第8回看護学懇話会

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第8回看護学懇話会

第8回看護学懇話会を下記の通り開催致しますので、教員・大学院生・学生の皆様の多数のご参加をお待ちしております。

日時
平成14年10月9日(水)  午後5時30分〜
場所
E312教室
演者
中澤 港 助教授 (公衆衛生学・看護健康情報学)
演題
「正常値」とは何か?

◆演者からのメッセージ◆

平成14年4月より着任いたしまして,これまでとはかなり違う環境に戸惑いつつも,いろいろ学びながら気持ちよく仕事をさせていただいております。研究活動のバックボーンが人類生態学という,かなり茫漠としたものなので,自己紹介も兼ねて,これまでやってきた研究の中から,比較的,看護学とかかわりがありそうなテーマをお話させていただくことにいたしました。

それで選んだのが,「正常値」とは何か? というテーマです。これまで10年以上,パプアニューギニアやソロモン諸島の人々の健康状態に関する調査をしてきましたが,とくに,非侵襲的にできて栄養状態の把握に役立つので,身長や体重を測ることを何度もしました。ところで,American Journal of Clinical Nutritionなど,国際的な栄養学系の雑誌に載っている論文をみますと,身長や体重から栄養状態を評価するやり方として,Zスコアを計算することがよく行われています。これは途上国の人々の調査をする場合にも同じで,米国の標準値として使われるNICHSやNHANESなどの結果を基準値として,その中で年齢に対して体が小さい子どもをstunted,身長は低くないけれども体重が少ない子どもをwastedと定義するものです。しかし,よく考えていただければわかると思うのですが,身長や体重などは遺伝的要因によっても変わってきます。健康状態の指標にするなら,体が小さいだけでstuntedと定義して長期的な低栄養状態と判断するのは問題があるのは明らかです。ところが,あたかも米国標準が世界のどこでも正常であるかのような暗黙の前提をおいた論理展開がなされた論文が,世界の一流誌に,ふつうに掲載されているのです。これは非常におかしなことです。

健診などで使われる量的な指標値にも,正常範囲というものがあります。しかし,この場合の正常範囲も,実は盲信するのは危険です。とくに,分子レベルのメカニズムがはっきりしていなくて,疫学研究の成果として出てきた場合は,それがどこでどういう対象に行われた研究かということに配慮しなくてはいけません。例えば,血清生化学検査値で,コレステロールが高いことばかり問題にされますが,東京都老人研のフォローアップ調査によれば,低すぎる人たちの死亡リスクが一番高いことがわかりました。もともとコレステロールレベルが問題になってきた集団では健康に影響するほどコレステロールが低い人たちが少なかったのに,日本人ではそうではなかったことが原因でした。疫学研究の弱点は,得られる結果が対象集団の遺伝的特性と曝露している環境に依存している点にあります。血清生化学検査値や身長,体重などの表現型は,環境要因と遺伝的要因の両方から影響を受けるのに,それを無視して単一の正常値があると考えてしまうのは,二重の意味で問題があります。一つには,表現型の最適値がどういう環境でも普遍であるという盲信がありますし,もっと根本的には,集団間の遺伝的差異を無視しているという問題があります。これらは実は不可分です。遺伝的差異は長期間の環境適応の結果と考えられるからです。

今回の発表では,パプアニューギニアに居住するギデラ族の血清生化学検査値と,ソロモン諸島ウェスタン州住民の尿検査結果についての具体的な数値を使って,環境による差異を示し,さらに,表現型の最適値は環境によって変わるし,他の表現型との関連で変わるということについて,倹約遺伝子仮説をとりあげてご説明したいと思います。


