枕草子 (My Favorite Things)

【第20回】 空気の味(1998年4月13日)

今日は5時起きだったので,マンデリンを中挽きにしてペーパードリップして飲んでから,大学には6時に来たわけであるが,本郷通りは既に車が列をなして蠢いていた。本郷通りに沿って正門から赤門までを歩くとき,門の内側と外側では直線距離にして10メートルくらいなのにまったく空気のにおいが違うとはいつも感じていたが,今朝はとくにその違いが強烈だった。本郷通りは空気が埃っぽく,煤か石油のような臭いがする。今朝は舌にまで苦い味を感じたような気がする。ところが,一歩門をくぐると,さっと気持ちの悪い臭いは消えてしまう。朝のせいか,はたまた春のせいか,門の内側は新緑が萌え,気持ちの良い緑の香りがする。植物は偉大である。

4時に起きて5時に来る日は,正門が開いていないので門の外側を通るのだが,この時も郵便局側でなくて大学側を通るのが,気持ち良く過ごすコツである。道の両側で空気の味は違うのである。本郷通りは深夜でも車が途切れることはなく,一晩中空気は苦いのである。

もっとも,白山通り沿いに比べれば,それでも数等「まし」である。昨日は子どもがギンガマンショーを見るので後楽園ゆうえんちにつきあったのだが,白山通り沿いに春日から後楽園まで歩くと,それだけで舌がざらつき,咳がでるほどである。まあ確かにいまは喉の調子が良くないので,咳がでるのはそのせいもあるのだが。こういうとき,ぼくは,東京から車を排除できたらどんなに気持ちが良いだろうか,といつも夢見るのである。ただ排除するだけでは物流面で大きな支障が出るのは目に見えているので,代案を考える必要がある。これは,物語としては簡単である。下水道を利用した地下エアシューターとか,東京に入るところに電気自動車ステーションを作って,すべての物流会社はそこで荷物の詰め替えをするとか,屋根付き人力三輪車を普及させるとか。もっといえば,上田さんが「日本都市論」でいっていたようなクニ都市構想が実現するならば,都市間物流と都市内物流は完全にわけて,都市内はすべて石油系燃料の自動車は禁止にし,都市間も大量輸送は鉄道を主として,従来型の自動車は足の不自由な人あるいは郊外のみ使用可(ただし郊外で乗る場合も使用税を高くして,屋根付き人力三輪車を推奨する)とすれば,自動車公害は日本から一掃できるのである。もちろん,道路交通法の改訂とか,インフラとしての地下にケーブルか超電導による電力供給システムを埋め込むかした道路の整備とか,…が必要で,こまかく詰めると大変な話になるのだが,新たな需要はできるし,環境にやさしいということで諸外国にアピールできるし,と妄想は膨らむのである。

これが暴論であることは百も承知だ。自動車ベースの物流システムの恩恵を受けていることは否定しない。だから,百歩譲って,東京では自家用車を原則禁止,ということでもいい。足が不自由な人以外で,東京に住んでいて,(業務用でなくて)自家用車が必要だ,ということをぼくに納得させられる人がいたら,ぜひメールでご意見いただきたい。必要でなくても使うのは,利便性か愛着であろう。利便性については,自分だけの移動なら公共交通機関に勝るとはとても思えない。荷物を運んだり雨の日に子どもを保育園に連れていったりといった種類の利便性はあろうが,それは上述した人力三輪車でも済むことである(是非どこかのメーカーに開発して欲しい。高性能のものをつくれば中国やベトナムやタイにも売れるだろうから,開発費の元はとれると思うのだが)。とすれば愛着なのだろう。なるほど,本郷なんていう地価の高いところで毎月5万円も払って駐車場を借りる人が何人もいるのだから,自動車への愛着が如何に強いかは推して知るべしである(話はずれるが,本郷近辺では駐車場が儲かるらしく,空き地がみんな駐車場になってしまうので緑地が減るのも悲しいことである)。人の愛着について文句をいうことは,原則として「大きなお世話」であって,してはならないとは承知している。しかしそれは,あくまで,その愛着が他人への迷惑にならない範囲でのことと考える。自動車が原因となって空気が汚れ,自由な歩行が妨げられる。これは立派な迷惑ではなかろうか。日本に住んでいると,道路の主役が自動車であるような錯覚に陥りがちだが,道路の主役はあくまでヒトなのである。狭い道で自動車がすれ違うために歩行者や自転車が待たねばならないなど噴飯ものである(そしてまた,本郷界隈ではこういうことがよくあるのだ)。

もっとも,極論すれば,他人にまったく迷惑をかけない行為などないのだから(呼吸するだけで空気中の酸素を減らして二酸化炭素を増やしているという点を取り上げれば迷惑行為である),コトが程度問題であることは自明である。で,程度問題となると,ぼくの中での線引きは,必ずしも明確ではない。コーヒーの焙煎は許せても煙草を吸うのは許せないというのは,たんに自分が煙草嫌いでコーヒー好きだからであって,それ以上の意味はない。どちらもなくても何も困らない。文化の喪失という点を除いては(また,この文化という奴が難しいのだ。だから,ぼくは煙草を吸うことに対しては現実には文句はいわない)。しかし,本郷通りや白山通りの自動車は限度を超えていると思う。白山通り沿いで行われる祭りなんかに参加しようものなら,その後一晩は喉の調子が悪い。せめて,通行時間帯の制限とか,自家用車保有制限とか実施されないものだろうか(だけど,もしぼくの喉が汚れに強くて逆に足腰が鍛えようもないくらい弱かったら,こんなことは考えないのだろう。人間とは勝手なものである)。


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