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Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2017. Last Update on 2017年3月17日 (金) at 03:08:13.
成田空港で土産用にウィスキー2本を買った。3700円であった。まずはケアンズに飛ぶ。Rainbow Innへの宿泊がA$80で,日本への国際電話がA$17.50かかった。食事は昨年同様にGroceryでパンや果物を買った。A$16.55だった。ケアンズ空港が広くなり,店も増えていて驚いた。「世界一競争的な価格」の店がなくなったのは残念だが。Brisbaneと違ってアウトドアの店がないのも悲しいところ。
Rainbow Innをチェックアウトし,空港へ。ソーイングキット+ビーチボールの地球儀を買った。A$22.90。これらと,スカイライナーの料金を含め,約2万円を自費で立て替えている計算になる。
昼前に,無事ジャクソン空港に着く。税関吏が暇だったのか,通関に時間がかかる。空港のPNG BCでさっそく米ドルをキナに換金。US $2,500がK3,402になった。DoveまでPMVで行こうかとも思ったが,荷物が結構あるのでタクシーに乗った。注意喚起の勧告が外務省から出ていることでもあるし,様子をみることにしたわけである。しかしDoveに着いてみるとK15というので,失敗したような気がした。K50しかなかったのでJulianに頼んでくずしてもらったのだが,K10では駄目で,かつK20ではお釣がないなどとたわけたことをいう。次回はただで乗せてやるからK20寄越せというので,まあ来るわけがないと思いつつ「日曜の10:00から10:30の間に来いよ」といって金を渡す。
Doveの宿泊は例によってK20/泊である。これは破格の安さである。お湯のシャワーが出て調理ができてこの値段なのだから。2泊分K40をJulianに払って,ウィスキーを1本渡す。
Borokoで買い物をする。まずはメフロキンが大事なので,Johnston's Pharmacyでメフロキンはないかと聞いてみた。なければTownに行かねばならないところだったが,あったので50錠買った(ちなみにtreatment doseは体重70 kgの成人男性では2 tablets every 6 hrs for 3 dosesだそうだ)。K65.20であった。日本で密売されている値段に比べるとただのようなものだ。ちなみにHalfanも買えるそうだが,Artemisinine系は存在すら知らないようだった。次いでBrian Bellでシーツとバスタオルを約K40で買い(2階には殺虫剤処理した蚊帳も売られていた),Steamshipsで食料などK41.64を買い込んだ。
何も買わず(それどころか外出せず),寝るのと読書と今後の計画と料理に明け暮れた。
朝食を作って食べ,9:00-9:30外を散歩。PMV乗り場は昔と変わっていない。10:00から10:15まで件のリアウィンドウが割れたタクシーの運転手を待つが来ないのでPMV乗り場に行った(その後15分の間に来る可能性がないわけではないが,10:30からPMV乗り場に行くのでは飛行機に乗り遅れてしまうから)。途中若い男が案内するといって乗り場まで一緒に来てくれたが,変に荷物を持とうとかしないのが嬉しい。
チェックインは難なく済む。帰りのGatewayの予約をしようとしたが移転したようなので予約は河辺先生に頼むかFAXで後ですることにした(後で気づいたところによれば,別に移転したわけではなくて,空港とPMV乗り場の間が遠くなったので場所が分からなかっただけだった)。
12:00離陸のはずだが,12:00にboarding開始。12:15現在まだ扉は閉まらず。結局,離陸は12:30近くなった。まあDaruに定刻に着かないと困るなんて客はいないのだろう。機内でスチュワード(当時,客室乗務員は男性ばかりだった)が「珈琲,紅茶?」と聞いたのには驚いた。なんでぼくが日本人だってわかったのだろうか?
