに来たらしかったが,向こうからは見ようと思えば丸見えな場所であり,恥ずかしかった。

村に戻ってきてから,やや涼しくなる夕方までは休んでおくべきだというJCN氏の忠告に従い,17:00まで蚊帳の中で横になっていた。暑くて眠れなかったが,身体と頭を休めることはできたと思う。17:00頃にのそのそ這い出し,JCN氏を連れてオミに向かった。ここでも澄んだ水の小川を渡渉しなくてはならなかったのだが,実は底が泥質で,下手なところを踏むとズブズブ沈んでしまうのであった。うまく倒木の上などを見つけて踏み渡れば,何ということもないのだが。

オミは3つくらいの部分に分かれていて,超高齢のおばあちゃんが息子と2人で住んでいる一角と,比較的若い世代が数世帯固まっているところと,"Village Microscopist"を自称する初老の男性のカパーハウスを中心に数軒の家が建っているところがある。この順番に回って人口の聞き取りをしながら明日からの健診に誘ったのだが,最後の"Village Microscopist"のところでは酒盛りが行われていて弱った。ほろ酔い加減の彼は,お母さんがガンで亡くなったばかりで,マラリアや高血圧や糖尿病の健診もいいが,ガンは見つからないのかとか,昔はクロロキンを1000錠まとめて村に残しておいてもらえたので便利だったが,最近はどうして陽性者に直接配る分しかくれないんだ,とか答えにくい質問をしてきた。最初の質問には,指先採血や採尿から調べられるガンマーカーもないわけじゃないんだが,ポータブルの機器で安くスクリーニングできるようなものは残念ながらないと答えるしかなかったし,後者の質問には,投薬はSIMTRI(というかガダルカナル州保健省)の領分で,その標準的な治療をしてもらっているので,確認してみるが難しいんじゃないかと答えておいた。薬をまとめて預けると,それを使って商売を始めたりする可能性もあるし,そうなったら不公平感が蔓延して非常にまずいと思われるので,仮にまとめて預けることが可能であるとしても,この"Village Microscopist"氏にではなく,村々のリーダーの合意を取り付けた上で,長老の誰かに預けるしかなかろう。以前は伝統的チーフとヴィレッジリーダーを同じ人が兼ねていたので,彼を信頼することができたが,数年前に糖尿病が悪化したせいか亡くなってしまって,それ以来,村の意思決定構造が大きく揺らいでいて,この種のことを決めるのがとても難しいのだ。

ブッシュの中を通ってメインの道路に出て,そこからコイロとログに行って,畑から帰ってきて晩飯の支度に忙しく働いている人たちを相手に,聞き取りをしながら健診へのリクルートをやってきた。途中暗くなってきたので,フラッシュライトで手元を照らしながら聞き取りを終えたのは,19:30を過ぎていたと思う。

Tuesday's dinner

今回も帰ってみると食事の用意ができていた。素晴らしい。シダ類の葉っぱとトマトのスープとサツマイモとキャッサバという伝統的な(米とラーメンが来る前の,という意味で)ものだったが,美味だ。ココナツ風味のスープがいい。

食べ終わった後は,S氏とかJ氏とかJCN氏とかが集まってきたので四方山話。J氏によると,隣村に高い塔が建てられていて,そこにDigicelという会社の中継アンテナを設置するのだそうだ。電源はソーラーで大丈夫だという。F君の説明によると,Digicel社はPNGでプリペイド携帯電話事業を最近大々的にやっている会社だそうで期待がもてそうだ。けれども,日本に帰ってから検索してみたところでは,2006年くらいから参入を検討しているのだが,Solomon Telekomに訴えられて上級審中だそうだ。こういうのこそ市場に任せておけばいいいのにと思う。J氏が話題を振ってぼくらが答えるという形で22:00過ぎまで話していたが,次の日から健診を始めるということで眠った。

