山口県立大学 | 看護学部 | 中澤 港 | 公衆衛生学
公衆衛生学(14) 環境問題と公害
▼テキスト第4章
▼今回のテーマは,たぶんどこかで(中学や高校の授業,新聞,テレビのニュース等)聞いた話が多いと思うので,復習のつもりで聞かれたし。
はじめに
- 環境問題とは
- ▼前回までに説明したように,人間は生存しやすくなるように自らの回りに人間化された生活環境を作り出してきた。しかし,何かを作り出すことが,意図しなかったような別のはたらきをすることは避けられない(これを生態系における間接効果の非決定性と呼ぶ)。人口が増加するのと同時に技術や文明が発展し,それによって人間化された生活環境が加速度的に拡大するにつれて,意図しなかった別のはたらきが積み重なって,人間の生活に無視できないほどの悪影響を及ぼす問題が起こってきた。これが環境問題の本質である。
- 公害とは
- ▼元々public nuisanceという英国の概念の訳語である,とテキストに書かれている。が,public nuisanceは公的生活妨害という意味の法律用語であり,公害という日本語から想像される概念より広い概念である。公害という概念は,環境汚染environmental pollutionに近い。人によって定義が違うが,一般には,産業活動による環境汚染が原因で,不特定多数の人々の生活が妨害されることといえる。
- ▼世界で最も早く産業革命がスタートした英国では大気汚染も早く始まり,1821年に煙害防止法が制定され,1853年にロンドン法が制定され,1863年にはアルカリ事業規制法,1866年には環境衛生法,1875年には公衆衛生法が制定されるなど,法整備はかなり早期から進んだが,スモッグ発生やそれによる死者が減らなかった。公衆衛生法は1936年に大改訂されたものは,近代的公害規制立法の代表的なものと評価されている。しかし1952年にも大規模なスモッグが発生し,死者も出たので,ビーバー委員会による調査がなされ,1956年に大気清浄法が制定され,殺人スモッグの発生は止まった(もっとも,同時期にエネルギー源が石炭から石油に転換したことも影響している)。
日本における公害
当時おそらく公害とは呼ばれなかったが,人為的活動をした結果として環境が劣化し,大勢の人にさまざまな問題が起こった例としては,8世紀の奈良の東大寺大仏建立に際してメッキのため水銀が多量に使われ,職業曝露した作業員に水銀中毒者が発生したことが最初であろうことを,三浦豊彦氏の研究を引用して,飯島伸子「環境社会学のすすめ」(丸善ライブラリー)は指摘している(ただし,飯島が「周辺の居住者にも大気に含まれる水銀や飲料水にとけこんだ水銀によって,中毒者が発生していたのではないだろうかという疑問を拭えないでいます」と懸念するほどの環境影響があったとは思われない。無機水銀の有機化は川魚では起こりにくかったはずだし,大気中への水銀蒸気の拡散は周辺住民にまで影響しなかったと思われる)。飯島は「典型的な固定発生源による公害・環境問題には,働く場の環境の悪化が働く人々の職業病や労働災害を引き起こし,その同じ原因施設から排出される有害物質によって,地域社会に公害・環境問題が引き起こされるという労働災害・職業病と環境問題間の密接な関係が存在します」と述べているが,産業廃棄物処理問題など,職業曝露のコアがなくても環境汚染が起こる場合もある。
利便性を求めてなされた大規模な環境改変の副作用が周辺住民に影響したという意味では,江戸時代の鉱毒事件が先駆けといえる。赤沢銅山のように周辺住民が藩に訴えて最終的に廃山に追い込んだものもあれば,別子銅山のように幕府の保護を受けて採鉱が続いたものもあった。明治時代になると殖産興業を旗印にした産業化が急速に進んだために,鉱業による汚染は激しくなった。とくに汚染が大きかったのが,足尾銅山による鉱毒事件である。それまでの鉱害は水の汚染による農作物への被害が主だったが,足尾銅山では砒素中毒による健康被害や精錬過程で排出される亜硫酸ガスによる大気汚染問題も起こった。田中正造らによる反対運動も起こり,大きな社会問題になったが,加害者が政府とつながっていたためか(と推測される),被害を受けた個人への補償は一切なされなかった。
