最終更新: January 7, 2006 (SAT) 11:48 (リンク切れ修正)
タイトルは本書のテーマの一部に過ぎない。てっきりエリック・シュローサーみたいな米国の食(とその安全政策)の駄目さを批判することに主眼がある本かと思ったら,もっとずっと視野が広く,非常に示唆に富んだ内容だった。一読の価値はあると思う。ただ一方では,ある意味で物凄くナイーヴであり,プロパガンダ的であり,偏ってもいる(後で具体的に指摘する)。たぶん,こうやってストレートに主張したら,リスク論とは平行線で議論が噛みあわないし,リスク論なら考慮してくれる一般の人や政府関係者も,「そういう考え方もあるよね」と言って終わらせてしまうだろうと思われ,戦略的には失敗ではないかとも思われる。まずは目次を挙げておく。
- はじめに−狂牛病が問いかけたもの
- 環境からの揺り戻し/生命は「流れ」の中にある
- 第1章 狂牛病はなぜ広がったか−種の壁を越えさせた“人為”
- スクレイピーと呼ばれたもの/先駆者,キュイエとシェル/狂牛病アウトブレイク/レンダリングという名のリサイクル/もう一つの人為/種の壁/イギリスの犯罪/新型クロイツフェルト・ヤコブ病/判定は人畜共通感染症
- 【コラム1】狂牛病をBSEと呼ぶべきか?
- 【コラム2】海綿(スポンジ)状脳症に共通的な特徴
- 【コラム3】もう一つのヤコブ病−日本発,薬害ヤコブ病事件
- 第2章 私たちはなぜ食べ続けるのか−「動的平衡」とシェーンハイマー
- なぜタンパク質を食べ続けなければならないのか/シェーンハイマーの実験/生命のジグソーパズル/動的平衡のもつ意味/シェーンハイマーの一生/生い立ち/突然の死/シェーンハイマーの残したもの
- 【コラム4】タンパク質代謝の研究前史
- 第3章 消化するとき何が起こっているのか−臓器移植,遺伝子組み換えを危ぶむ理由
- 消化管のセンサー機構/作業仮説を立ててみた/モニター分子を追いつめる/食物と生体とのダイナミックな応答/消化の生物学的意義/「遠いところのものを食べよ」/臓器移植という蛮行/生命連鎖から遠い考え/実質的同等性の陥穽
- 【コラム5】科学実験の失敗をめぐる判断の難しさ
- 第4章 狂牛病はいかにして消化機構をすり抜けたか−異物に開かれた「脆弱性の窓」
- 子牛に与えられたスターター/母子免疫の巧妙な仕組み/アレルギーの引き金か
- 第5章 動的平衡論から導かれること−記憶は実在するのだろうか
- 記憶はどのようにして保持されるのか/記憶物質の幻/マコーネルが作った科学雑誌/アンガーの実験/ラットから金魚へ/記憶は信号の流路パターンである/生み出された物語/見てはいなかったはずなのに……
- 【コラム6】グルタミン酸をとると頭がよくなる?
- 第6章 狂牛病病原体の正体は何か−未知のウイルスか,プリオンタンパク質か
- ホルマリンに漬けても無毒化しない!/考えられない観察結果/病原体は進化する/核酸をもたない生物?/グリフィスの思考実験/クールー病とヤコブ病/弧発性ヤコブ病はなぜ起こるのか/プルシナー登場/プリオン説とは何か/言葉の威力/プルシナーの独走/ノーベル賞への道/プリオン説へのこれだけの疑問
- 第7章 日本における狂牛病−全頭検査緩和を批判する
- 政府の対応/アメリカでの発症と日本の動き/全頭検査見直し論/全頭検査を行う意義/検出感度向上の努力を/アメリカ産牛肉の安全性/特定危険部位さえ除けばいいのか?/血を介しても伝染する!?/感染源および感染経路/「リスク分析」という欺瞞
- 【コラム7】エライザ法とウエスタンブロット法
- おわりに−平衡の回復
- 自然が開始したリベンジ/すべてのものは繋がっている
- 主な参考文献
この章立てからも,牛肉の安全性だけを主題にした本でないことは明らかだろう。大雑把にいえば,1章までは,狂牛病(BSE)についての事実関係をまとめたものである。新しいデータまで要領よくまとまっていて見通しがいい。2章と3章は「動的平衡」という概念(これは,たぶん生態学的といっていい,循環的生命観に通じている)の提示である。シェーンハイマーの業績を明確化したという意味合いも大きいと思う。異化と同化とか代謝回転という考え方は栄養学では常識だが(栄養学の標準的な教科書である,"Davidson and Passmore: Human Nutrition and Dietetics"のProtein synthesis and turnoverのところにはシェーンハイマーの話も含めて明記されているから,栄養学をちゃんと学んだ人ならたぶん誰でも知っているはず),一般の人には新鮮かもしれない。第3章の仮説検証プロセスは著者自身が行った科学のダイナミックな営為の魅力が溢れている。4章は,狂牛病の起こったプロセスを説明している。5章は,動的平衡的生命観から,記憶のメカニズムを説明したものである(狂牛病と直接の関係はないが,面白い)。6章は狂牛病の病原体としてのプリオン説の成り立ちとその弱点に触れ,別のメカニズムも成り立つのではないか,と疑問を呈している。別のメカニズムの可能性については何箇所かで触れられているが,一つ引用すれば,
しかし見つからないからといって存在しないことにはならないはずだ。たとえば,真犯人は,やはり未知の,非常に見つかりにくいウイルスであり,宿主の細胞に感染する際に,プリオンタンパク質が足場(レセプター)として必要である,と考えれば今ある状況証拠に別の説明がつく。(p.192)