健診初日はジョイント調査で(2009年2月18日水曜)

今日も6:30起床。夜は結構蒸し暑いのだが,朝の夜明け前は肌寒く感じるほど冷える。トイレに行くと,いつの間にか便を流すための水が用意されていてありがたい。

Wednesday's breakfast

朝食はタロイモとキャッサバが主食でありつつも,とうとうラーメンが登場した。まあラーメンも美味いんだけれど,やはりここはサツマイモだよなあと思う。ラーメンの利点は,味のアクセントという意味の他に,お湯さえ沸かせば手間をかけずにすぐできる点にある。9月に来たとき驚いたことは,朝飯がティー&ビスケットという人が増えていたことだ。あれなどは究極の手抜きだ。とはいえ,イモ類だって,前夜に食べ残したものを温めなおすだけなら,たいした手間じゃないと思うので,手間だけの問題ではないのだろう。

9:30頃にホニアラからハイラックスが着くと予想していたので,8:30頃に受付を始めた。今回はほぼピジンで自力で対象者とやりとりした。ピジンがわからない子供が対象の場合は付き添いの保護者に尋ね,老人に対しては周りにいる人が現地語への通訳をしてくれた。QOL質問紙みたいな複雑な内容は無理だが,今回くらい単純な質問ばかりなら大丈夫だ。10人くらい受付(採尿カップ配布と写真撮影を含む)と生体計測と血圧測定(これは全部F君の担当)が済んだところで,2台の車がやってきた。1台はぼくらのチームのハイラックスで,もう1台はI先生と韓国のC先生を乗せ,A氏が運転するRAV4であった(ハイラックスより随分小さいのでレンタル料も比較的安いのだが,ぼくらの荷物は載りきらないだろう)。I先生の希望は指先穿刺でマラリア検査をするときの血を彼らのICT(マラリア原虫の抗原エピトープを迅速検出する簡易キットで,国際的に良く使われているが,低感染強度のときに感度が著しく低いという欠点がある)でも測定することであり,ぼくらの計画とバッティングしない範囲でやっていただくことにした。これまで他の場所でも同じ方法でやっており,相対的な比較は可能とのことだったが,最近のこの地では感染強度の低い感染例が主であり,あまりにも感度が低かったら誤分類が増えて比較は難しいような気もする。とりあえず,ぼくらの本来の計画を優先して,その後で可能なら(既に指先から血は出ているので,そこから数マイクロリットルを採っても対象者には付加的な負担はないので)OKということで合意した。I先生たちが行った別の場所でも昨日からはO先生の勧めでスライドを作っており,それを合わせればここと比較可能になるはずだ。

去年9月はエカさんがヘモグロビンと血糖値を調べてくれたが,あの機械は操作が簡単なので,少し説明すれば研究所の人は担当できるはずと思って,そのように交渉していた。この日はFさんが担当したが,比較的飲み込みは早く,すぐに測定できるようになった。他の人は9月と同様の配置である。これで役割分担が決まったので,後は淡々と健診をこなすことになる。

Wednesday's lunch

昼過ぎに人の流れが一段落したところで昼食にしてもらった。I先生たちは食べ物をいろいろ買い込んで来ていたが,村でもぼくらのために食べ物を用意してくれていたので,その缶詰とかパンとかは村人へのプレゼントとなった。プレゼントされた人は既に受付を済ませているので,食事調査への影響はないはずである。イモ類もキャッサバプディングもスープも美味だったが,この昼食で特筆すべきは,PNGにたくさん生えているピトピトのような植物(そのもの?)を煮たものである。比較的最近持ち込まれた作物で,この時期しか食べられないのだそうだ。村人の食事調査では一切出てこないから,基本的にマーケットで売るために作っているのだろう。食感としては,アスパラガスの缶詰に近い感じで,それほど強い味のものでもないのだが,不思議に後をひいた。

