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個別メモ
Latest update on 2012年3月5日 (月) at 10:54:46.
【第175回】 大掃除〜『地球に生きる人間−その歩みと現在−』(2004年12月21日)
- 6:00に起きて食事と食器洗いをして6:30に出発し(やればできるじゃん),6:57発あさま550号。大掃除が9:00から始まるのに間に合うためには,これでなくてはならない。
- 書き忘れていたが,昨日の講義の前に人類生態に寄ったとき,大塚教授から,出たばかりの『地球に生きる人間−その歩みと現在−』(小峰書店)を息子にとご恵贈賜ったのだった。子供向けにルビがついた,以前触れた西谷さんの本と同じシリーズの最新刊である。息子に渡す前に復路新幹線で読んでしまったところ,2箇所ほど気になった簡略化があった(正しくは,ペストを媒介するのはネズミというよりもネズミにつくノミであり[+もっと細かく言うと肺ペストは飛沫感染だし],人体に吸収されるダイオキシンのソースとしては土壌などの環境中に残留している農薬の不純物由来のものがメインである)のだが,全体としては人類と世界の歴史を俯瞰するスケールの大きい好著だと思った。これは,たぶんソロモン諸島調査中に大塚さんが読まれていたBryson B (2004) "A short history of nearly everything", Broadway Books(リンク先はアマゾン)を意識されているのかもしれない。内容的にはかなり深い部分もあるので,小学校5年の息子がどれくらい読めたか(字面は追えるだろうが,中身がどれくらい理解できたか),あとで聞いてみよう。
- 昨日の人口学の講義でも喋ったし先週の横浜のシンポジウムでも喋ったのだが,出生力低下の原因となる仮説として,都市化にともなう身体性の喪失というフレームは,かなり大きく捉えることができるかもしれない。プレゼン資料に書いたことだけではわかりにくいと思うので,議論を補完しておく。要は,先進国における近代化は,制御できない危険を生活から遠ざけ,都市という人工環境の中で,食糧も外部から確保して,「安全に」暮らせるようにした(自己家畜化を行ってきたともいえる)側面をもつので,自分で自分の身体と対話をする能力を失ってきた。「自然」が極力ナマの形では目に触れないようにするため(養老孟司さんがいろいろな本で主張している言葉を使えば,都市化による「脳化」である),かつては自分の力で,あるいは,少なくとも自分に見える形で行っていたことの外部化が進行した。たとえば,1950年にはほぼ100%自宅分娩であった出産も,急激に施設分娩化が進み,1980年代には9割以上が施設分娩,なかでも病院や診療所で,一種の医療行為のようなものとして行われるようになってしまった(このあたりの事情は,杉立義一『お産の歴史』集英社新書,に詳しいし,議論を呼んでいる三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』光文社新書,でも触れられている)。外部化が進行して困るのは,それまでは身体がもっていた能力が失われる危険が大きいことである。例えば,ワープロを文章を打つようになると,かつては書けたはずの漢字が書けなくなるのは,誰もが経験することだろう。一度はできたことができなくなるだけではなく,正体不明のものはできれば避けたい(コントロール不能だから)という意識が高まり,最初からやろうともしなくなる人が増えることは想像に難くない。ベストセラー『負け犬の遠吠え』(ぼくは読んでいないが)を書いた酒井順子『少子』(講談社文庫)は,三砂さんや養老さんのように身体性の喪失を指摘する人たちからみれば裏側にあたる,「正体不明のものは避けたい」側からみた正直な気持ちが吐露されているものであろう。三砂本と酒井本は,着地点はまったく逆でありながら,同じ内容の指摘が多いのが興味深いところで,たとえば,「分娩は痛くて怖い」という言説の構築にあたってマスコミが果たした役割の大きさなどは,両書が等しく指摘している点である。三砂本は「オニババ」という言葉が強烈なので,妙なところばかり話題に上がっているが,サブタイトルこそが本質的主張なのだと思う。身体性の喪失という視点でいえば,男性の肥満者割合の増加とか,20代と30代の女性の痩せの割合の増加も,自分の身体と対話をしていない(身体の調子に気を遣っていない)場合が多いだろうから,同じ現象がもたらした結果といえなくもない。痩せ過ぎるとレプチンレベルが低下するのは明らかで,そうすると下垂体=視床下部=性腺系の機能が損なわれる可能性が高まり,妊孕力にはマイナスの効果がありそうだと思われるけれども,これは食生活の欧米化で脂肪摂取量が増えたことだけではなく,身体性の喪失も一役買っているとも思える。考えてみれば,これって,後向きの聞き取り調査で世代間比較すれば検証できるんじゃなかろうか(バイアスはあるだろうけれど)。たぶん誰もやっていないので,何かに応募してみようか? 別に自分でやることに拘ってはいないので,やりたい方がいたら,是非やっていただきたいところである。
- 大掃除なんだが,ぼくは自分の部屋だけやって,しかも窓拭きとかエアコンのフィルタ掃除とかいった大変な部分は学生にやってもらったので,すぐに終わった。その分,査読を進めよう(ていうか,もう1つ査読……といっても論文ではないが……が入ったし)。
- 1つ査読終わり。チュートリアルの相談一旦終わり。15:00。
- どこにもクレジットしなかったが,上でリンクしたプレゼン資料は,OpenOffice.orgのImpressで,日本ユーザ会提供のテンプレートを使って作成し,OpenOffice.orgの機能を使ってPDF化したものである。この背景も格好いいが,日本ユーザ会のテンプレートには本当にハイセンスで素晴らしいものが多い。
- 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』の書評にも書いたのだけれども,何か目的があるとき,手段を問わずに部分的実現することが,最終ゴールに近づくことなのかどうかは難しい問題だ。例えば,包括的なプライマリヘルスケアの理想を実現するためには,貧困克服,平等な社会,積極的住民参加が必須なのだが,多くの途上国ではこれらは短時日では実現不可能と見込まれたので,1970年代後半から,WHOは選択的プライマリヘルスケアとしてG.O.B.I. (Growth monitoring, Oral rehydration, Breastfeeding, Immunization)を推進し,UNICEFもこれに協力してきたという事情がある。1996年に愛知県で行われた第11回日本国際保健医療学会総会においてDr. David Werner (Health WrightsというNPOで活動している"Where there is no doctor"の著者)が指摘したように,G.O.B.I.によって乳児死亡率や5歳未満死亡率は確かに低下したけれども,(1)それを維持するだけで手一杯,(2)世界銀行主導の「お金をかけて健康増進」の流れに乗った,という理由により,包括的PHCの実現は却って遠のいたといえるかもしれない。男女共同参画とか生殖補助医療とかいったことは,それ自体は良いことなのだけれども,少子化対策との抱き合わせで推進されるのは,妙な強制力や差別の元になりかねないので,考えものだと思う。プラクティカルにみても,目標が部分的にでも実現されればいいという目論見からくっついているのだと思うが,いくらお金を取りやすいからといって,筋が通らないものは通らないので,効果が上がらなかったら共倒れする危険も孕んでいることを見逃してはならないのではないか。
- 19:30になってしまった。まずいことにまだ某査読が終わらない。メモを増やしている暇があったら査読を進めればいいようなものだが……反省反省。復路あさま531号の中で終わらせよう。
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