人類生態学の方法論と実践

このページは,2007年8月6日から8日まで,岡山大学環境理工学部において,「環境アナリシスII」として実施した集中講義の内容を紹介し,補足資料を提示する目的で設置する。


人類生態学のルーツ

人類生態学は,その名の通り,人類学と生態学という大きな2つのルーツをもつ。

人類学(anthropology)
ヒトを対象とした科学である。大きく2つに分かれる。
生態学(ecology)
ヘッケル(Ernest Haeckel, 1869)の造語で,「生物とその環境との相互作用の科学的研究」の意味で名づけた。Begon/Harper/Townsendの``Ecology: Individuals, Populations, and Communities. (2nd ed.)''(1990)では,「生物の分布と豊富さを決める相互作用の研究」という定義を,個体,個体群(同種の生物の集まり),群集(複数の個体群からなる)という3つの水準で扱うとしている。
人類生態学(human ecology)と生態人類学(ecological anthropology)
ほぼ共通のフレームで研究を行なうが,研究室が属する学部の差異により,中心となる研究手法が若干ずれている。
最近になって出てきた学問の中では,環境社会学や環境生態学とも,かなり重なっている。学会としては,生態人類学会や環境社会学会はあるが,人類生態学会は日本にはない。ただし,民族衛生学会の学会誌はThe Japanese Journal of Health and Human Ecologyであり,そのスコープに人類生態学を含んでいる。
日本で,人類生態学か生態人類学の研究が行なわれている(いた)大学
類似の名前の講座や大講座は増えてきたが,今回紹介するような意味での人類生態学を研究している研究室は数少ない。
人類生態学:東京大学医学部保健学科,杏林大学保健学部
生態人類学:東京大学理学部,京都大学理学部等

人類生態学とは?

人類の特殊性と生態系の見方

コンパートメント図の例

人類生態学の方法

実際,我々はどういう研究をしているか?
フィールドワークを行って,人口,文化,社会組織,行動,食事などを調べるのと同時に環境試料や生体試料を採取し,持ち帰って実験室で分析し(必要ならメカニズムを明らかにするために動物実験も追加し),それらの結果をもとに,そのヒトの集団の生存を包括的に明らかにすることを目標とする。
疫学との異同
*ヒトの生存に関わるさまざまな要因を探るという意味では,疫学の方法論と近い。
*しかし,注目する要因以外の要因はできるだけコントロールして,注目する要因と結果(死亡や疾病罹患)の間のできるだけピュアな因果関係を探ろうとする疫学的アプローチに対して,実際に生きている人間集団にかかわる要因なら何でも,できるだけ多くの要因を考え,物理化学的環境要因や生物学的環境要因も含め,その人間集団が環境適応しながら生きてきた歴史を包括的に理解することを目指す人類生態学とは,正反対のベクトルをもつ。
*疫学では,有機水銀が多く含まれている魚を大量に食べると中枢神経への毒性が発現するリスクが何倍になるかを明らかにすれば,魚の摂取量を減らすことで中枢神経への毒性を減らすことができると考えるが,人類生態学では,実際に魚の摂取量を減らした場合に同時に起こってくる諸影響(タンパク摂取量の減少,水揚げ高の減少による経済的不利益,魚食ができないことによる心理的不全感等々)をすべて考え,システムとしての予測を行なわねばならない。

人類生態学に関連する諸学

フィールドワークの進め方

調査対象集団を決める
地図を作る
↓測地学,空間情報学・GIS,航空写真や衛星画像の利用
環境情報を得る
↓水,空気,病気の媒介生物などのサンプリングと測定
ヒトを調べる
◆「手作りのセンサス」:家を一軒ずつ訪問して,全世帯員の名前,年齢,性別,親族関係などを聞き取る
◆生業を調べる:聞き取り,行動観察(スポットチェック,個人追跡)
◆家系図や婚姻規制の聞き取り:長期的な生存を調べるためには,過去の人口復元が不可欠
◆母親への既往出生児についての聞き取り
◆過去の死亡や転入・転出の聞き取り
◆死因はlocal knowledgeに照らしての死因と,西洋医学的な死因のどちらのフレームで語られているのか区別する必要がある。西洋医学的な死因は不明確な場合も多い。
◆尿検査や生体計測,血液検査などによる健康状態の検査
◆食物サンプルの分析による栄養調査
◆現地では分析が難しい検査項目は,サンプルを持ち帰って分析