午後も健診を続けることにしたが,I先生とC先生は予定の人数の検査が済んだので,午後は彼らが昨日も行った別の村によって,翌日検査をしに来ることを宣伝してからホニアラに戻ることにしたそうだ。彼らが行ってしまってからもやることは変わらず,夕方まで健診を続けた。O先生,K先生,Fさん,別のテクニシャン,ドライバーがホニアラに帰っていったのは15:00頃だったろうか。しかし,その後で持ってこられたものもあり,尿検査サンプルの検査をすべて終えたら17:00近かった。コーヒーを飲んで一服してからF君に結果を読み上げてもらって個人シートに転記する作業をしたら19:00近くまでかかり,水浴びには行けなかった。

Wednesday's dinner

ほどなく晩飯が運ばれてきた。このように,ぼくの調査中の食事はすべて村人から貰っているが,そのことによって彼らの食事内容が変わってしまうとまずいので,基本的にお礼は帰るときにまとめてすることにしている。そのため,彼らが手元不如意だと購入食品が姿を消すが,それはそれでいいと思っている。この夜はキャッサバとサツマイモが主食で,スープはたしかファーン(シダのようなもの)をココナツミルクと塩で煮込んだものだった。それにしてもサツマイモはいくら食べても飽きないが,キャッサバはだんだん飽きてくる。だからこそ村人も,ときどきキャッサバはすり潰してナッツとかココナツミルクと混ぜてから葉っぱでくるんで蒸し焼きにする,「プディング」にするという加工をするのだろう。サツマイモは偉大だと思う。

食後は前夜と同じく村人と四方山話をしたが,写真加工の夜なべ仕事があるため早めに辞した。蚊帳の中でデジカメ写真をコンピュータに取り込んで,OpenOffice.orgのWriterで1ページ1人のフォーマットで1つのファイルを作り,結果を打ち込んで行く作業は暑いし狭いし辛かったが,1時間半くらいで終わったので,泥のように眠った。

健診2日目は昼過ぎまでハイラックス待ち(2009年2月19日木曜)

前日と同じく6:30起床。やはり朝は寒い。

Thursday's breakfast

昨日I先生があげたパンの一部とビスケットとコーヒーという食事をしてから,コンピュータとプリンタを持ち出し,昨夜作ったファイルの印刷にとりかかった。写真印刷だからそこそこ時間はかかるのだが,普通の写真と変わらないクォリティのものができてしまうiP100は凄いと思う。バッテリーは予備を含めて3本用意しているが,これまでの感じだと,せいぜい2本目に入るか入らないかくらいのところで済むと思う。

平行して健診受付準備も始めたが,コンピュータを大きなテーブルの上に広げてしまったので,机の移動ができないのは間抜けだった。そうこうするうちに9:00を過ぎたので受付を始めたが,待てど暮らせどハイラックスが来ないので,いったん参加者には自宅に戻っておいて貰うことにするしかなかった。

F君とJCN氏と3人で,あまり意味のないことを喋りながら(現地語の語彙を増やすべく,いろいろなモノの現地語についてF君がJCN氏に尋ねたりしていたから,まったく無意味というわけではなかったが),ハイラックスの登場を期待しつつも,時折現れる健診受診希望者の受付をポツポツと進めていった。グダグダな雰囲気になってきた。

Thursday's lunch

12:00を過ぎてもハイラックスが現れる気配はない。昼食をとり,コーヒーを飲んでからも,受付と生体計測,血圧測定と尿検査だけはできたが,ホニアラからのチームが来ないと血液がらみのことは何もできない。今回,受付番号をシールに書いて手の甲に貼って貰っているし,名前も村もわかっているし,写真も撮っているから,人の取り違えは起こりにくいと思われ,チームが来たら血液検査だけ受けにくるよう説明して,家に帰すしかなかった。