戦後復興から高度経済成長期にかけて,急速な重化学工業の発展とともに起こった問題が水俣病,新潟水俣病,イタイイタイ病,四日市ぜんそくといった公害病であった(これら4つはいずれも被害者が団体を作って原因を作った企業や行政の監督責任を訴えて裁判を起こし,いずれも補償を勝ち取った。4大公害訴訟と呼ばれる)。これらは基本的に特定の地域に影響が限定されていた問題であり,地球環境問題とはそこが違う。ただし,条件さえ揃えばどこでも起こりうる問題であり,その地域で起こったのは,不幸な条件が,偶々その地域でその時代に揃ってしまったからに過ぎない。
- 水俣病
- 【地域】熊本県水俣湾周辺
- 【原因】チッソ(昭和39年までは新日本窒素株式会社)水俣工場からの排水中に含まれていたメチル水銀(アセチレン加水反応の副生成物としてできたもの)が水俣湾内の魚介類に蓄積し,沿岸住民がそれを日常的に食べることによってメチル水銀に慢性曝露したこと。
- 【主要な問題】中枢神経症状。3割以上の致死率。死ななくても長期間後遺症が残る。昭和31年4月21日,5歳11ヶ月の女児が歩行障害,言語障害,狂騒状態などの脳症状を主訴として新日本窒素水俣工場付属病院を受診し,2日後に入院。同日,その女児の3歳下の妹が歩行障害,手足の運動の困難,膝,手の指の痛みを訴え,同月29日に受診して入院。母親の話から近所にも同じような症状をもつ子どもが多発していることを知り,医師たちが往診して多数の患者を発見し,8名を入院させた。5月1日,チッソ水俣工場付属病院の細川院長が,「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と水俣保健所に正式に報告したことで,水俣病が正式に発見された。しかし,実はその数年前から,ネコが奇妙な死に方をしたり,中枢神経症状を呈して死んだりする人はいたので,昭和20年代後半から水俣病はあったと考えられる。
- 【地域の対応】チッソによる海洋汚染に対して漁業補償を求めることは,大正14年頃から行われてきたが,「今後苦情を申し立てない」条件で見舞金を貰ってきたにとどまる。ネコの奇病の多発は「ネコ踊り病」と認識されていたが,当初はヒトの症状はそれと関連付けられなかった。被害者の会である「患者家庭互助会」ができたのは昭和33年8月,漁民が工場へ押しかけて漁業補償金を請求し,警官隊と衝突したことも何度も起こった。昭和34年に患者家庭互助会は一人当たり300万円の補償を求めて工場と交渉したが,排水と病気の因果関係はないとしてゼロ回答がなされ,工場前で座り込みをするなどしたが,孤立無援のまま県知事を中心とする水俣病紛争調停委員会の「見舞金契約」斡旋案を受諾させられ,死者30万円,生存者成人10万円(年金),未成年3万円(年金),葬祭料2万円を受け取っただけで,今後水俣病の原因がチッソにあるとわかっても一切再請求はしないこと,もしチッソと関係ないことがわかれば直ちに補償は打ち切られること,今後の患者の認定は水俣病患者診査協議会によること,を認めさせられてしまった。水俣病患者診査協議会は昭和34年12月25日に設置された厚生省管轄の組織だが,ある意味ではこの斡旋案契約により,患者認定の下請け組織化してしまったといえる。また,この斡旋により,水俣病はメチル水銀を含んだ魚介類を食べて起こるとされたので,胎児性水俣病の認定が遅れたことは否めない(生まれつきの中枢神経障害なので脳性小児麻痺とされた)。胎児性水俣病患者が2人死亡して解剖結果が出た後,昭和37年暮れになってやっと胎盤経由でメチル水銀中毒が起こることが認知された。昭和43年の政府発表を受けてチッソ社長が患者家庭を詫びて回り,患者からも認定申請が相次いだが,死亡者の認定はできないという理由で患者認定審査会はそれを拒絶した。補償交渉が進まず,厚生省が昭和44年2月に第三者機関として補償処理委員会を立ち上げたが,(厚生省から求められた)その結論に従うという承諾書を出すか否かで患者互助会が分裂し,一部は厚生省の斡旋案を呑んだが,自主交渉派は訴訟を決意した。水俣病訴訟弁護団の結成に全国の弁護士222名が参加し,昭和44年5月24日に「水俣病訴訟支援,公害をなくする県民会議」が発足して,同年6月14日に熊本地裁に対し,慰謝料請求の提訴がなされた。しかしチッソへの配慮などさまざまな要因から,その後も隠されつづけていた患者もいて,しかも彼らは放置されつづけた。