Daruに着くと,河辺先生が入れ違いに同じ飛行機でPOMへ行こうとするところだった。メモをくれた。Lさんの家に行ったら驚いたことにLさんの父である長老I氏がいた。何でも体調を壊してしばらく前からDaruの病院にかかっていたという。もう直ったので一緒にKapalへ行こうという話。そこへ稲岡さんが通りかかった。今日一緒にDorogoriへ行こうという。で,I氏やLさんに事情を話してDorogoriへ荷物を運んだ。買い物などは翌日大塚さんを出迎えにDaruに来るのでその時にしようという話。
夕方,Dorogori村のR氏らと一緒にディンギーでDorogoriへ行く。なんでも大渇水のせいで蚊はぜんぜんいないという話だったが,本当に蚊がいないのには驚いた。相変わらずR氏の家は良い家だ。
朝食は4 kgのバラマンディー。ダルーに持っていくと会社がK10くらいで買ってくれるそうだが,稲岡さんがK5で買い取って煮付けにして食べた。その後,大塚さんを出迎えにDaruへ。中華系スーパーで尿カップ,トイレットペーパー,メジャー,たばこを買う。河辺先生がメジャーと三角定規で身長を計るようにと書き残していたのだが,三角定規は見つからなかった。Dorogoriでは稲岡さんが河辺先生から預かったAnthropometerがあるからいいが,他の村では無理だなぁ。去年のデータがあるからいいか。
大塚さんは帽子が花だらけだった。教室に電話をかけるというので郵便局へ行く。電話はTSTでphone cardを買って公衆電話でかけるという話。郵便局の中の電話は公用専用になったらしい。なかなかかからず,3529か3486が一番人がいる確率が高いですよと伝えたら,3529でかかったようだ。
その後,再びディンギーでDorogoriへ。
夕方尿カップを配り,一部の人の身長,体重をはかった。
朝,尿をもってきてもらった。昨夜測らなかった人の身長,体重を稲岡さんが計測。
今夜はChurch Anniversaryがあるというので,昼から皆浮かれている。まずはPEAWAの人たちがChurchに入る。意外に整然と行進していた。昼下がり,遠くで歓声があがった。何かと思ったらヒクイドリ(Cassowary)が獲れたという知らせだった。昨夜から猟に出ていた若者たちの獲物である。ブタも獲れたらしい。早速写真を撮る。夕方,パーティが始まった。稲岡さんとぼくは「子ども及びビジター」というカテゴリに分けられてパーティ用の食堂に案内され,料理と甘いミロをいただいた。料理はバナナとキャッサバと豚肉とライスで,なかなかのものだった。
18:30,日が暮れていよいよダンス本番となり,順番にダンスが披露されていった。稲岡さんもぼくも,まさかあんな事件が起こるとは思いもせず,ダンス見物を楽しんでいたのだった。20:30頃だっただろうか,突然の悲鳴でダンスが止まった。反射的に悲鳴の方をみた。はじめは人々がばらばらと動いているのしかわからなかったが,どうも誰かから逃げ惑っているらしい。我々の隣にいた村人に何が起こったのか聞いてみると,「わからんが危険そうだから家で待て」という。そのうち「ギリ(大きなブッシュナイフ)だ」という声とともに完全にダンス会場はパニック状態に陥った。ともかく稲岡さんとともに家の方に逃げることにした。途中,誰かが「こっちだ」というのでついていくと,少年が倒れていた。頭の後ろがぱっくりと割れて血が流れている。ぴくりともしない彼を村人が心配そうに囲んでいる。しかしそこにとどまっていることはできなかった。加害者が刃物を振り回しながら戻ってきたという声が聞こえたからだ。我々は被害者をそこに残して家に逃げ帰った。部屋に入ってしばらく待っていたら,R氏の妻のMさんが様子を教えてくれた。なんでも,マリファナとビールでラリった少年二人が喧嘩になって,一方がギリを振り上げ,もう一方が逃げようとして後ろを向いたところを切ったという話だった。血を見て逆上した加害者少年が村中を暴れまわっているらしい。例によってビールでなくてココナツジュースで作った密造酒だとかいろいろな噂が飛んだ。被害者の少年をダルーの病院に運ばねばならないのだが,興奮している酔っ払いが恐いのでエンジンは貸したくないとR氏が言う。結局R氏のエンジンを使ってL氏の運転で病院に運ばれ,命だけはとりとめたようだ。
