最終更新:
May 21, 2008 (WED) 15:04
(著者からの回答へのリンクを追加)
前回の更新:August 12, 2005 (FRI) 14:20,bk1のリンク先訂正
現代の日本における「環境リスク学」第一人者である中西準子さんの,退官記念講演をまとめたものに,いくつかの小論を追加したものである。目次は以下の通り。
- 1部 環境リスク学の航跡
- 1章 最終講義「ファクトにこだわり続けた輩がたどり着いたリスク論」
- 2章 リスク評価を考える−Q&Aを通して−
- 2部 多様な環境リスク
- 3章 環境ホルモン問題を斬る
- 4章 BSE(狂牛病)と全頭検査
- 5章 意外な環境リスク
- あとがき
- 索引
ぼくは学部学生のときに,都市工の教室で行われていた「公害原論」の自主ゼミに出たことがあり,そのとき初めてお会いした(といっても一方的にこちらが知っているだけだが)中西さんは,まだ助手であったことを思い出す。本書に入っている退官記念講演を読むと,あの当時の中西さんが相当な逆境の下で画期的な研究成果を上げていたことがわかる。環境リスク学に行ってからの中西さんは,たぶん「公害原論」の仲間からは,相当な批判を受けたんじゃないかと思うけれども(例えば,宇井純さんは,「月刊水情報」の最終号のインタビュー記事で「インプットがひょっとするとおかしいんじゃないか」と言われている),環境リスク評価という仕事を日本にある程度根付かせることができたのは,雑音に負けない彼女の強い意志のおかげだろう。
本書には,中西さんが,周囲の状況から紆余曲折を経ながらも,事実に基づいた環境問題への合理的な対処法を探索してきた結果として,「環境リスク学」に行き着いた過程が生き生きと描かれている。1章は最終講義なので,ご本人が過去を振り返りながら語っているわけだが,「公害原論」時代を知っているぼくの目から見ても,誇張もなければ過度な謙遜もなく,淡々と語られているのが中西さんらしいと思う。この姿勢は,研究者として見倣いたいものである。p.74にある「ファクトへのこだわり」とその理由を書かれた部分が強く印象に残ったので引用しておく。
私は父の人生の影響で子どものときに激動のなかを生きてきました。これ以上怖いことはないということを経験し,また,そういうときに人間が見せる優しさ,浅ましさ,そういうものを見てきました。そのことは私の生き方に非常に大きな影響を与えたと思います。それは,研究の面ではファクトへのこだわりとして影響を与えたように思っています。
2章はインタビュー形式で,リスク評価について一般に疑問をもたれやすい点がわかりやすく説明されており(ただ,最初のところの,戦争のリスク評価の話は,もっともではあるけれども,個別のリスク評価をきちんとした上でなら戦争OKと言っているように読めてしまって嫌な感じがする。資源の無駄遣いだから戦争は永久にこれを放棄するのがあらまほしい),3章以降はダイオキシンとBSEという衆目を集め国家レベルで大問題になって立法までされてしまった問題を例にとって,環境リスク学の考え方を実際のツールも示しながら紹介している。もちろん基本的にエッセイなので,厳密に理解しようとすると記述が足りないのだが,その辺りは,例えば,益永さんと松田さんとの共著である「演習 環境リスクを計算する」などを読んで,自分で計算しながら補完すればよいと思われる。ともかく本書には中西さんの考え方のエッセンスが飾らない形でくっきり現れていて,強烈な印象を残す。環境問題には基本的に利害の対立があったり,コストやリスクとベネフィットのバランスをどこで取るかという問題になることが多いので,いたずらに不安を煽るだけでは解決には程遠くて,きちんと計算して「どの程度のリスクなのか」を見積もらねば話が始まらないという点には同感である。ヒトは環境の中で生きているので,環境問題には部外者はありえないことを考えれば,関心があろうとなかろうと,現代に生きる人ならば知っておかねばならない見方だと思う。是非一読をお薦めする。
もちろん,リスクの見積もりはあくまで議論のスタートポイントである。真の解決は,それを人々がきちんと理解した上で,妙な圧力や権力によらずに,対等な立場で議論をして,合意点,あるいは妥協点を探っていくところに生まれてくるだろう。その意味では,きちんと理解してもらうためのリスクコミュニケーションは,本当に大事な問題である。不幸なことに,食の安全の問題1つとってみても,まだ食品安全委員会が十分な活動をしているとは思えないし,環境自由大学 青空メーリングリストでも,リスクコミュニケーションの難しさは感じているので,いいアイディアは浮かばないのだが。
最後に細かいコメントを,ばらばらと列挙して評を終える。
二年くらい前にも米国で年寄り差別だという抗議運動があって,一部で損失余命を使うのをやめたこともあります。これは,決して差別ではないのですが,ある種の政治運動にされてしまうこともあるのです。こうした差別問題のプロパガンダに十分対処すること,その裏側には,評価の高い人と低い人がいるので,使い方によっては差別的になること,また,限られた資源のもとでは,誰かが救済され,誰かが救済されないという現実があり,それが,評価への批判になりやすいという事実をよくふまえないといけないのです。
追記。BSE問題について,2004年12月20日付けで出版された,福岡伸一『もう牛を食べても安心か』文春新書(書評)も,病原体としてのプリオンの特性から,BSEのリスクをフグ毒のリスクと同列に扱うことはできないと指摘している。もっとも,その後,リスク分析はポリティカルな方法論だと断じて批判してしまっては,中西さんたちと議論しても平行線に終わってしまうと思われ,やや残念である。本当は,福岡さんのような人と中西さんが同じ土俵で材料を全部公開して議論を戦わせたら,一般市民にとっては,物凄く大きな判断材料のリソースになると思うのだが。
さらに追記。BSE問題については,青空MLへの投稿で,ぼくが全頭検査は必要ないと思う理由を書いたことがあるのを思い出したのでリンクしておく。その前後の議論も併せて読まれると,考える材料が増えると思う。