人類生態学の中で,ヒト自体に関する要の一つが栄養学(nutritional science)[1]である。栄養学の一部としての食餌療法(dietetics)は,ヒポクラテスが自分の患者に,どういうものを食べるべきでどういうものを食べない方がよいのかをアドヴァイスしていたことから考えてもかなり古くからあるが,科学としての栄養学の創始者はラボアジェ(18世紀末の天才化学者として有名)であるといわれている。
[1] 英語でも,専門用語としては,栄養学を意味する言葉はnutritionである。Kreuter, P.A. (1980) Nutrition in Perspective, Englewood Cliffs, NJ: Prenrice-Hall.によれば,nutritionとは,「それによってヒトが食べものを利用し,生物的及び行動的に,十分に機能するための要求を満たす過程」であり,かつ「身体における『食べものの化学的処理過程と生物的利用』を研究する科学」でもある。しかし,Oxford English Dictionaryのような一般の辞書では,nutritionの説明として,(1a)身体を養う物質(nourishing substances)を環境中から取ってきたり身体がそれを受け取ったりする過程,(1b)食べもの,身体を養うもの(nourishment),(2)栄養素と(1)の意味でのnutritionの研究,とあり,科学としての栄養学をさす語とは限らない。ここで敢えてこのような表現にしたのは,以上の理由による。
ところで,栄養とは何だろうか? 改めて問うてみると,これはなかなか答えにくい質問であるが,子ども向けの絵本で「カラーダはかせ」という登場人物が説明するところによれば,「食べることによって血や肉になったり,体を動かすエネルギーになったりするもの」という。これはこれで明快なのだが,では微量元素や必須脂肪酸みたいなものはどうなのか,水分はどうか,と考えると,厳密にはそれでは不足なことがわかる。つまり,体構成成分となることとエネルギー源となることの他に,調節作用も含まねばならないのだ。そこで,一つの答えとしては,次のように考えることができる。
生物とは化学反応の場であり,エネルギー変換装置ともいえる。生物が生命活動を行う際には,何らかのかたちで外部からものを取り込んで,その生物に特異的なかたちに変えているわけである。ここでいう「もの」というのが,すなわち「栄養」である[2]。しかしこれでは「生物が外界から取り入れ,生命活動に使われるもの」という以外に何も説明しておらず,トートロジーに近い。
[2] ちなみに,栄養学での専門用語としては,「栄養」とは「もの」ではなく,「生物が,必要な物質を外部から取り入れて利用し,いらなくなったものを排泄しながら生命を維持していく現象(…中略…)言葉を正確に使わなければならない学問の上では,栄養と栄養素はきちんと区別される必要があります」(出典:高橋久仁子『「食べもの情報」ウソ・ホント』講談社ブルーバックス;他の本,教科書などでも似たようなことが書かれている)であり,外部から取り入れられ,栄養という現象に関与する物質を栄養素ということになっている。しかし,一般の人が「その食べものは栄養がある」とか「栄養がない」とか言うときに念頭にあるのは「もの」であると思うし,「栄養所要量」という言い方を考えてみると,これはエネルギー所要量やタンパク所要量の総称なので,「栄養素」の総体を栄養と呼ぶ方が論理的一貫性に優れていると思う。吸収されるか否かで区別をすることは大事だが,bioavailableな「もの」をいうとしたところで矛盾はなかろう。
では,もう少し別の視点から考えてみよう。生物全般でなくてヒトに限ってみると,ヒトが生存するためには,物を食べる必要がある。なぜかといえば,食べ物に「栄養」が含まれているからである。逆にいえば,「食べ物に含まれている,生存に必要なもの」を栄養と呼ぶのである。栄養の構成要素を栄養素と呼ぶ。栄養素は,ふつう,無機化合物と有機化合物に大別される(五十嵐, 1982)[3]。無機化合物は大部分が水分と灰分であり,有機化合物には,炭水化物,タンパク質,脂質のいわゆる三大栄養素[4]に加えて,食物繊維や核酸,ビタミンなどがある。有機化合物のかなりの部分は燃やすとなくなり,残るものが灰分である。灰分には低分子のイオンが含まれる。陽イオンではナトリウム,カリウム,カルシウム,マグネシウム,鉄,銅,亜鉛,コバルト,マンガンなどが含まれ,陰イオンとしては塩化物イオン,燐酸イオン,硫酸イオン,炭酸イオン,ヨウ素イオンなどが主である。
[3] 無機と有機の境界はどんどん曖昧になってきているが,ここでは触れない。
[4] 高橋(1998)のように,ビタミンと無機質をあわせて五大栄養素とする立場もある。
化学形態を無視すれば,「食品に含まれる,生存に必要な元素」という観点で栄養素を分解することもできる。ヒトも生物であるから,自身の体構成成分は必要である。従って,炭素,水素,酸素,窒素,硫黄,リン,塩素,カリウム,ナトリウム,カルシウム,マグネシウム,鉄あたりは必須元素である。これらは比較的多量に存在するので常量元素と呼ばれる。初めの6個の元素は有機化合物の主構成元素である。一方,微量ではあるがそれがないと生存できない元素もまた存在する。硼素,フッ素,珪素,ヴァナジウム,クロム,モリブデン,コバルト,ニッケル,銅,砒素,セレン,マンガン,スズ,ヨウ素,亜鉛の15元素がそれで,必須微量元素(essential trace element)と呼ばれる[5]。
[5] この項,出典は不破敬一郎(1981)「生体と重金属」講談社である。現在では,その他にも必須性が議論されている元素もいくつかあるが,ここでは触れない。(2000年2月21日追記:ここの記載がフッ素の必須性としてYahoo!掲示板で引用されているようなので,WEB日記「枕草子(My Favorite Things)」で補足した。;2月25日さらに追記:フッ素とフッ素添加についての文献目録を見つけた。ポインタとして有用。)
では,具体的に栄養学の扱うテーマを概観しよう。以下にざっと項目をあげてみたが,栄養学の扱う内容はきわめて広い。しかも,歴史が長いだけに,どの項目をとってもそれだけで学問分野として成り立つほど奥行きが深い(たとえば,ビタミン学とか代謝生理学とか)。各項目について軽くまとめた文書ができる度にリンクを張っていくことで内容を拡充したいと思っているが,完成はいつのことやらまったく不明である。なお,文末に代表的な推薦文献を載せたので,より深く知りたい方はそれを参照されたい。