15:00頃だっただろうか。突然エンジン音が聞こえ,ハイラックスではなくてRAV4が現れ,そこからO先生,Fさんらが登場した。話によると,昨日の帰り道,ハイラックスのブレーキが効かなくなって,エンジンブレーキだけで帰らざるを得なかったので(怖い話だ),レンタカー屋に預けてチェックしてもらっていたのだが,チェックが終わったのが昼頃になり,その結論として,この故障はすぐには直らないから他の車を使ってくれと告げられたというのである。それからSIMTRIで待機していたはずのドライバーを(当然のことながらどこかに行ってしまっているので)探したりなんだりで,この時間になってしまったということであった。仕方ないといえば仕方ない事情だが,日本では考えられないことだ。基本的に整備技術をもった人が圧倒的に少ないのが問題なのだと思う。

始めたのが遅かったので,17:30頃まで健診を続けた。RAV4を見送ってから尿検査の残りをして,測定関係が完了したのが18:30頃だった。バテた。

Thursday's dinner

コーヒーを飲み,食事をしてから(今夜は白米だった。こういう,精神的にバテた日にはイモよりも美味く感じる),データ確認と転記作業に入った。F君もぼくも疲れ果てているのだが,妙にハイテンションになってきてヤバい感じだ。21:00頃までかかって最後まで転記が済んだが,身体中が汗で気持ち悪い。明日こそは水浴びに行きたいところだが,採尿カップを渡したのに回収できていない尿サンプルが多いので,明日大量に戻ってくる可能性があり,水浴びに行くのはやっぱり無理かもしれない。

今夜は四方山話をする気力さえ残っておらず,早々に歯磨きを済ませて村人にロンド・ドク(Good nightの意味)を告げ,それから蚊帳の中で夜なべ仕事をした。1日目に作ったWriterのファイルは写真の解像度が高すぎて容量が100 MBを超え,操作が重くなってしまったので,この日はIrfanViewのバッチコンバージョン機能を使って,Writerに貼り付ける前に解像度を半分にしておいた。狙い通り,総ファイルサイズが10 MB前後になり(普通に考えると解像度を半分にしたなら情報量は4分の1のような気がするが,それ以上に小さくなったのはjpgとして最適化されたためかもしれない),操作も軽くなってよかった。それでもすべてが終わったら0:00近かった。前夜に続き泥のように眠るしかなかった。

健診3日目は午後から繁盛(2009年2月20日金曜)

6:50起床。今日はハイラックスが来るだろうか。

Friday's breakfast

朝食は今日もコーヒー&ビスケットだった。悲しいが仕方がない。ぼくらが作業をしている間(夜なべは除く),ぼくらの世話をしてくれている家の人たちも眠らないで待っているので,朝食の準備を十分にはできないのだろう。

オミに家があってテテレ警察署に勤めている男が,今日は休みで家にいるため,朝から健診を受けに来てくれた。テテレ警察署はホニアラとこの村のちょうど中間くらいに位置しているので,日勤の場合はバスで通っているのだが,今週水曜と木曜は夜勤だったのでテテレに泊まっていたそうだ。彼の言うことには,水曜夜に脱獄した囚人がGPPOL(アブラヤシプランテーション会社)のハイラックスを奪って逃げ,昨日は1日中その捕り物で大騒ぎだった。空港の東端に張った検問で車とともに5人は逮捕したが,1人だけ逃げ続けている犯人がいるらしい(後で見たSolomon Starの記事によると,Stanley Gitoaという)。物騒なことだ。

夜なべで作ったファイルを印刷しつつ,今日の健診の準備をする。机を用意したり,手の甲に貼るシールに受付番号を書いたり,尿検査で使うカーディイオンメータ(堀場製作所)のキャリブレーションをしたり。印刷が終わったら9:00を過ぎていたので,すぐさま受付を開始した。しかし昼までは20人弱しか来なくて,その分丁寧に聞き取りをすることができた。

