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個別メモ
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【第1237回】 講義とか(2009年1月21日)
- 5:00から講義資料作りを再開したが終わらず,往路あさま510号でも両毛線でもバスでも継続。10:20頃やっと終わったのでメール送信した。
- 内田樹さんの学習意欲の欠如が構造的な問題だという指摘は正しいと思うが,大学教育を文化として税金で支えることが可能なら,絶対評価にするだけで問題は解決すると思う。絶対評価にしたら学生数は激減すると思うが,そもそも高等教育を受けるのは高等教育を受けたい人だけでいいだろう。しかし国立大学法人の運営費交付金さえゼロにされそうなご時世だから,そういう方向には向かわないだろうな。
- やっと講義が終わった。初めて国家試験対策の補講を担当してみたが非常に疲れた。新ガイドラインに入った項目のうち,高齢者医療確保法はポイントが多くて長大かつ見直しが面倒な話になっているし,化学物質過敏症は病態として議論があるところだし,フォローしておく必要はあると思うが大変。これだけ政治的にコロコロ変えられると学生も困ると思う。最近のトピックとしてもレセプトオンライン請求義務付けと,それに対する日本医師会,日本歯科医師会,日本薬剤師会の猛反対とか提訴(今日あるはず)とか,感染症法の度重なる改正とか,ヘルシンキ宣言の改訂とか,公衆衛生分野は変化が激しくて疲れる。
- さあデータ入力をやろう。
- 漱石の「こゝろ」は英語でもKokoroと書かれるのが普通だが,敢えて訳すならMind,Feeling,またはThe heart of thingsが提案されているようだ。Mental Check SheetよりもMind Check Sheetの方がいいかも。
- それにしても,なぜPanasonicはBD対応のシェルドライブを作らないのだろう。あるいは,普通のスリムトレイ式BDドライブが入るLet's note Yシリーズを作らないのだろう。UJ-120とかUJ-210が入るLet's note Yシリーズを作って欲しいと思うのは,ぼくだけなんだろうか。
- 18:30から准講会の幹事会があって,2時間弱かかった。雨が降ってきた。24日からバスのダイヤが変わるらしい。20:33発(といいつつ,いつも20:35を過ぎないと来ないが)が無くなって,20:10の次は20:48までなく,その次が21:20ということだ。ますます不便になるなあ。21:06前橋始発の上野行きで高崎に出て,復路あさま549号。
- 養老孟司『養老孟司の人間科学講義』ちくま学芸文庫,ISBN 978-4-480-09171-0(Amazon | bk1 | e-hon)を読了。著者は,「人間科学」とは「人間という普遍的尺度」を,物質・エネルギー系に加えて情報という視点からも扱う科学であるという。そして,「われわれが世界について,なにか知っていると思っていることは,脳の中にある「なにか」でしかない」という出発点から,人間における情報系を脳-言葉と細胞-遺伝子という2つに整理した前半部分は,まあ『唯脳論』の自然な発展である(解説で内田樹がレヴィ=ストロースの「ブリコルール」を引用して,養老さんは人間という「ナマの」対象に科学的に取り組むために,手持ちの材料を最大限に生かそうとしている意味でブリコルールであるといった主旨のことを書いているが,著者のこのアプローチ方法は以前からずっと変わらない)。『方丈記』に触れながら,情報は脳が固定した不変のものであり,脳とか細胞といったシステムは生きて動いているから常に実体は入れ替わっている,という辺り,いつもの養老節が展開している。なお,ここで言葉というのは「脳が扱う情報の代表」ということであって,必ずしもそれに限定されるわけではない,と書かれているが,鈴木継美(1980)『人類生態学の方法』東京大学出版会で,人間を含む環境を扱う「生態学的複合」が〔自然・技術・社会組織・言語・人間〕と模式化されているのと,表現方法は違うが言っていることはたぶん同じなので,ここに言語を持ってくるのは当然であろう(その意味で,人類生態学の方が20年先行している)。2つの情報系の整理に続いて,養老さんの話は都市に向かう。ここで展開されている都市についての論考は,いま書いている本の「都市の生態学」の章でふれるべき点がいくつか含まれていると思ったが,かなり人類生態学的な把握に近い。そこから自己・世間・シンボルなどについて,2つの情報系という視点を軸に論考が進むが,この辺りは切れ味がよく面白い。ただ,最後のところで「各論」的な議論に入ってしまったといいつつ性差を論じているのだが,「自己」論のところで,脳が常に自分が同じ自分であるという自己同一性を主張するということ,それに伴うどこまでが自己かという問題の厄介さ,統合失調症は脳が考える自己の範囲が変動することであるという見方,身体的自己は免疫系によって強く規定されること,身体は自然に属していて脳がコントロールすることはできない(いつ病気に罹るかとかいつ死ぬかを意識が決められるわけではない)ので衣服によって隠されるといったことを言っておきながら,性同一性障害について論じていない点は不思議だ。脳による性自認が遺伝子発現としての身体表象とずれているからといって,身体表象を脳に合わせることが治療として社会から受け入れられているのはかなり不思議なことで,統合失調症とか気分障害だったら脳を治療するのが当たり前だと思われていることから考えれば,脳を身体に合わせられればいいのに,そういう方向での治療がないのは,それだけ性自認というのが自己認識・自意識のなかで重要な部分を占めているということだろうかとも思うが,この辺り,社会的自己規定の方により依存していると思われる異性装との違いも含めて,養老さんならどのように分析するのか読んでみたい気がした。
- 長野は雨(雪ではなく!)だったので,自転車は駅の駐輪場に置きっぱなしにして,長野電鉄で帰った。
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