Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2011. Last Update on 2011年7月11日 (月) at 17:30:01.
まずいことに,ふと気が付くとベッドの上であった。ちょっと一休みと思って眠ってしまったようだ。時計を見ると4:00だったので,まだ時間はある。しかし,自分のプレゼンはオープニングを含めて6題あるのだが,まだ4題しか完成していないので,ゆっくりしてはいられない。気を取り直してRobert Timmsのコーヒーバッグで美味なコーヒーを淹れて飲み,極限まで集中して残り2題分の資料を完成させた。いや,完成というには完成度が低いのだが,ともかくも話が完結するところまでもっていった。そこで時計を見ると,7:00近くなっていた。pdf reDirectというソフトを使って,すべてのファイルを配布資料形式でpdf出力して連結してみたら37ページあった。これを全部主要参加者分印刷するなど不可能だ。第一,紙が足りない。しかたないので,まず1部印刷し,2部目を印刷させながらホテルのフロントへ行ってコピーを頼んで部屋へ戻った。ほどなく2部目の印刷が終わったので,プログラム部分だけでもオリジナルを主要参加者へ配ろうと思い,最初の3ページを10部印刷させることにした。
ここで電話がかかってきた。受話器を取ってみるとフロントからで,何とコピー機が壊れたというのだ。天下のメンダナホテルでこれか! と脱力しつつも,次善の策を探すしかない。とりあえずフロントに行って原稿を受け取るついでに尋ねてみたら,町のコピー屋の中には8:00からやっているところもあるということであった。原稿をもって走って探してみると,多くのコピー屋は8:30オープンだったのだが,1軒だけ8:00から営業している店があった。値段は1枚50セントと安かったが(メンダナホテルの1/5だし,日本円で考えても約5円なわけだ),何十枚もある原稿を数部コピー中で,他に4件の預かり原稿があるので,すぐにはコピーできないよ,という返事であった。
そうなると,もうNHTRIでコピーするしかない。部屋に戻りながらFさんに電話で相談してみると,幸いオフィスにいて,OK,下の階に強力なコピー機があるから,そこでできる,と言ってくれた。運転手を差し向けるから渡してほしいということだったので,速攻で印刷が終わっていた10部のプログラムもY5と一緒にザックに詰め,部屋を出てロビーへ向かった。3分ほど待つと運転手が来てくれたので,ホテルの封筒に入れた原稿を託し,Fさんに原稿を渡したら再度戻ってきて,我々を会場まで運んでくれるように頼んだ。
そんなこんなで紆余曲折あったが,戻ってきた車に乗ってワークショップ会場に着いたのは,9:00直前だった。既に受け付けは始まっているはずで,参加者も三々五々集まりだしていた。しかし,昨夜一所懸命に作られていたIDカードはどこにも見当たらないし,そもそも受付をする係の人が来ていないのだった。もっとも,NHTRIの所長であるA氏や公衆衛生局長であるT博士も既にいて,コンピュータのセッティングをしていたので,実質的にワークショップを始めるには支障はなかった。と,A氏が,スペアのプロジェクタは? というのだ。実はまだ大前先生の部屋にあったので,ホテルにあって,明日は持ってくる予定だと答えたところ,プロジェクタのケーブルが会場の後方なのでコンピュータを手元で操作できないと面倒だろうから,この部屋のではなく,そちらのプロジェクタを使ってはどうかという意見であった。確かに尤もなので,大前先生と運転手に頼んで,プロジェクタを持ってきてもらうことにした。
そうこうしているうちにコピーの束を抱えたFさんも登場し,5分ほどかけて会場にそれを配ったところで,A氏が開会宣言をしてくれた。各方面への御礼とか,会場での注意とかを言ってくれている。実にちゃんとしている。一般向けのところはちゃんとピジンで言ってくれるのも素晴らしい。会場を見渡すと,村人がちゃんと来てくれたのが嬉しかった。本当ならCS神父が来られれば最高だったが,前述の通り,新しいBishopを迎えるという事情が事情なので,そこは諦めるしかない。
次いで,ぼくがこのワークショップ開催の背景とか,主旨とか,全体のプログラムなどをざっと説明し,全員に前に集まってもらって記念写真を撮った。ここまでは,ほぼ予定通りだった。