Friday's lunch

どうも今日は給料日で,学校も半ドンだったようで,早めの昼を済ませたら,続々と子供たちや学校の先生が健診を受けに来た。遠くから赴任してきている先生の家族とかは,本当は対象じゃないのだが,住民サービスと思って受け付ける。夕方まで何十人か来て,前日血液検査だけしていない人とか,採尿容器を渡したけれども尿サンプルが未提出だった人とかも加わったので,このままでは尿検査が明るいうちに終わらなくなると考え,17:00頃に受付を止めた。その後尿検査をしていたら,カイオのお洒落をした20代の既婚女性が,尿検査で妊娠判定とかできないの? と訊いてきた。既に2人の子持ちである彼女が,なぜ妊娠検査に関心があるのかはよくわからないが,尿中hCGを使った妊娠判定キットは米国から輸入すれば単価100円くらいで手に入るし感度もいいので,不可能ではないけれども今回はそのツールを持ってきていないからできない,次回以降に検討すると答えておいた。ただ,本当にやるとしたら,既婚女性の希望者だけだとしても,インフォームドコンセントの内容も変えなくてはいけなくなり,倫理審査もやり直しとなる可能性が高いので,やはり難しいかもしれない。できることは,この人にキットを持ってきてあげるくらいか。

最後のサンプルが届いたのは18:30頃だったと思うが,結局暗くなってからも検査を続け(今回白色LEDのフラッシュライトを持ってきたのは正解で,この光なら何とか尿検査結果が目視判定可能だった),19:30頃に完了した。

Friday's dinner

これまでの通例からすると,村での最後の夜には鶏をつぶしてくれて,お別れパーティとなるのだが,この夜は違っていた。JCN氏の言うことには,ぼくらも遅くまで検査をしていたし,それ以上に,町に行ったJ氏に鶏の入手を頼んでいたのに,たぶん給料を貰ったJ氏がビアを飲み始めてしまって,鶏のことを忘れて飲み続けているらしく帰ってこないということだ。JCN氏が済まなそうに,ソーリートゥーマス,鶏は明日の朝食と昼食で出すから待っていてくれ,という。いや,JCN氏は悪くないし,食事としてはサツマイモで十分だから気にしないでくれと伝えたが,彼にしてみれば不本意なのだろう。普通に食べ終わった後,パーティはできないが,御礼だけ言わせてくれ,というので挨拶交換となった。彼は,相変わらず目配りの行き届いた長いスピーチをしたが,こちらは検査作業で疲れていた上に,まだ転記をしなくてはいけないので,短く済ませた。でも,そこは彼も理解してくれたようだ。大人だ。

20:40頃から転記作業に入った。作業をしながら,だんだん脳みそが疲れてきたのだろうか。突如として読み上げる数字が3の倍数のときにアホになるという「世界のナベアツ」のネタを始めるF君であった。昨日以上にヤバい。ぼくも笑ったので元気が出たが,周りにいた子供たちが笑っていたのは意外だった。数字の意味がわからなくても笑えるという,さすが世界のナベアツの笑いは世界に通用するんだな。後になって冷静に考えると,大学教員が示す態度としてはどうかと思わないでもないが,このときは,もはやそうでもしないと気力が続かないほど追い詰められていた。22:00近くなって,漸く転記作業が終わった。

遠くで騒ぐ声やラジカセの音が聞こえるのは,給料日効果らしいが,近所の人たちは別に飲んでいるわけでもなく,静かに語って最後の夜を過ごそうと思ったようだ。ぼくらも30分ほど付き合っていたが,まだ写真を整理して主な結果を打ち込む夜なべ仕事が残っているので,23:00頃部屋に入った。狭い蚊帳の下での作業完了は0:30頃だったと思うが定かではない。寝袋に入るとすぐに意識が途切れた。

健診最終日は昼過ぎにホニアラに出て,夜は慰労会(2009年2月21日土曜)