ということである。これは確かにその通りだと思う。本書では触れられていなかったと思うが,プルシナーのグループは,1999年の時点で,遺伝子組み換えマウスをBSE牛の脳から抽出したプリオンの注射によって感染させ発病させることに成功している(当時のweb日記で紹介した)けれども,まだ決定的な証明とはなっていない。決定的な証明が論理的に可能なのかどうかわからないが。
続く7章は章題の通り,日本における狂牛病への政府の対応について,全頭検査の迅速な実施を高く評価し,リスクアセスメントが全頭検査は不要としていることを強く批判している。本書のタイトルからすれば,たぶん1つのコアになる章といえよう。狂牛病の病因論にまだ謎が多い点と,狂牛病が感染症である点からの批判は尤もなのだが,やや感情的になっているように受け取れる文章は逆効果な気がする。ここでなされている,狂牛病の原因はまだ完全にはわかっていないし,20ヶ月未満でも発病する場合もあるのだから,“現在の検出法では検出限界以下になってしまって検出できない可能性が高くて無駄だからそこの検査はやめよう”という食品安全委員会提言は間違っていて,むしろ検出感度の高い方法を開発するという方向にいかねばならないという議論はまったく正しいと思う。しかし,それは資源が無限にあって,新興感染症がnvCJDだけならば,の話である。現実には,資源は有限だし,多くの新興感染症は,ヒトが環境を人為的に改変したり,それまで接しなかった環境に触れることによって起こるというメカニズムを考えれば,たとえばエイズとか薬剤耐性結核とかMRSA感染みたいな,nvCJDよりもよほど感染力が強い新興感染症への対策と,どちらを優先して進めるべきかという意思決定をしなくてはならないことは自明だろう(本書が指摘するとおり,感染症でないフグ毒のリスクと比べるのは不適切だと思うが)。それ以前に,「そうまでして牛肉を大量に食べ続ける必要があるのか」という問いかけも必要だろう。リスク論は「病気は狂牛病だけではないし,対策に使える資源が限られているから,もっとも効果的に損失余命を少なくするような対策を取るべき」と主張しているので,本書の主張は,リスク論の問題設定への答えにはまったくならない。それなのにリスク論を政治的だという理由で批判するのでは筋違いとしかいえないと思うがどうか。
「おわりに−平衡の回復」で述べられている循環的生命観にはとても共感するのだけれども(たぶん生態学者ならば誰でも共感すると思う),ここもアレルギーを起こす人がいそうだ(工学畑の人や,医療関係者は反感をもつかもしれない。たぶん,見ているタイムスパンが違うせいだろう。p.98で触れられている遺伝子組換えにおける「実質的同等性」概念への懸念も,生態学的には当然だと思うのだけれども,例えば青空MLで紹介したように,とあるシンポジウムで喋った日経BP社の宮田さんのように短期的な技術的視点からだけみたら検討の必要なしとされてしまいそうだ。お互いの立脚点を踏まえた議論が必要だという方向にもっていけないものか?)。以下,気になったポイントに個別に触れる。
とあるのだが,これは初耳であった(結構食に関する本は読んでいるつもりなのだが)。出典が知りたいところだ。これを「遠い所」と受け取ると地産地消できなくなってしまうのだけれども,著者の理解によれば,「遠いところ」は地理的というよりも生物学的(遺伝的?)な距離の遠さを指すものということになるらしい。なお,cannibalismを「カンニバリズム」と表記しているのは違和感がある。通常,カタカナ表記はカニバリズムではなかろうか。食に対する伝統的な言い伝えを調べてみると,しばしば“できるだけ遠いところのものを食べよ”という教えを見つけることができる。
には同意しかねる。既に公的なものにすべて任せておける時代ではない。メディアが不安ばかり煽る中で,本当に安心しようと思ったら,自分でよりよく知って自分で判断するしかないのではないか。もっとも,これに続く,このように問題点の多いアメリカ産牛肉の輸入が再開されれば,結局,その判断は消費者レベルに委ねられることになる。しかしそもそも複雑で見えないプロセスを経て,遠い場所からやってくる食の安全性に対して,消費者が当事者として判断能力と情報収集能力に限界があるからこそ,公的なシステムにそのチェックを負託しているのが現代の食の安全性のあり方ではなかったのだろうか。これを消費者に転嫁するのはあまりに無責任である。
は重要な指摘だと思う。筋論からいえば,不正がないような表示にすべきだという話になるし,加工食にも給食にも表示と選択の自由を確保すべきだという話になるとぼくは思うが,現状では確かに著者の言うとおりだろう。表示があればよいとの議論もあるが,あまたの不正表示を目の当たりにすれば,それがどれほどの信頼に足る情報か疑わしい。また加工食や給食には表示も選択の自由もないのである。
少々書評の範疇を逸脱してしまうが,最後に敢えて書いておくなら,読者は,是非,中西準子『環境リスク学』日本評論社(書評)と併読されたい。すると,BSEのような問題については,たぶん唯一絶対の解はないということがわかってくると思う。ではどうしたらいいのか,というのは,その上で,読者自身が考えねばならない問題だ。その意味では,まったく毛色は違う本だけれども,赤川学『子供が減って何が悪いか!』ちくま新書(書評)が訴える通り,リサーチ・リテラシーはとても大事だ(だから,読者は,統計がわかりませんとか専門用語がわかりませんとか言ってそこから逃げてしまってはいけないのだ)。現代に生きる我々は,さまざまな立場から喧伝される情報に対して,自分の頭で論理的に判断を下さねばならない局面に来ていると思う。そのためにも,あまり他所では触れられないような立場からのデータや意見を知っておくことは重要で,その意味でも本書は是非読んでおくべきであろう。