- 【行政の対策】昭和31年5月28日に水俣市医師会,水俣保健所,新日本窒素水俣工場付属病院,市立病院,市役所によって奇病対策委員会が発足。地域性があることからまず伝染病対策。患者を隔離,消毒。その後,対策委員会は熊本県衛生部を通じて熊本大学医学部に研究協力を要請し,熊大研究班が発足し,精力的に研究。当初疑われた伝染性はなく,重金属中毒であることは昭和31年10月13日の熊本医学会で中間報告されている。最初は重金属の中でもマンガンが疑われたが,昭和32年にはマンガン中毒とは異なることが明らかになっていた。しかし工場排水が原因であると特定するには至っていなかった。そういう状況で昭和33年に新日本窒素は工場排水の出口を水俣湾から水俣川河口側に変更し,水俣湾内に汚染物が蓄積するのは止まったが,同時に不知火海全体に汚染が広がった。その後メチル水銀であることが判明した。熊大研究班が精力的に活動した他,例えば爆薬説が出たときは厚生省水俣食中毒部会や熊本県衛生部が旧軍需物資について現地検証等を行い,それが事実に反し医学常識を無視していることを明らかにするなど,対策はされていたのだが,排水の禁止といった抜本的対策がなされるのは遅れ,水俣川河口への排水を水俣湾側に排水口を戻すことと浄化装置をつけることが通産省から通達されたのは昭和34年10月21日であった。しかし,政府の正式見解として「熊本水俣病は,新日窒水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定し,新潟水俣病は,昭電鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤をなしたと判断する」と発表されたのは,新潟水俣病が発生し,両患者団体が連携して国に働きかけた後の,昭和43年9月になってからのことである。それでも新潟と違って一斉検診はなされず,「水俣病訴訟支援,公害をなくする県民会議」の医師団の患者掘り起こしなどを経て,昭和46年8月に環境庁から「病状がメチル水銀の影響と考えられる場合,他の原因がある場合でも水俣病の範囲に含めること,疫学的な事項から否定できない場合も患者に含めることが法の主旨であること」を明記した通達によって,認定基準の見直しが出され,同じ頃厚生省が不知火海沿岸住民一斉検診費として500万円を計上し,漸く一斉検診がなされるようになった。
- 【他】工場排水中には鉛,水銀,マンガン,砒素,セレン,タリウム,銅,酸化マグネシウム,酸化カリウムなどの有毒物質が含まれていて,原因の究明は困難をきわめた。タリウム説,セレン説,多重汚染説などいろいろな原因物質が疑われては消えた。有機水銀中毒を疑ったのは英国の神経学者マッカルパインであった。その後患者の症状が有機水銀中毒であるハンター=ラッセル症候群と完全に一致することが報告され,水銀濃度が調べられて初めて,信じられないほど高レベルの水銀汚染があることがわかったのである。それでもチッソ側は,爆薬説(日本化学工業協会の報告),アミン説(昭和35年,東工大・清浦教授発表,東邦大・戸木田教授追随)等を元にして反論を続け,なかなか排水中の水銀が原因であることを認めなかった(逃れようのない証拠が熊大研究班から出たのは昭和38年2月16日)。そのために被害が拡大したといえる*。通産省の通知を受けて昭和34年12月19日にサイクレーターのついた排水処理設備を作ったが,実はそれには有機水銀除去効果が無く,昭和35年6月から一部排水循環方式,昭和41年6月から完全循環方式をとって,やっと水銀が除去されるようになった。それでも昭和41年5月にはパイプによって排水を直接海中に投棄していたことが発覚したり,オーバーフローや洗浄のためにアセトアルデヒドが使用されたことで生成したメチル水銀が排水中に入ったりしたことで,水俣湾付近の魚介類のメチル水銀濃度はなかなか低下しなかった。研究者は,胎児性水俣病の認知と排水スラッジからのメチル水銀検出で原因究明は一段落ついたと考え,同時にリハビリテーション・センターができたり,通院費の公費負担がされたりして,社会問題としては下火になりかけたが,環境汚染は改善されていなかったわけである。その後新潟水俣病が発生し,公害問題として水俣病が世間に正しく認知されはじめると同時に,再び社会的な動きが活発になった。昭和43年1月12日に発足した水俣病対策市民会議は新潟水俣病患者,弁護団,民主団体水俣病対策会議などと連帯して国(厚生省,通産省,科学技術庁)に働きかけ,その結果として,昭和43年9月になってやっと,政府の正式見解が発表されたわけである。その後もチッソは予見不可能だったから無過失であると主張し,それに対して水俣病研究会は大規模な化学工場には注意義務があると反論した。安全性の考え方が当時法律になかったため,核爆発実験についての放射能の議論を引用して「無害であるという確証がなければ排出してはならない」という論理を構築した。