問題は,プログラム上はここで予定されていたコーヒーブレイクで口に入れられるものが,まだ届いていないことであった。実はケータリングといっても業者は車をもっていなくて,我々の借り上げている車で取りに行かねばならなかったそうだが,その車が途中でパンクしてしまったのだそうだ。何事も一筋縄ではいかないのがソロモン諸島である。急遽次の演題を先に発表してもらうことになった。公衆衛生局長T博士による研究の進め方とその公衆衛生行政へのフィードバックの仕方の話であり,WHOのSTEPSなども紹介されていて,一般の参加者(とくに村人)にはあまりピンとこなかったかもしれないが,研究者や行政官には良く整理されていて,ソロモン諸島側が何を必要としているのかがよくわかる話だった。しかし,この話が終わっても,まだコーヒーブレイクの食べ物は届かないのだった。しかも,次はVector-Borne Disease ControlのDIRECTORであるAB氏の発表の予定だったのだが,本来の予定時刻より20分ほど早くて,まだ会場に着いていないのだった。しかしたぶんGlobal Fundの関係者と思われる白人女性が,彼はいまマラリア会議に出ているところで,必ずここに来るはずだから,と言いに来た。そこで,コーヒーブレイクではないけれども5分間の休憩にしましょう,とアナウンスしようとしたところで,食べ物と飲み物が届き,コーヒーブレイクにすることができた。写真に示すように山ほどのサンドイッチと,クッキーなどと,ミロと紅茶とインスタントコーヒーが供され,思ったよりも豪華だった。
コーヒーブレイク後もまだAB氏が到着しなかったので,先に大前先生がマラリア対策の歴史とそこにおける日本の国際協力の話をされた。とくに,東南アジアとの違いの話がクリアで,会場からの質疑も活発に行われて良かった。AB氏も無事に途中で到着し,大前先生の次に,ソロモン諸島における昆虫媒介感染症対策の話として,10年前に決まった方針として普通のワードファイルを投影しながら,デング,フィラリア,マラリアへの対策の話をした。これも意外に質疑が盛り上がり,12時を若干過ぎてからランチタイムとなった。
ランチは食べきれないほど大量にあった。パックに詰めたり皿に山盛りに載せてラップをかけたりして持ち帰る人が大勢いて面白かったけれども,次回はもっと少なくていいと思った。60人分で50人出席でこれならば,40人分で十分ではないだろうか。味はそこそこであった。
午後のセッションは,婦人青少年局長による若者のための政策説明(ほとんど原稿を読み上げただけだったので,多少退屈だったけれども,わざわざ来てくれたのはありがたい。ただ,2015年までにすべての出生を登録するという話について具体的なプランを尋ねたところ,まだ理念レベルであって具体性が十分でないようだったのは残念だった)に続き,小児保健局長であるDO氏の海外との比較や近年の変化も含めた,ソロモン諸島の子供の健康状態についてのダイナミックで面白い発表がなされた。この発表は実に面白くて,一般向けに重要なところはピジンで語られたので,質疑応答も盛り上がったし,村人代表も興味深そうにしていたのが印象的だった。
次は漸く我々のタシンボコ研究の成果発表に入った。まずは山内さんが子供の成長の話をした。身長や体重でみるとUS標準の下3パーセンタイルより小さいところで推移するけれども,BMIでみると,ほぼUS標準と変わらないということと,女子で思春期に肥満気味の子が増えるというのがポイントだったと思うが,フロアからの最初の質問は身長がUS標準より小さいのは遺伝的差異だから当然で,どうしてUS標準を使うのかというものだった。答えは,もちろんソロモン諸島の健康だとわかっている子供の標準成長曲線があればそれを使うべきで,今のところそれがないので,とりあえずUS標準と比べてみただけということであった。つまり,US標準と比べると変に見えてしまうので,ソロモン諸島の標準を早急に作るべき,という行政への提言と見てもらえればいいというわけだ。
次いで,大前先生によるマラリア感染状況の推移と,低流行時に有効な検査法を探す話であった。激しく流行していた頃は子供の脾腫率も高かったが,最近のように一般住民の健診での原虫陽性割合が10%を切ってきて,かつ主要な原虫が熱帯熱から三日熱に交替してくると,脾種はほとんど見られず,迅速診断キットでも特異度は高いけれども感度が低くて問題があり,ギムザ染色したスライドでも熟練した検査者がかなり注意深く見ないとダメで,それも200視野で1個感染赤血球があるかどうかというレベルなので大変だという話であった。(我々のチームには,マラリア検査のためにギムザ染色したスライドを見ることにかけては世界でも指折りのテクニックと経験をもつ亀井先生がいらっしゃるので,正しい結果が得られているけれども,)クリニックレベルではスライド検査の信頼性も落ちてしまうので,もっと感度が高い迅速診断キットが必要になるという主旨であった。これも質疑が盛り上がった。