恐ろしい一夜が明け,平穏な一日が始まった。日本では終戦記念日である。朝からダルーに出て,ガソリン(Zoom)を80 Lと4人分(雇ったN氏,G氏,L氏とぼく自身)の食料とモトルー(たばこ)27本を買う。そのままL氏の運転するディンギーでウメ村へと出発した。L氏は昨夜の活躍のため,眠そうである。彼ら3人は稲岡さんのアレンジで雇った。N氏とG氏は20 K,L氏は100 K(ディンギーレンタル料が80 K)という契約である。
まあまあ無事にウメに着き,どこに泊まるかを検討する。No.3は通り過ぎて(どうせここには1日使おうと思っていたので),まずNo.1で停泊する。出てきた村人に聞くと,ここにはほとんど誰もいないとのことなので,そのままNo.2へ行き,No.1は朝往復することにした。No.2では川辺に青いビニールシートを張って人々がキャンプしていたので,そこに我々も泊まることになった。都合のいいことに,たまたまそのキャンプにVillage Recorder(センサス担当者)がいたので,センサスブックをチェックすることができ,一応現在ウメ村に住んでいることになっている人のリストができた。
翌16日朝,No.1を往復(したのか?)。夕方No.3へ。DorogoriからついてきてくれたN氏やG氏が宿泊場所の交渉をしている間,ココヤシの根元に蹲るネコを眺めながら,急にスケッチをしたくなった。
椰子の木肌は白く
葉は黒く薄暗い青空に浮ぶ
13夜の月の下,猫1匹まどろむ
嗚呼,南海の孤独。
16 Aug, '97 18:50
at Ume Village
Minato Nakazawa
なんて,下手な詩のようなものと一緒に,スケッチを書きつけてみて,却って孤独感がつのり,うんざりする。夜になってから,Ume村に分配する分の200 Kを,Ph氏とPa氏の見ている前でS氏に渡し,レシートに3人分のサインを貰った。これで責任は果たしたと思ってややほっとしたのだが,これが甘かったことが翌日わかる。
起きてみると,Pa氏が金を盗んだという噂で村が大騒ぎ。またかよ,と思う。Ph氏もS氏も信用されていないという。S氏に至っては,Community Leaderのくせに,TUBA(地酒)を飲んで,昨夜スパークしていたというから真っ黒だ。
つまりは,村に貰った金を着服して,3人で飲んじまったらしいのだ。S氏は信用できそうだと思ったんだがなあ。何より,サインまでしてるんだから,すぐ足がつくことはわかっているのに,なぜ着服なんかするかが謎である。
「次からは3つのUme村のCommunity Leader全部を集めて,昼間金を渡すように」,と村人が口々にいう。ちなみに,No.1のリーダーはK氏とSu氏,No.2のリーダーはLu氏とA氏,No.3のリーダーはW氏とS氏とのこと。
ともかく調査を終えて,予定通りにDaruに戻り,Lさんの家に落ち着いて,Daruに住んでいるKapal村出身ビジネスマンの奥さんからいろいろ聞く。先日の刃傷沙汰の加害者(Dorogori村で酔っぱらってギリを振り回した)少年は,DaruでLさんの隣家に住んでいた(母親が連れてきている)。まあ,さすがにあの後じゃ,村にはいられんよな。
大学に電話したものの,変化なし。家に電話したところ,8月9日に甥が産まれたとのこと。
ちなみに,どちらの電話もTSTで10 Kで買ったテレカを1枚ずつ使用。公衆電話での国際ダイヤルは,05-81-市外局番-市内局番とする。