* 公害対策と原因究明ということについて,原田正純「水俣病」(岩波新書)に,今日の予防原則の考え方にも通じる名言があるので引用しておこう。
それにしても無機水銀がどうして有機化するかとか,有機水銀中のどの物質が脳神経細胞を冒すかなどという学問上の未解決の問題は,考えてみれば公害に対する企業の責任とは別個のものである。疫学的に,工場排水に起因する中毒であることがわかれば企業の責任の立証はそれで十分なのである。医学的研究においては未解決の点はつねに残るし,ある事実が99%確実であっても,1%の疑問が残れば,研究者の態度としては,その1%に取り組まねばならないものである。しかしその1%の未知の部分が,責任を取らない企業の,あるいは行政の口実になってはならない。未解決の問題がはっきりするまでその責任を取らないというやり口は,被害をさらに拡大させる。これらの教訓は,今後,私たちが直面する公害や,その他健康を破壊するもろもろの未知の問題に取り組むときに,絶対生かされねばならないと思うのである。
- 新潟水俣病
- 【地域】新潟県阿賀野川流域
- 【原因】昭和電工(アセトアルデヒド生産量がチッソについで日本2位だった)の排水中に含まれていたメチル水銀への経口慢性曝露による。
- 【主要な問題】昭和39年秋頃からネコが狂死。昭和39年11月に発症した患者の毛髪から,きわめて高濃度の水銀が検出され,他の患者が2例発症したことから,昭和40年5月31日,新潟県衛生部に対して,阿賀野川下流域での有機水銀中毒患者の発生が報告された。
- 【地域の対応】熊大研究班からも協力を得て,地域住民,民主団体(民主団体水俣病対策会議を発足させた),新潟大学,県が一体となって原因究明に努力し,昭和41年3月には工場排水の疑いが強いという中間報告が発表された。熊本が重症患者だけをピックアップしたのと違い,面接調査による魚の摂取量や症状調査,及び毛髪水銀濃度の検査などからなる,綿密な疫学調査を行って,独自の診断基準を確立していった。しかも,要観察者や水銀保有者については追跡調査もなされ,その中から遅発性水俣病が発見された。
- 【行政の対策】昭和41年9月には,厚生省特別研究班が「昭和電工鹿瀬工場の排水口より採取した水ゴケからメチル水銀を検出した」と発表。
- 【他】昭和42年6月12日,新潟水俣病患者家族13名は昭和電工を相手取って慰謝料請求訴訟を起こした。昭和46年9月勝訴。昭和48年補償協定が結ばれたが,その後認定申請患者が増大し,同時に実際の認定数が減ったことから,多数の未認定患者が生まれた(この点について環境社会学の飯島伸子氏は新潟水俣病研究の中心だった新潟大学医学部教授の態度が変わったと批判しているが,実際に便乗申請が増大したのかもしれず,そこまで決め付けることができるかどうかはわからない)。
- イタイイタイ病
- 【地域】富山県神通川流域
- 【原因】神岡鉱業所から流出したカドミウムが水田を汚染し,米を経由して流域住民に慢性的に摂取され,腎障害を起こし,骨のカルシウムを置換したことで発症した。
- 【主要な問題】最初の患者は大正元年(1912年)には発生している。鉱毒水による農業被害はさらに1世紀遡り,文政2年(1819年)に報告されている。明治14年(1881年)から三井が経営。昭和2年(1927年)から亜鉛精錬のための浮遊選鉱法導入により排水中カドミウム濃度が上昇し,戦争とともに亜鉛や鉛の需要が拡大するのに伴って排水も増え,昭和15年(1940年)頃から神通川流域で患者が多発。患者の症状は,腎障害と骨軟化症を起こし,ちょっと身体を動かしただけでも骨折して全身が痛むとされている。
- 【地域の対応】戦前は稲作被害の主原因が神岡鉱山にあるだろうことは住民の一部には知られていたし,その米とイタイイタイ病にも関連があるだろうと考えられていた。しかし患者自身が奇病として隠していたらしい。戦後は細菌説,栄養不良説,リウマチ説などが唱えられ,鉱毒による重金属中毒説が無視される中,昭和32年(1957年)に地元の萩野昇医師が重金属説を発表,昭和36年(1961年)にイタイイタイ病死者の骨からカドミウムが大量に検出され,萩野医師らがカドミウム原因説を発表した。
