最終更新: August 18, 2005 (THU) 18:18 (書評掲示板より採録)
真核細胞がミトコンドリアを飼い馴らしたという立場で生物の歴史を解き明かし,かつ著者自身が発見した「ミトコンドリアの分裂装置」にテーマが収斂していくのが見事である。歴史を辿っているので副題の「遡る」は妙な気もするし,専門用語や略語も頻出するので,一般向けとしてはちょっととっつきにくい気がするが,こうやって本物の研究者(なんたって,その研究がNatureの表紙を何度も飾っているようなお方なのだ)が自分の研究の展開を語ってくれるのは,研究者を志す若者に勇気を与えてくれる最良の手段ではないかと思う。生物系の若手研究者は必読だと思うし,4章あたりから展開される発見物語には迫力と臨場感があって,内容が正確につかめなくても一般読者でも楽しめると思う。
ともあれ,高校生物程度の素養があれば,きわめてエキサイティングに感じる本であることは間違いない。細胞生物学の教科書としても,ふつう個々のトピックとしてしか扱われない現象が歴史的つながりをもって論じられるので,「ああ,そうだったのか!」という驚きを感じる人は多いと思う。さらに,系統分類学の成果のレビューとしてもわかりやすくて面白いという点も買える。その意味でお薦めである。
以下,やや細かいコメント。
まず,ミトコンドリアの歴史と分裂リングの発見それ自体とは別の意味で感銘を受けた点を挙げれば,研究一般に通じる名言に満ちていることがある。p.92「たった一本のガラス管,それに目印をつけ,MPF現象を発見し,その物質を追い求めた増井博士の研究方向こそが生物科学の王道といえまいか」とか,p.150「フレミングの思考の柔軟性は,多くの発見に通じるものがある。『ある研究目的で研究を進めながらも,目的ではないが些細な変化を見逃さないこと』,それが予想もしない新しい世界の扉を開くことがあるからだ。ひょっとするとこれが発見の定石かもと思う」とか,p.157「ちょうど一週間前の『サイエンス』誌の表紙を飾った,細菌がセルロースをつくっている論文を読んでいると,若い女性が近づいてきて自分の論文だからといって説明してくれた。修士課程の学生だという。このとき,研究の画期的な発見の源は大型設備にではなく,“些細な閃き”にあることを再確認した」とか,p.266「大発見には,やはり,ここに何かあるという確信と,それを探し出す『しつこさ』が必要であるらしい」とか,p.273で数々の大発見をしたサンガー教授が65歳で定年宣言をして所長職を辞退しガーデニングをしていることに触れて「余生をどのように過ごすかが人間として大事なことのようである」とか,p.300「われわれも『真実は美しく単純である』というアインシュタインの言葉を肝に銘じて,美しく単純な真理をみつけるまで観察・実験を続けようと思っている」等々,枚挙に暇がない。
現場感覚というか,実験材料を集める話も面白い。例えば,p.136「浜名湖などの汽水域の水を一滴すくいシャーレに垂らしてみる。すると,底を多種類のアメーバが競争するように這っているのが見られる。(中略)アメーバプルテウスはシャーレに入れた米粒で飼える。増えたアメーバを蛍光染色してみると,たくさんのミトコンドリアが観察される」とか,p.155「岡山大学は半田山の麓に東西にひろがっていた。昼食後,半田山に真性粘菌を採集に行くのが日課だった。高校の頃から本格的に真性粘菌の採集を始めていた学生の喜種博君に真性粘菌の居場所を教えてもらいながら,フリゴ・セプチカ,ステモニウス・フスカなどどこにでも生息している種類から,もっと珍しいものまで次々に採集した。少し湿った枯葉や朽ち木まわりに粘菌を見つけたときの感動は,子供の頃の昆虫採集を思い出させ,夢中になった」とか,p.170「この雨ざらしとなった貯水槽は自然のままに残された藻類の宝庫だった。水槽内には,二百種を越える緑藻類や珪藻などの藻類が繁茂していた。水槽の水をスポイトで一滴スライドガラスに取り,蛍光色素を加えてから,超高分解能の蛍光顕微鏡のステージに載せ,さあ,これから覗こうとするときの何ともいえない期待感は,子供の頃と変わらなかった」といった記載を読むと,自分でもやってみたくてたまらなくなる。
トピック毎に現在までの研究の流れをまとめて,まだ謎として残されているのは何かということを明記してくれているのもありがたい。欲を言えば,分裂周期の話も取り上げてほしかったが,まだわかっていないということなのだろう。現在までというのは本当にそうで,1999年の論文までたくさん引用されているところに研究者としての矜持を感じた。マラリア原虫に紅藻が二次共生した痕跡が見られるという話は,恥ずかしながら知らなかった。参考書と引用文献の一覧がちゃんとついているので,原典に当たることができて嬉しい。2000年7月以降に発表された,600万年前のMillenium Ancestorの話(日記を参照)とか,オーストラリアの6万年前の化石人骨から取り出されたミトコンドリアDNAと核ゲノムの関係だとか(日記を参照)とか,p.272のセレラ・ジェノミクス社が解読したゲノムデータは2001年に入ってから東京大学の廣川研が利用契約を結んだとかいう話はもちろん入っていないのだが,それ以前の,このトピックなら外せないだろうという論文はだいたい載っているようだ。なお,1999年12月24日のScienceに載っていた,組換え経由で父系のミトコンドリアDNAも伝わるという話はこの本にも取り上げられていなかったから,瀬名さんの回答にあったように,本当に評価が定まっていない問題論文なのだろう。もっとも,pp.265-278は他人の研究を引用しただけという気もするので,その論文を含めてまで整合性をもって分子系統学を説明することができなかっただけかもしれないが。
誤植は,この長さにしては少ない方だと思う。気が付いたのは,前に引用したp.170の「二百種を越える」が「二百種を超える」が正しいと思うのと,p.214の図42のキャプションの括弧内の記号が全部同じになっている点と,p.227のS・ラヴランはA・ラヴランが正しい(Alphonse Laveran,詳しくはマラリア資料第1章を参照)のと,p.268のペンシルベニア大学は,マーク・ストーンキングのことだからペンシルベニア州立大学の間違いだという4点だけである。NHKブックスの編集者は努力していると思う。
「独断と偏見で選ぶベストサイエンスブック」には,一般向けという点を重視すると入れがたいような気もするが,ちょっとわかった上で精読すれば必ずこの面白さはわかるし,このレベルの本がこんなに安価に買えるという状態がもっとたくさんの分野で起こって欲しいと思うので,これも入れることにしたい。
最後に一つ。謝辞の中で,「本書を書くきっかけは,わずかながらお手伝いをした『生命 40億年はるかな旅』がNHKで放映され,それに伴って,同名の本5巻が出版されたことだった。恐らくその第一巻『海からの創世』の内容をヒントに,瀬名秀明氏が『パラサイト・イヴ』を書きベストセラーとなり,ミトコンドリアが広く世間で注目を集めることになったのであろう」とあるが,瀬名さんは本当にそれをヒントにしたのだろうか? もともと研究者だったのだから,何もそれをヒントにしなくても生まれそうな発想だと思うのだが。如何?>瀬名さん
【2001年1月23日記】