Lさんの家で,日曜夜は鶏肉,月曜夜はラム,今日の昼はソーセージを食った。今夜はぼくは買ってないが,何が出るだろうか? と思っていたら,鶏肉とソーセージと野菜の煮込みだった。そういえば,昨夜はSolomon Islandsの関係で,International Journal of Epidemiologyの論文を読了した。今朝,ポール・ウェブスターの「星の王子さまを探して」を読了。「星の王子さま」は買いたいなあ。アントワーヌとコンスエロの愛の物語だったのだな,すべて。それを寓話に託したというわけだ。シャイなやつ。
買いたい本といえば,「奥の細道」もである。岩波かどこかで豪華愛蔵版が出たとかいうやつのことだ。Little CreaturesのCDとか。The BOOMのCDとか。ああ物欲の虜。
オーストラリアのケアンズ空港では,ワイン3本を機内持ち込みできるタイプのコロコロバッグ(車輪と伸縮できる引き手のついた小型スーツケース)を買うのだ。
今朝の新聞によると,昨日UPNGにWEB siteができたとのこと。URLは,http://joun.upng.ac.pg/だそうだ。
Sun West Aviationの小型機がやっと来たので,内陸に向かう。Daru→Kiburi→Malam→Upiara→Wipimと大回り。2時間弱のフライトであった。
Wipimで唯一の実業家であるN氏のトラックはMalamに行ったというので,それが帰ってくるのを待つことにした。N氏の奥さんだったYさんの墓参りをする。彼女の病気は,DaruのLさんによると肝硬変と言っていたから(重症化した後でLさんがナースとして働いているDaru病院に入院していたらしい)死因はそれなのだろうが,まあたいがい美食していたし,あの肥満ではそれは肝硬変にもなるだろうな,と思う。
夕方18:00頃Malamに行っていた2台が帰ってきたので,Wonieへ行くことにして出発。ところが,暗くなってWodelに着くと,Wonieの人がほぼ全員来ていて,Wipim School Workをしているという。Wodelのキャンプでは尿検査はできないだろうし,あと2日の作業期間中は忙しいと,Wonie村で大塚さんのアシスタントを長年務めてきたSo氏がいうので,来週金曜日にWonieへ来ることにして,先にRualへ行くことに方針変更。しかし,すぐに「じゃあまた」とならないところがギデラ風である。とりあえずということで,サゴと魚と葉っぱのスープをごちそうになり,米とサバ缶と砂糖をあげる。小一時間ほどそこで過ごしてから,Wipimへ帰ってきたのである。今夜はWipim泊,明日の朝Rualへ行く予定。
Rual着。むなしい誕生日。交通費は,Wipim-Wodelの35 KとWipim-Rualの110 Kの合計額のみを払う。Wodelまでは往復だったから本当はその分も払うべきだが,35 Kはディスカウントしてもらった。Rualの人も大部分がキャンプしているというので,金曜の朝に在村の人だけやってから,場合によっては泊まる覚悟で11:00からキャンプを回ることにした。
ところが,ここには大きな誤算があった。キャンプというから,Wodelみたいな大きなところを想像していたのだが,ここではバラバラなのである。これでは尿検査はやりようがない。しかたなく,体重だけ測って帰ってきた。女たちから,多少生っぽい豚肉をもらって食べる。やばいかも。15:30,くたくたに疲れて戻る。ワスワス(水浴びのこと。英語のWashを2回重ねて訛った感じ)は水が冷たくて気持ちよかった。この家(E氏,J氏と少年たちが住んでいる)には20K残していこうと思う。
土曜日はルアルから歩いてカパールに着いただけで疲れておしまい。荷物を運んでくれた少年たちに,5K×3人のキャリアフィーを払った。2人分は領収証にサインして貰った。明日から調査するために,一応根回しだけはいろいろしておく。