- 【行政の対策】昭和41年9月,厚生省特別研究班がイタイイタイ病の原因はカドミウム+αとの見解を発表。昭和42年12月,同研究班が神通川流域及び神岡鉱業所の排水口からカドミウムを検出したと発表。
- 【他】昭和43年(1968年),患者9名と遺族20名が三井金属鉱業を訴えて富山地裁に提訴し,昭和46年(1971年)富山地裁で原告勝訴,控訴審でも1972年名古屋高裁金沢支部で原告勝訴。三井金属は第7次提訴までの全患者と和解し,(1)医療救済,(2)農業被害補償,(3)土壌復元,(4)公害防止対策をすることを約束した(しかしもちろん他所と同様,未認定患者の問題は残った)。これらの補償のため,三井金属は政府から公的補助金を受け,税制上の優遇措置も受けた。が,第一次石油危機後,国内の亜鉛需要が低迷し,神岡鉱山は赤字続きになったので,三井金属鉱業は神岡鉱山を神岡鉱業として別会社化した。
- 四日市ぜんそく
- 【地域】三重県四日市市
- 【原因】四日市市の工場から排出される排気ガス中の硫酸ミスト,あるいは大気中に溜まった亜硫酸ガスへの慢性的な曝露による。
- 【主要な問題】昭和30年9月に四日市市塩浜地区の旧海軍燃料廠の活用計画が決定され,石油関連産業が大規模な活動を開始し,石油精製,石油化学,一般化学工場に加えて火力発電所からの排気によって激しい大気汚染が起こった。降下煤塵は少なかったが,亜硫酸ガス,硫化水素,炭化水素,窒素酸化物の濃度が高かった。そうした状況下で,昭和37年末頃から,四日市市に激しい喘息様症状を有する患者が多発し,四日市喘息と呼ばれるようになった。
- 【地域の対応】昭和42年9月1日,患者9名が6社を相手に損害賠償の訴訟を起こし,昭和47年に原告勝訴に終わった。喘息は非特異的疾患なので,大気汚染がなくても発症することもあり,大気汚染によって発症率が上がったことがどの程度因果関係として認められるかが重要な争点だったが,これが認められ,判例として定着したことは,その後の公害健康被害補償法の背景となった。
- 【行政の対策】昭和38年,厚生省と通商産業省が共同して編成した黒川調査団(専門家からなる)は,現地で汚染影響と発生源対策を調査し,昭和39年,四日市公害に関する勧告を政府に提出した。四日市市条例が制定され,高度障害者の入院援助対策がなされた。市公害等医療審査会で認定された患者(医療費が市から負担される)は昭和44年(1969年)までに約600名に達した。
- 【他】宮本昭正・可部順三郎・前田和甫「新訂 大気汚染と呼吸器疾患」(ぎょうせい)や,大気汚染の環境影響〜四日市公害の教訓〜と題した三重県のサイト[http://www.eco.pref.mie.jp/forum/land/net-kouza/siryou/siryou01/html/page03.htm]の情報を参照。
典型7公害という取り上げ方もある。大気の汚染,水質の汚濁,土壌の汚染,騒音,振動,地盤沈下,悪臭をいう。
日本の公害対策の法制
- 公害対策基本法
- ●昭和42年(1967年)成立。「人の健康を保護し,生活環境を保全するために維持されることが望ましい環境上の基準」として環境基準が設定され,総合的な対策を具体化する方法としての公害防止計画の策定が規定され,その主旨を受けて「大気汚染防止法」や「騒音規制法」の制定等関連する法制度の設備が図られた。この法律により,国内での公害規制が厳しくなったために,規制の緩いアジア諸国へ工場を移転する企業が相次ぎ,いわゆる公害輸出が問題となってきたという側面もある。
- ●環境庁設置法により環境庁が設置されたのは昭和46年(1971年),自然環境保全法が成立したのは昭和47年(1972年)である。環境庁設置法第3条に「環境庁は,公害の防止,自然環境の保護及び整備その他環境の保全を図り,国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するため,環境の保全に関する行政を総合的に推進することをその主たる任務とする」とあるが,その通り,環境庁の設置によって公害対策は大きく前進したといえる。
- 公害被害者救済法
- ●昭和45年(1970年)成立。無過失責任主義がとられた。救済を要する者に対して,緊急の救済措置を行政的にとることを認定するのが目的なので,対象を生きている人に限定している。その後,1973年6月に「公害健康被害補償法」が成立した(1974年9月から施行)ことにより廃止。公害健康被害補償法では,公害による健康被害については,指定地域に一定期間滞在したことによって曝露要件を満たす人が指定疾病に罹っていたら被害者と認定することとされ,被害者が迅速に医療費・障害保障費などの給付が受けられるようになった。その後1987年(昭和62年)に,同法は「公害健康被害の補償等に関する法律」に引き継がれている。