次にぼくが発表したのは,1995年に明らかにしたマラリア感染と蚊の吸血行動が活発な時間帯の服装との関連の話と,最近の継続調査からわかってきた,同じ村の中でも感染リスクには違いがあって,毎回のように感染者がいる家と,ほとんど感染者がいない家があるという話であった。家の作り自体はほとんど差が無いので,おそらく数十メートル単位の微視的な地理的差異であっても,その違いがもたらす影響は無視できないということだと考えられる。長崎の熱研の砂原さんがベトナムでやったモデルのように,村の一番外側にある家が一番リスクが高いというモデルで説明がつくことかもしれないが,今後一層の研究が必要だし,できるテーマだと思う。フロアからの質疑もそれなりにあった。
再びコーヒーブレイクの後,ぼくが調査地の歴史的背景と人口学的な情報として,東タシンボコ地区全体は大規模なオイルパームプランテーションの影響で人口流入が大きかったけれども,調査地であるバンバラは,1980年代から90年代にかけて出産間隔が短くなることで出生率が上昇し,クリニックや病院へのアクセス改善によって早期治療が進んだことによって死亡率が低下したための人口増加が大きかったことと,エスニックテンションで一時的に途絶えたものの,テンション終結後は人口移動が非常に活発になってきていることを喋った。ここはCS神父と共同発表にしてCS神父に歴史的なところを喋ってもらいたかったところだが,代わりにフロアにいる村人から補足してもらった。続けて山内さんに成人の体格と血圧について喋ってもらおうとしたところで17:00を過ぎたせいか会場が停電し,いったんは復活したものの非常に電源が不安定な状況になったので,この日のセッションを閉じることにした。その分,翌日の開始時刻を30分早めた。
片付けをした後は,一旦ホテルに戻って荷物を置いてから,三日連続となる上海レストランでの晩飯となった。今夜は一応DINNER PARTYなので個室を予約してある。我々日本人が着いたのは開始予定時刻の18:30を5分ほど過ぎていたが,まだ誰も来ていなかった。とりあえず20人分の料理をオーダーするため,メニューを検討してみる。まずスープはHot sour soupとSliced tomato with eggs soupの大を1つずつ頼むことにした。他のメニューもHotとかSpicyなものメインなテーブルと,そうでない普通の味メインのテーブルに分けて頼むようにしたので,多少面倒な注文になってしまったが,ちゃんと対応してくれた上海はさすがであった。後で何回目かの追加注文をしたときに多少の混乱はあったが,総じて優秀であった。
Fさんが村からのワークショップへの参加者全部に声をかけてしまったので,結局,DINNER PARTYの出席者は22人となった。予想外に多いけれども,会場をメンダナホテルとかSea Kingレストランではなくて,この上海にしたので,たぶん予算的にもそれほどひどいことにはならないだろう。それなら楽しんでしまえ,と開き直って,2時間ほどひたすら飲み食いした。チャーハンの塩気がほとんど無かったのが残念だったが,他はそれなりに美味であった。PARTYの〆の挨拶を公衆衛生局長T博士にやってもらい,まだ料理があるのでソロモン側の参加者はそれを食べ尽くしてもらうことにして,日本人4人はホテルに戻ることにした。ここの会計は当然,ぼくがポケットマネーで払うのだが,22人であれだけ飲み食いして2,398 SBDであった。日本の相場から考えたらかなり安いが,こちらの人にとってはそれなりに豪華なディナーになったと思われ,皆笑顔だったのは良かった。
ホテルに戻り,集合写真をプリンタで印刷しながら(CANONのプロフォトペーパーを持ってきていて,健診に参加した村人にも進呈したけれども印画紙に焼くのと大差ないくらいきれいに写真を印刷できるため,2日目に集合写真を配ってしまう方が参加者にとっても嬉しいだろうし,こちらも郵送などの手間が要らない)大前先生と山内さんとの3人で明日のSummary作りをしたら,23:00過ぎまでかかって疲れ果てた。学生からメールが来ていたので返事を打たねばと思いつつ,そのままベッドに倒れ込んで泥のように眠ってしまった。
▼前【第7日目】(ワークショップ準備で眠れない日(2011年2月14日) ) ▲次【第9日目】(ワークショップ2日目終了後はブリスベンへ直行(2011年2月16日) ) ●2011年2月ソロモン諸島往還記インデックスへ
Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.