7:00起床。毎日少しずつ起床時刻が遅くなっていくが,疲れ果てているので仕方がない。

Saturday's breakfast

昨夜JCN氏が言っていた通り,朝から鶏をつぶしてご馳走を作ってくれたらしく,豪華な朝食であった。食後は写真付きの結果を印刷させながら健診準備。9:20頃から受付開始し,9:30頃にハイラックスが到着した。しかし金曜午後に受診した人が多かったのと,給料日のバカ騒ぎで飲みすぎた人が多かったのか,そんなに希望者が殺到することもなく,40人くらいだったか,ちょうどいいペースで希望者が来た。12:00までに4日間合計して200人を超えたので,適当に人が途切れたところで今回の調査を打ち切って昼食にした。

昼食も朝食の残りの鶏カレースープとかポポとか盛りだくさんだった。またお互いに短いスピーチをして,月曜にFさんが最終日の結果を持って投薬に来ることと,9月にまた来ることを告げた。その後で尿検査を完了し,荷造りとお礼の支払いを済ませ,主な人々と握手をして村を後にした。半年ごとに来ていると,別れもあっさりしたものだ。ただ,昨夜飲みすぎたらしいJ氏が,建築途中の家に帰ってきているのに,こちらに顔を出さなかったのは残念だった。気まずかったのか?

ホテルに着いたのが15:30頃だったか。荷物整理(洗濯物をホテルに出すための整理を含む)をして,この4日間夢見ていた熱いシャワーを浴びた。ヒゲも剃って,漸く人前に出られる外見になった。テレビを付け,NHKワールドでニュースを聞きながらデータ入力を始めた。18:40頃まで集中して仕事ができた。

After-work dinner at Chinese restaurant

夜は19:00から上海楼で慰労会をした。SIMTRIで一番下っ端のN君が,少し遅れてきて言うことには,自分の家は犯罪者の巣窟であるルンガ橋のそばにあるので,遅くなると襲われるかもしれないから,挨拶だけして帰るという。ハイジャック事件といい,ホニアラも意外に物騒な場所が増えてきたのかもしれない。N君には飲み物だけ持ち帰ってもらった。O先生はこの日のスライドをA氏に染色させてから登場したので,1時間ほど遅くいらしたが,食べ物は十分にあるくらい注文しておいた。7人でさんざん飲み食いしても715 SBDで済んだ。これはもちろん自分のポケットマネーで出すわけだが,安いと思う。この味でこの量の料理が出続ける限りは,慰労会はここ以外は考えられない。

ホテルに戻って,コーヒーを1杯飲んでから作業再開した。データ入力を一部しながら,治療用の薬をSIMTRIの規定に従って小分けして準備するという作業をO先生がされるのに必要な情報をまとめる作業をした。23:00近くなって,O先生に渡す情報(原虫陽性だった人全員の体重と居住村落,健診参加者の中で対象7村落居住者の人数と,対象7村落の現在人口の集計値)ができたので電話をしてから渡してきた。

デジカメ写真の整理と村落,名前入力をして印刷が終わったのが0:00を回った頃だったと思う。これもFさんが月曜に村に行くときに持って行って貰わねばならない。その後になって,中間報告書を作るために今回のデータ入力をしたが,眠気に耐えられなくなって仮眠に入ったのは1:00過ぎだったと思う。

何とか中間報告を終わらせてホニアラを発つ(2009年2月22日日曜)