まずVillage RecorderのM氏からセンサスブックを借り,昼間はずっとそれを転記して聞き取りのベースとなる住民リストを作った。とはいえ,センサスブックへの記録は相当いい加減なので,聞き取りで確認するのが必須だ。夕方から村のなかを1軒ずつ廻り,ぼくと同年代の既婚男性であるS氏とJ氏に手伝って貰って聞き取りしながら身体計測。まあ当然というか,暇そうな少年たちが大勢一緒についてきたが,調査を邪魔しなければ問題ない。変な外国人がやってきて見慣れない道具を使って何かやっていれば見たくなるのは自然と思う。もちろん調査対象者に嫌がられるとまずいのだが,そういう場合はちゃんと本人かS氏かJ氏が追い払ってくれる。翌日の尿検査のためにカップに番号を書いて渡しておくのだが,時々紛失する人がいるのは,まあ仕方ないんだろうな。
5:10から尿検査開始。しかし途中で塩分計が壊れたのは痛い。次からはセンサーの予備も持ってこなくては。試験紙は使えるからラフなデータは取れるが,それだけだと精度が落ちるのは否めない。センサーといえば帰国後に学生実習で使うツインpHのセンサーも発注しておかないと間に合わないかもしれないので,Daruに出たら日本に電話で伝えねば。
10:00過ぎに58人が尿カップを持ってきてくれて,全員分無事に試験紙では検査できた。
その後は朝食と昼食兼用の食事をしてからセンサスブックの転記の続きと整合性チェックをしていたが,住民リストのベースとするくらいなら良いが,データとしては全然使えないことが判明した。河辺先生から受け取ったリストも行方不明者が数名いたし,やはり自力で聞き取りを完了せねばならない。
この作業を16:20までしていたが,肩が凝ってきたし腹は減ってきたし,しんどい。カパールに来てから体重が2 kgくらい落ちた気がする。
火曜と水曜はひたすら村を回ってセンサス聞き取り。ちゃんとした食事のタイミングで住ませて貰っている家に帰れないために,ちゃんと食えないまま(芋を焼いたものだけは何とか貰っていたが)水曜夜を迎えた。さすがに栄養的に自分がヤバいと思われたので,持参したマルチビタミン剤を飲んだりしたが,何とかセンサス完了したので良かった。
次はWonieへ歩いて移動。しかしWodelから村人が戻っているかどうかは着いてみないとわからない。できるだけ土曜までで終わらせたいが,もし人が少なかったら日曜朝まで粘り,その後で歩いてWipimへ移動する計画に変更しよう。しかしできれば日曜はWipimでのんびり過ごしたい。
着いてみたら村人はだいたい戻っていたが,30日土曜にはハプニングがあって健診はできなかった。というのは,例年なら9月に行われる魚取りなのだが,今年は大旱魃のせいで秘密の池の水が早く干上がってしまい,この日に行くことになったのだ。朝から村人は老いも若きも舞い上がっている。10時頃村を出て,歩くこと40分くらいで,秘密の池に到着する。池の近くに植えられているココヤシから実を採ってココナツジュースを飲み,一休みする。11時頃から魚取りが始まった。毒のある植物の根を焼いて叩いた物を水にいれて良く揉み,中毒した魚が水面に浮かんできたところをヤスで突くわけであるが,これがなかなか難しく,ぼくなどはへっぴり腰で恐る恐る突くので,魚に当たっても刺さらないのである。それを見て笑いながらシュッと突いてくれる村人の手捌きの鮮やかなこと。まあ,見よう見まねで昼までにぼくが突けたのは20匹くらいだっただろうか。早速,その魚を焼いて,芋やサゴ(サゴヤシというヤシの木から抽出する澱粉を固めて焼いたもの)と共に食べる。この日は良く晴れていて,気持ちの良い,ハイキングのような気分だった。食後も魚取りは続いたが,ぼくは疲れてしまって見物に回ることにした。