- 環境基本法
- ●1993年制定。公害対策基本法を継承(同時に公害対策基本法は廃止された)。自然環境保全法の規定をも視野に入れ,総合的に(1)環境の恵沢の享受と継承,(2)環境への負荷の少ない持続的発展が可能な社会の構築,(3)国際的協調による地球環境保全の積極的推進を目的とする。
- ●環境基本法では,環境の保全の支障のうち,事業活動そのほか人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染,水質の汚濁,土壌の汚染,騒音,振動,地盤沈下,悪臭によって人の健康または生活環境にかかわる被害が生じることを「公害」と定義している。
- 環境影響評価法
- ●公害対策では後手に回ってしまっていたため,1997年成立。
- ●一定規模以上の開発の事前に影響評価を義務付けたもの。事業者評価である点に限界があるといわれる。
- ●しかし,より問題なのは,事後評価が甘いことと,総合評価の手続きが明示されていないことと,方法書が膨大な量に及ぶために市民が詳細にチェックすることが難しいことである。
- その他個別の法律
- ●「水道法」による水質基準とか「水質汚濁防止法」や「下水道法」による排水基準とか,「大気汚染防止法(1968年成立,1996年の改正では,大気汚染を通じて人の健康に影響を与える恐れのある化学物質について,新たに事業者の自主管理が求められた)」による大気環境基準とか,「騒音規制法」,「土壌汚染防止法」,「農薬取締法」,「工業用水法」,「悪臭防止法」,「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律(通称PRTR法,1999年成立)」,「ダイオキシン類対策特別措置法(1999年成立)」等,個別の環境要因をターゲットとした法律が定められている。
外因性内分泌攪乱化学物質
外因性内分泌攪乱化学物質とは,いわゆる環境ホルモン(井口泰泉氏がテレビ番組で使ったことから流行した言葉)のことである。pg(ピコグラム,1グラムの1兆分の1)といったオーダーのごく微量で作用し,内分泌系の機能を狂わせる。細胞が損傷を受けて破壊される急性毒性とは作用メカニズムが違うと考えられる。経世代影響などが出やすい。
DDTの慢性毒性や生態毒性は古くはレイチェル・カーソン「沈黙の春」や有吉佐和子「複合汚染」でも指摘されていたし,DESシンドロームは1970年に報告されたので,決して新しい問題ではないのだが,1996年に出た(邦訳は1997年)コルボーンらの「奪われし未来」(Our stolen future)で世界的に問題がクローズアップされ,日本でも大騒ぎになったのは記憶に新しいところである。化学物質による環境汚染が予測しなかった悪影響をもたらしたという枠組みで考えれば公害の一つ。ただ,原因と結果の因果関係の究明が,古典的な公害問題以上に面倒といえる。
「奪われし未来」が大ベストセラーになったことを受けて,1998年は環境ホルモンというコトバがマスメディアに載らない日はなかったと言っていいし,それ絡みの本も山ほど(玉石混交だが)出版された。日本の行政は世論が盛り上がるととりあえず何らかの対応をとるのが通例であり,当時の厚生省は1996年度厚生科学研究事業の1つとして「化学物質のクライシスマネジメントに関する研究班」を発足させ,環境ホルモンの毒性評価や日本人男性の精子数測定(デンマークのスキャケベクグループとの共同研究)を開始したし,1997年3月に当時の環境庁は「外因性内分泌攪乱化学物質問題に関する研究班」を立ち上げ,7月には中間報告書を出しているし,1998年に当時の環境庁が中心となって「環境ホルモン戦略計画SPEED'98」が定められた。とくにダイオキシン類についてはさまざまな事件があったせいで,1999年にはダイオキシン類対策特別措置法(後述)が定められるなど,かなりの対策がとられた。また,研究者の間でも機運が盛り上がり,環境ホルモン学会(正式名:日本内分泌撹乱化学物質学会[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsedr/index.html])が1998年6月に発足した。