4:00頃からデータ入力をして6:30にフロントに行き,ウェスタン州に行くF君を見送った。生体計測用具はウェスタンでは使わないということなので,トランクに入れて先に日本に持ち帰ることにした(宅急便で東大に送っておけばいいとのこと)。7:00過ぎからデータ入力を再開した。8:00過ぎにK先生の顕微鏡仕事が終わって結果が出たので,そこで陽性だった人が対象村落内の人だったかどうかと体重を電話でO先生にお伝えし,再びデータ入力作業に戻った(結果を貰いにロビーに行った際,フロントで洗濯物を出し,レイトチェックアウトの交渉をしたら,最初は部屋が既に予約が入っているとか言われたが,我々は常連客なのでO先生が支配人Yさんに電話で交渉して何とか部屋も確保できた)。9:00頃だったか,O先生がマラリア関係のレポートをまとめてCD-Rに焼いてこられたので印刷したが,それ以外は10:45頃までずっとデータ入力をしていた。残り4分の1くらいだ。ともかく中間報告書をと思って若干の文章を15分で仕上げ,慌ててプリントアウトしてフロントに持っていった。

しかし,11:00に来るはずだったFさんは,いつまで経ってもやってこない。結局,11:30頃にK先生を残していったん部屋に引き上げ,データ入力の続きをしながら,マラリア陽性だった全員分の写真と名前と村落名と体重を記入した一覧シートもプリントしてしまった。Fさんにこれももたせておく方が,確実に投薬できるだろうから,怪我の功名とはこのことか。名前と村落名だけでは,同姓同名がたくさんいるので,本人確認が難しいのが,こうした村落調査の難点の一つだが,写真があれば大丈夫だ。

再開したデータ入力が一段落したので(もちろん終わったわけではない),12:30頃再びロビーに行ったが,まだFさんが来ない。そこで,荷物をいったんフロントに託してFさんが来たら教えてくれるように頼み,ホテルのレストランに行った。和食の方に行って懐かしの肉うどん+お握りを頼みたいところだったが,日曜の昼は和食は休みなのだそうで,仕方なので洋食の方に行って,ジンジャーエールとキタノバーガーというのを頼んだ。キタノバーガーはアメリカンスタイルのハンバーガーとフライドポテトが一緒になったやつで,わりと美味だった。75 SBDはやや高いが,初日の焼肉定食よりいいかもしれない。ジンジャーエールは色も味も濃いドライジンジャーエールというシュウェップスの製品で,これも美味だった。

13:30頃食べ終わって会計をしようとしていると,ちょうどFさんが現れた。どうしてこんなに遅れたのか問い詰めると,家庭の問題がいろいろあって,とても忙しかったという。連絡くらいできるだろうと言っても,彼女は家にも近所にも電話がないのだそうだ。彼女は地位は低いが調査進行上で非常に重要なキーパーソンなので,保健省から携帯の1つも貸与してあげて欲しいところだ。で,次に来るときまでに何とかしてくれと言ったら,自分の家に電話回線を引くという。これで次回は問題解決といけばいいのだが。

今回はいろいろな事故があって,連絡がとれなくて不安なまま時を過ごすことが多かったので,できれば村でも使える電話が欲しいところだ。J氏が言っていた,ログ村に電波塔が建つというDigicel社のプリペイド携帯か,それが間に合わなければイリジウム携帯を導入すべきかもしれない。まあもっとも,そうなったらそうなったで日本の仕事が追いかけてきそうで嫌なんだが。

16:30までデータ入力を続けてからホテルをチェックアウトした。朝の話ではレイトチェックアウトだから30%余分にかかるということだったが,結局それは計上されていなかった。支配人Yさんの差配だろうが素晴らしい。16:50頃にホテルのワゴン車に乗った。空港に着くと,既にチェックインカウンターが開いていたので,早速チェックインした。月曜にリコンファームしておいたおかげか,実にスムーズにチェックインできて,首尾よくボーディングパスを手に入れることができた。