魚取りも一段落し,ぼつぼつと大きな魚が取れる他には獲物がなくなってきた午後3時頃,それは起こった。ウェリという男が弓に矢をつがえたかと思うと鋭く引き絞り,まばたきするくらいの間に岸辺近くの水面に打ち込んだのだ。直後,大きな水飛沫とともにブクブクとあぶくが水中へ消える。同時に,「クロコダイル!」と喚声が上がり,一瞬のためらいも見せず,鰐を追ってウェリは水中に飛び込んだ。ウェリと鰐の格闘。追いつきはするものの,鰐の力が強くてなかなか捕まえられないでいるウェリをみて,ダリマという大男が加勢に飛び込んだ。こういうときの彼らの瞬発力は物凄いものがある。ほんの30秒くらいの格闘だったと思うが,ダリマが尾を,ウェリが口を掴んで陸に引き上げ,斧を振り下ろして(ただし刃でない方で)頭を何度も叩いて殺してしまうまで,ぼくにはとてつもなく長い時間に感じた。殺した後気がついてみると,ウォーターリリーの花が鰐の周りに散っている。偶然なのだろうが風流である。子ども達が水をかけて鰐を洗う。触ってみるとまさしく鰐皮である。2メートル近いのだが,これで皮は100キナ(日本円にして当時のレートで9000円くらい)ちょっとでしか売れないそうだ。天然もので,頭以外には傷もないのに。村に運ぶのも傷をつけてはいけないので一騒動だったが(右写真),解体も大騒ぎだった。皮をはぐところまでは公開だったが,肉のばらし方は既婚男性しか見てはいけないのである。ぼくは見せてもらったけれど,写真は撮らせてもらえなかった。肉の味は,というと,鶏肉のようなものだが,それよりジューシーでうまいと思った。彼らにとって,これは大変なご馳走なのである。肝臓を焼いた物も食べさせてもらったが,鶏のレバーより淡白で癖がなく,美味だった。こういうハプニングに出会えることも,フィールドワークの醍醐味といえよう。
31日日曜朝,何とかうまく尿検査もできた。とはいえ,前日の魚とりの興奮で夜更かししていた男の何人かは来なかったし,全体としても前年の調査よりカバー率が落ちてしまった。
諸悪の根源は大乾季(こちらの人たちはbig dryと呼ぶ)とアルクップ(アカシアの種)フィーバーである。去年からオーストラリア人のバイヤーがやってきて,植林用にアカシアの種を買ってくれるという経験をしてしまった村人たちは,それまでのサゴ作り(サゴヤシの幹を砕いて水で曝してデンプンを抽出する)や焼畑農耕での芋作りや狩猟に使っていた時間を大幅に減らして,こぞってアルクップ作業に入ってしまったのである。アルの木は村から離れたところにあるので,どの村でもキャンプ支度をしてアルの木が生えている森に行ってしまう家族が多かったのだ。聞いた話では,村によっては30,000 Kという,ここの人たちにしては破格な収入になったらしい。アカシアの種は1 kg当たり80 Kが相場なので,村全体でだが,種だけで375 kgも集めたということになる。まあフィーバーするのは理解できるがアルクップブルブル(アカシアの種を買いつけにくるオーストラリア人バイヤー。白人はブルブルと呼ばれる)が恨めしい。
13:10,すべて片付いて,Wipim行きのトラックが来るのを待ちながら,So氏の家にいたら,大塚さんが持ってきたのであろう,7月6日付けの朝日新聞が残っていた。東京湾でダイヤモンドグレース号というタンカーから油が流出した事故が気になるので,帰国したら調べねば。
トラックに乗るとき,前日獲れたワニの肉を少し貰っていった。WipimのN氏の家で炙って貰って食べたが,N氏の息子の一人が「初めて食べたが美味い」と言っていた。喜んで貰えて良かったけれども,なるほどワニはどの村でも獲れるというわけではないのだな。
N氏の話では,来年は100万キナかけてポートモレスビーから会社に来て貰い,WuroiからWipimを通ってMoreheadに至るトランスフライハイウェイを整備する計画なので,凄いことになるぞ,という。けれども,そういう話は今まで何度もあったが,実現したことはないので,たぶん今度もダメだろう。まあ,ダメ元で夢を語るのは悪いことじゃない。
再びWipimからSun West AviationでDaruへ飛んだ。Daruでは再びLさんの家に居候である。いろいろ電話をしたかったが,郵便局の公衆電話が不調で,仕方ないのでマーケットで買い物をした。Stone fishと呼ばれていた大きな魚をK6.00,大きな菜っぱをK1.00×2束,パイナップル中がK5.00,キュウリとトマトが1個50t(トヤと読む。1 Kina=100 toya)だったので5個ずつ購入。再び郵便局に行ったら電話が通じ,まず日本に掛けてツインpHのセンサー発注を頼み,次にポートモレスビーのグランビルモーテルというホテルに電話して予約確認した(先に帰国した稲岡さんが予約しておいてくれた)。