PRTR法
正式には「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律」という(関係法令の全文がhttp://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/law/horeishumokuji.htmからPDF形式でダウンロード可能である)。OECDの勧告を受けて定められたものである。PRTR法は,PRTR制度とMSDS制度からなる。PRTRとは,Pollutant Release and Transfer Registerという英語の頭文字をつないだものである。環境省のPRTRサイトの説明[http://www.env.go.jp/chemi/prtr/risk0.html]によれば,「有害性のある多種多様な化学物質が、どのような発生源から、どれくらい環境中に排出されたか、あるいは廃棄物に含まれて事業所の外に運び出されたかというデータを把握し、集計し、公表する仕組み」をいう。
対象としてリストアップされた化学物質(かなり広範囲にわたる)を製造したり使用したりしている事業者は,環境中に排出した量と廃棄物として処理するために事業所の外へ移動させた量を自ら把握し,行政機関に年に1回届け出なければならない。行政機関はそのデータを集計し,家庭,農地,自動車などから排出されている対象化学物質の量を推計し,2つのデータを併せて公表することとされる。現在公開されているデータについては,集計結果ホームページ[http://www.prtr-info.jp/]を参照。
一方,MSDSはMaterial Safety Data Sheetの頭文字をつないだもので,事業者による化学物質の適切な管理の改善を促進するため,対象化学物質を含有する製品を他の事業者に譲渡又は提供する際には,その化学物質の性状及び取扱いに関する情報を,化学物質安全データシート(MSDS)として事前に提供することを義務づける制度をいう。
ダイオキシン類対策特別措置法
http://www1.mhlw.go.jp/topics/dioxin_13/houritu-zenbun.htmlで全文読める。環境省のダイオキシン類対策サイト[http://www.env.go.jp/chemi/dioxin/]にある概要(http://www.env.go.jp/chemi/dioxin/outline/law.html;下に引用)がわかりやすい。
ダイオキシン類対策特別措置法について
平成11年7月12日成立 同月16日公布 平成12年1月15日施行
1. 法律の目的
(1) ダイオキシン類による環境汚染の防止や、その除去等を図り、国民の健康を保護することが必要。
(2) このため、施策の基本とすべき基準、必要な規制、汚染土壌に係る措置等の整備。
2. 法律の概要
(1) ダイオキシン類に関する施策の基本とすべき基準
○ 耐容一日摂取量(TDI)及び大気汚染、水質汚濁(水底の底質の汚染を含む)、土壌汚染に関する環境基準の設定。
(2) 排出ガス及び排出水に関する規制
○ 規制の対象となる特定施設を政令で指定。
○ 排出ガス(大気)、排出水(水質)に係る排出基準の設定。都道府県が条例でより厳しい基準を定めることが可能。
○ 都道府県知事は、国が設定する環境基準達成が困難な大気総量規制地域について、総量削減計画を作成、総量規制基準を設定。
○ 総量規制地域の設定について、住民から都道府県を経由して国に意見申出が可能。
○ 特定施設を新設する際に知事へ届出。知事は60日以内に計画変更の命令が可能。
○ 排出基準、総量規制基準の遵守義務。知事は改善命令が可能。
(3) 廃棄物焼却炉に係るばいじん・焼却灰等の処理等
○ ばいじん・焼却灰中の濃度基準及び廃棄物の最終処分場の維持管理基準を設定。
(4) 汚染状況の調査・測定義務
○ 知事は大気、水質、土壌の汚染状況を常時監視し、環境大臣に報告。
○ 国・地方公共団体は汚染状況を調査測定し、調査結果は、知事が公表。
○ 事業者に排ガス、排出水の測定義務。測定の結果は知事に報告され、公表。
(5) 汚染土壌に係る措置
○ 知事は、土壌環境基準を満たさない地域のうち特に対策が必要な地域を指定し、対策計画を策定。
(6) 国の計画
○ 国は、事業分野別の排出量の削減目標量や、そのための措置、廃棄物減量化施策などを定める計画を作成。