第8回世話人 中尾・森田



発表概要

この発表概要は,2002年10月15日に,発表に使ったimpressのプレゼンテーションファイルを改変して公表するものです。

「正常値」の考え方
●暗黙の前提(正しい):ある集団内の健康と思われる人々について測定された,何らかの指標値から求めた範囲を正常とみなして,そこから外れたら何か異常がある可能性が高いと考える。つまり集団内での個人を位置付ける考え方
●転用(要注意):集団間の比較のために,基準となる集団(多くは先進国,とくに米国の集団)の正常範囲を使って「正常でない」人の割合やZスコアを求める
生体計測値の評価法
●栄養学や疫学の標準的なテキスト(例えばJelliffe and Jelliffe "Community Nutritional Assessment", Oxford Univ. Press)でも,ウォーターロー(1973)によるPEMの分類が掲載されている。米国の標準値に対してW/Hが80%未満だとwastedになるし,H/Aが90%未満だとstundedと扱われる。
生体計測値の評価法(2)
●上記の体型イメージによる図示
表現型=遺伝+環境
●異なる遺伝的バックグラウンドをもつ人々について,同じ表現型を「正常」といえるのか? 欧米中心主義に過ぎないのではないか?
(例)ピグミーやネグリトなど遺伝的に低身長なのは「異常」か?
(例)日本人やピマにおけるTrp64Argは「異常」か?
異なる環境で暮らす人々について,同じ表現型を「正常」といえるのか?
(例)マラリア蔓延地帯でのHbSやサラセミアは「異常」か? 貧血は「異常」か?(cf. S. Kentの説
PNG, Gidraの血清生化学検査値について
Gidraが生活する土地の地図
●写真:キャンプ中の母子(北方の村近くで)/サゴ作り/海岸の村で獲れたバラマンディー:主食はサゴヤシの幹から抽出したデンプンだが(海岸の村の人々だけはサゴヤシが生えていないのでマーケットで買っている),バナナ,あるいはヤムやタロなどのイモ類も焼畑で作っているし,ココヤシもかなり利用している。最近ではオーストラリアから輸入した米も食べている。多種多様な果物が採れるし,食べられる野草の葉も豊富にあるし,ワラビーやバンディクートなどの有袋類,ヒクイドリなどの鳥類の他,人に飼われていたものが逃げ出して野生化したブタやシカなどが豊富に獲れるし,川沿いや海岸の村では河や海でエビや魚が十分に獲れるので,エネルギー,タンパク,脂質,ビタミン類,ミネラル類のどの側面についても,栄養素摂取レベルは十分に高い。身体活動量が多いので,概して筋肉質の人が多く,握力などは日本人よりもずっと強い。
●グラフ:授乳状態別末子出産年:多くの人が断乳などしない。3年くらい授乳するのは普通。母乳しかあげないわけではなく,バナナを噛んであげたりするのは,生後3ヶ月くらいからやっている。少なくともこの社会では断乳などしなくても問題は起こらない。授乳期間が2年でも3年でも「異常」ではない。
●グラフ:低い完結パリティ分布:意図的な出産抑制はしなくても授乳期間が長いために出産間隔が長くなることもあって,完結パリティは低い。そのため,人口増加は緩やかであった。Gidraのような自然埋没型の暮らしでありながら十分な栄養がとれるためには,人口密度が高くなってはならず,長い授乳期間は適応的であったといえる。
●グラフ:身長と体重/成長曲線:身長は米国標準よりは小柄なので,ウォーターローの分類を単純に当てはめるとstuntedの人が出てくるが,慢性的な低栄養ではなく,たんに遺伝的に小柄なだけと考えられる。
●血清生化学検査値(出典:Nakazawa, M., R. Ohtsuka, T. Hongo, T. Inaoka, T. Kawabe and T. Suzuki (2000) Serum biochemical data of the Gidra in lowland Papua New Guinea: Consideration of their normal ranges. Journal of Nutritional and Environmental Medicine, 10(2): 153-162.)

男性女性全体
パーセンタイルパーセンタイルパーセンタイル
指標*N10th90thN10th90thN10th90th

γGTP (IU/L)2319.023.52887.417.15197.720.0
ALP (IU/L)23141.679.228836.077.151937.178.5
AST (IU/L)23111.935.428810.531.051910.732.7
ALT (IU/L)2316.523.22886.319.55196.320.9
LDH (IU/L)231158.0260.0287**158.0252.0518158.0256.0
CK (IU/L)23199.0528.028872.0315.051979.0454.0
BUN (mg/L)23169.0219.028864.0214.051967.0217.0

* 略語は以下のとおり:γGTP:γグルタミルトランスペプチダーゼ,ALP:アルカリフォスファターゼ,AST:アスパラギン酸アミノトランスフェラーゼ(GOT),ALT:アラニンアミノトランスフェラーゼ(GPT),LDH:乳酸脱水素酵素,CK:クレアチンキナーゼ,BUN:尿素窒素
** 量が足りなかったサンプルが1つあった。
●CKが高いけれども,多くの人についてこれは病的なものではなく,筋量が多くて運動量が多いために,生理的に先進国の「正常値」と違っているのだと考えられる。こういう指標は杓子定規に先進国の標準値を「正常値」としてはいけない。
ソロモン諸島ウェスタン州4村落における尿検査結果について
プロジェクトのニューズレターに発表した内容
●尿検査陽性の出現割合は全体として低く,健康である。
●尿路感染症有病割合もそれほど高くない。
●pHレベルの村落間差の原因:パラダイス村では,サツマイモと魚を主とした食生活を維持しているためと示唆される。尿pHレベルが高いことは異常ではない。
全体のまとめと意見
●「正常値」には幅がある。その幅は環境条件と遺伝条件両方の影響を受けて変動するので,個人の検査値が異常であるかどうかを検出するためには,その集団固有の「正常範囲」を設定すべきである。
●健康指標を使って集団の健康状態を評価するのは公衆衛生学や疫学の常套手段だが,正常値が集団固有のものである以上,その解釈には注意が必要である。遺伝子データによる集団間の近縁度の評価と同様,複数の指標値を組み合わせた多角的評価が必要であろう。

リンクと引用について