今年の大渇水は久々であることは確かだが,Daruに出てきてビジネスをしている村人たちと喋っていると,人によって細かいところは違ってくる。1968年以来の大渇水だという人もいれば,1972年以来だという人もいる。まあ過去の4年程度の違いはどうでもいいのだろう。フライ川の上流のKiungaという町でも水不足で,川が浅く狭くなって船が遡上できなくなったので物資も無く,首都から空輸しているという話を聞いた。
ここで今回の調査は終わりなので,缶詰とかキンカンとかいろいろな物をLさんの家に残していくことにしたら,ポロシャツとかビルム(丈夫な紐を編んで作った肩掛け袋)など,いろいろプレゼントを貰ってしまって却って申し訳ないくらいだった。Daru最後の3日水曜夜は,ラム肉と牛肉ソーセージのスープ(たっぷり野菜入り)という豪華な晩餐会となった。本当にあたたかい人たちだ。
4日木曜朝はイングリッシュブレッド(?)と呼ばれるパンにジャムとマーガリン(彼らはバターと呼ぶが本物のバターはDaruでは滅多に入手できない)を塗ったサンドイッチを食べてから空港へ。エアニウギニのポートモレスビー行きは新型Dash8だった。11:45にポートモレスビー着。グランビルモーテルは送迎バス付きのはずだが,それらしいバスは見当たらないので,PMVで6マイルまで移動し,そこから歩いてグランビルに着いた。チェックインした感じでは,実は予約なんて関係ないような気がした。2日分の宿泊の前払いとうことで,K200を払った。ここは1泊K80の筈だが,税などあってデポジットは2日でK200なのだそうだ。1泊K180のGatewayホテルに比べると部屋にタオルがないとか,いろいろ欠点はあるが仕方ないか。村人の話では1泊K39という部屋もあるということだったが,そんな話は知らないと言われた。でもたぶん,村人と外国人ではレートが違うのだと思う。
銀行に行って余ったキナをオーストラリアドルに換えた。K550がA$450になった。Borokoのスーパーでタオルとひげ剃りとコーヒーと果物と消臭芳香剤を買い,中華レストランで昼食をとった後,グランビルに戻ったら部屋に洗いたてのタオルが供されていたので脱力した。タオルを買ったのは早まったな。1ヶ月分のひげ剃りはなかなか凄いことになるのだが,スーパーで買ってきたジレットのセンサーエクセルは優れものだった。
3:00に目が覚めたので荷物をパッキング。ドアの下に,今日がチェックアウトと記録されているから延長するならレセプションに連絡するようにと書かれた紙が入っていたが,ふざけた話だ。何のためにチェックイン時にK200デポジットしたというのだろうか。こういう連絡の悪さも含め,Gatewayより数段サービスが落ちる。ベッドも1泊K20のDove Travelの方がマシなくらいなので,これならDoveの方が良いなあ。
Boroko近辺の本屋を回ってみたが,とくにめぼしい本はなかった。PNG大学に行こうかとも思ったが気力が萎えていてやめた。昼はBorokoのBoroko Restaurantに入って,Ginger egg meat soupのSとエビチャーハンのSとスプライトを頼んだらK10.80だった。味は良いのだが,Sでも量が多すぎた。空港へ行って翌日の便のリコンファームをしてから部屋に戻ってテレビを見ながら休憩。
グランビルの隣にはマーケットがあり,マンゴー2個が40 t,ポポ1個がK1だったので夜と翌朝食べるために買ってきた。それなりに美味だったが,それだけでは流石に2食分は無理だった。6日土曜朝はサンドイッチを食べてからチェックアウトして空港へ。帰りもケアンズ経由だが省略。
Correspondence to: minato-nakazawa@umin.net.