(7) 検討
○ 臭素系ダイオキシンに関する調査研究の推進。
○ 健康被害の状況、食品への蓄積状況を勘案して科学的知見に基づく検討等。
○ 小規模な廃棄物焼却炉等の規制の在り方に関する検討等。
環境省は,平成11年(1999年)にダイオキシン対策推進基本指針[http://www.env.go.jp/chemi/dioxin/law/kihonsisin.html]を定め,基本的考え方として,ダイオキシン問題は将来に渡って国民の健康を守り環境を守るために内閣をあげて取り組みを一層強化しなければならないとし,4年以内に排出総量を9割削減,所沢で見られたような風評被害への対策,TDIを始めとするする各種基準作りなどを提示した。TDIは同年6月に厚生省/環境庁の合同の委員会で協議され,同時発表で当面4 pg/(kg・日)とされた[http://www1.mhlw.go.jp/houdou/1106/h0621-3_13.html]。
問題になった当初のダイオキシン測定値がおかしいという指摘や,ごみ焼却よりも農薬起源の汚染がメインだったというレポートが横浜国立大グループ(益永,中西ら)から出て,この法律の有効性を疑問視する声も高まっている(参考:渡辺・林「ダイオキシン:神話の終焉」日本評論社, 2003年)。
環境問題への国際的取り組み
森林減少,オゾンホール,地球温暖化など,すでに説明した問題のほかにも,資源の枯渇,人口爆発,生物多様性の減少等,多くの地球規模の問題が起こり,国際的な取り組みが必要とされている。
公害問題については,昭和47年(1972年)スウェーデンの首都ストックホルムで,国連主催の環境問題国際会議が開かれた。それと並行して民間の国際環境会議も開かれ,その場で,当時東大助手として自主講座公害原論を主催していた宇井純氏(現在は沖縄大学教授)が中心になって,日本の公害問題の総まとめを行った。水俣病,イタイイタイ病,カネミ油症(当初PCB中毒とされたが,正確にいえば,中毒の原因物質はPCBに混入していたPCDDやPCDFのようなダイオキシン類らしい)などの患者自身が世界に向けてアピールし,公害の悲惨さが世界中で認識されるようになった(このことの日本での扱いはむしろ小さかった)。
今日の地球環境問題への取り組みは,国連(例えば国連環境開発計画(UNEP))を中心として,各種の政府間パネルや,NGOによって活発に行われている。オゾンホールを食い止めるため,フロンガス排出を規制するモントリオール議定書(1987年)が締結され,国際的に規制されるようになったなどの成果もあがっている。現在進行中の対策としては,例えばIPCC(気候変動に関する政府間パネル)や,それと表裏一体の関係にあるCOP(気候変動枠組み条約締約国会議),POPs条約(残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約:環境中に残留し,生物に蓄積される12の有害化学物質を規制する国際条約で,2001年5月に127カ国が参加した外交会議で,マラリア対策用DDTを除き採択)などが有名である。
正解のない問題
環境問題には,論理的に完全な解決法がありえない場合も多い。トレードオフやジレンマ・トリレンマを内包する。競合する価値観のすり合わせが必須だが,行政的なトップダウンでそれが可能か,というと,疑わしい。本来,のどもと過ぎればなんとやらではいけないので,世論の盛り上がりに場当たり的に対応するのではなく,将来起こる可能性がある問題を見越した,地道で継続的な取り組みが必要。その意味で,ダイオキシン特措法よりもPRTR法のような取り組みが重要。しかしそれだけでは不十分。
そこでどうするか? 故・高木仁三郎氏のような活動は大事だけれど社会の中心になれなかった。市場原理を超えるような一般性は得られなかったわけだ。市民のリテラシーを上げる以外に手はないと思われる。例えば環境自由大学・青空メーリングリスト[http://sv2.humeco.m.u-tokyo.ac.jp/bluesky.html]のような活動を地道にしていくことは意味があると思うが,それが世論を動かすほどの力をもちうるかどうかは,市民レベルの環境リテラシーの向上がどの程度達成されるかにかかっていると思う。
Correspondence to: minato@ypu.jp.
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