驚いたのは,これまでと違って,チケット代の中に出国税は計上済みだったことである。9月はボーディングパスを出国税支払カウンターに出して100 SBDを支払い,切手のようなものを貼ってもらっていたのだが,今回はそれが不要だった。なるほど,確かにEチケットにも,TAX SBD PDと書いてあって,大使館関係のVIP(と,ついでに我々)を見送りに来たYさんによると,PDがPAIDの意味なのだそうだ。それが本当なのかどうかよくわからないが,本当に改めて出国税を支払う必要はなく,19:30頃になると出国ゲートが開いて無事に手続きできた。ここも順調だった。土産物屋は,多少品数は増えたようだが,やはり買いたくなるような土産はなかった。機体は来たとき同様に真っ白な何の模様もないもので,ほぼ満席だったが無事に飛び立てて良かった。

ブリスベン到着も予定通りだったし,村で貰ったココナツ製の土産物も無事に通ったし,タクシーで着いたBest Western Airport Hacienda Motelというホテル(でもインド系らしい運転手はホテル名からでは場所がわからなかったが)へのチェックインもスムーズにできたし(日本からネットで予約しておいたので当然だが),ホテル近くのコンビニのATMで金を引き出すのも朝食のためのサンドイッチとジュースを買うのも予定通りだったので,現地時間の0:00前には眠ることができた。

帰国への道は順調に(2009年2月23日月曜)

現地時間5:45に,コンピュータにセットしておいたアラーム音楽(NokkoのNatural)で快適な目覚めを迎えることができた。それから30分で朝食を済ませてシャワーを浴びて着替え,フロントに降りた。既にK先生は待っていらして,鍵をフロント兄ちゃんに渡してチェックアウトし,呼んでもらったタクシーで空港に出た。

理由はわからないが,今回,JALのカウンターは非常に空いていて,あっという間にチェックインが終わった。これからボーディングまでの間は各自土産物を買うなどあるので解散したが,その前に昨夜のホテル代をまとめて自分が出しているので,O先生がその代金を日本円で払ってくれた。ホテル代はUSドルで97だったが日本円で正確にいくらに当たるかはわからないのだけれども,O先生は概算で支払われた(K先生の分はクレジットカードの課金が分かってからいただくことになっている)。まあどちらでも良いことだが,忘れないようにメモしておこう。

店を回っている途中,K先生から呼び止められた。向こうにいるのはソロモン諸島で出会った韓国からのC先生じゃない? とおっしゃるのだ。まさかそんなはずはないだろうと思ったが,近づいてみると,まさにご本人だった。何でも,ブリスベンに3日間泊まって観光されていたということだ。優雅で羨ましいことだ。優雅といえば,C先生は今度の3月から,一年間のサバティカルが取れているそうで羨ましい限りだ。

出国ゲートに降りて行くエスカレータに乗る直前で呼び止められ,手荷物が1つで10 kgを超えているように見えるから重さを量れと言われ,2 kgオーバーのためにプリンタを取り出して手持ちにしたのは予定外だったが,それ以外はだいたい順調だった。機内でもこうしてコンピュータを開いてキーボードを叩いていたら,後ろの方に2つ並んで空席のところがあるから席を移る? と客室乗務員さんから尋ねられ,広い席に移って快適になったところである。機内映画が往路と同じプログラムだったため,スピルバーグ監督のEagle Eyeというサスペンス映画(なんだかどこかで見たことがあるようなストーリーだが映像とテンポは良かった)だけ見た後は見るものがなくなったので,コンピュータで山中千尋を聞きながらずっとキーボードを叩いて,この記録を打っているのだ。成田まではまだあと4時間ほどあるが,バッテリーは保ちそうだし,できれば機内で記録を仕上げてしまいたい。さらに欲をいえば,データ入力と,帰国後に提出する帰国届けと立替払い計算書も作ってしまいたいところだ。さてどこまでできるだろうか。

軽食をとったり眠ったりしていたので,結局どれもほとんどできなかった。まあ仕方ないとも思うが誤算だった。


(注)この往還記についてのコメントなどは2009年2月14日のメモの"Read/Write COMMENTS"にお願いします。

その他お問い合わせはnminato@med.gunma-u.ac.jpまで。

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