地図の作り方

現地でなくてはできないことは,地図の上に載せるべきミクロな情報を取ることである。かつては地形図を買って,細かいところは自分で測地(三角測量あるいは万歩計とコンパスを使ったTurtle graphics(*)のような手法で)しなくてはならなかったが,現在ではGPS (global positioning system)で測位したり,Google Earthのようなオンラインサービスを使うと簡便である。

地図上に情報をまとめるにも,ArcInfoのようなGISソフトを使い,Landsatのような低解像度衛星画像やIconosのような高解像度衛星画像と組み合わせれば,地図が得られるばかりでなく,例えば畑の面積を知ることもソフト上でできる。

Turtle graphicsの方法(GPSが使えれば不要)

人口学の方法論

英語で人口学をあらわす言葉にはdemographyとpopulation studiesの2つがあり,それぞれ法則性の研究とメカニズムの研究に対応している。法則性の研究は形式人口学あるいは人口統計学とも呼ばれることがある。法則性を抜きにした純粋なメカニズムの研究というものはありえないので,population studiesは,集団を対象とした研究で,評価の軸としてヒトの数を用いるものすべてを指す包括的な概念である。

人口は,その集団の生存を評価するための最終的なアウトカムである。極論をいえば,環境にうまく適応できなければ,その集団の人口が減って絶滅してしまう(人口がゼロになってしまう)。ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』には,環境に適応できず滅んだ集団の事例がいくつも紹介されている。もちろん,うまく環境に適応していても人口は無限に増えるわけではない。各生態系には,環境収容力(土地の人口支持力=carrying capacity)という,その土地に居住できる人口の限界があって,そこに近づくと,(1)人口増加率が下がる,(2)外部に移住する,(3)カタストロフ的に急激な人口減少が起こる,などの仕組みで人口が調節される。

その意味で,ヒトの集団の人口及びその変化,増加や減少(出生や死亡による自然増減と移住による社会増減)の状況を調べることは,その集団の環境適応を知ることにつながる。

人口を数えることはセンサス(国勢調査),増減を知ることは人口動態統計によって得られる。適切な指標の設定が重要である。

人口学の諸指標(1)出生の指標

出生については,以下の指標がよく用いられるが,メディア等で最もよく用いられるのはTFRであろう。

人口学の諸指標(2)死亡の指標

死亡については,さまざまな数学モデルが提案されており,それを当てはめることも有効である。

人口学の諸指標(3)人口増加の指標

人口の自然増加数=出生数(B)ー死亡数(D)
人口の社会増加数=転入数(I)ー転出数(E)
人口学的基本方程式:人口増加数=B-D+I-E
人口増加率
初期人口N,x年後の人口N(x)とすると,1年間の人口増加率は{N(1)-N}/N,{N(2)-N(1)}/N(1)など。離散的に考えて,これらが定数rならば,N(x)=N*(1+r)^x。式変形して,rは,{N(x)/N}のx乗根から1を引いた値。
連続的に考えて,微分方程式で人口が現在人口に比例して増加する(比例定数がr)と考えれば,dN(x)/dx=rN(x)より,N(x)=N*exp(rx)。これは指数的増加のモデル。
人口増加率が一定ではないなら,別の微分方程式を考える。例えばロジスティック成長なら,環境収容力(土地の人口支持力)Kを考えて,Kに人口が近づくと増加率が落ちると考え,dN(x)/dx=rN(x){K-N(x)}というモデルが立てられる。生データにこれを当てはめてrやKを推定するには,Rという統計ソフトのnls関数を使えば簡単。

Rによるロジスティック成長のパラメータ推定

試験管で培養している酵母菌の量の経時的変化のデータが

時間02468101214161820
102070160380550580600620630635

であるとき,酵母菌自身が出す有毒物質が環境抵抗となってロジスティック成長していると考えられるので,それを当てはめてみる。

Rのプログラム

P <- data.frame(t=seq(0,20,by=2),N=c(10,20,70,160,380,550,580,600,620,630,635))
getInitial(N~SSlogis(t,K,tmid,r),data=P)
res <- nls(N~SSlogis(t,K,tmid,r),data=P)
summary(res)
tt <- seq(0,20,by=0.01)
plot(P)
lines(tt,predict(res,list(t=tt)))

出力

Formula: N ~ SSlogis(t, K, tmid, r)
Parameters:
      Estimate Std. Error t value Pr(>|t|)
K    622.08632    6.71535   92.64 2.06e-13 ***
tmid   7.36867    0.10317   71.43 1.64e-12 ***
r      1.44876    0.08862   16.35 1.97e-07 ***
---
Residual standard error: 13.71 on 8 degrees of freedom
Number of iterations to convergence: 0
Achieved convergence tolerance: 6.609e-06

余談:世界人口について

小集団人口学特有の問題と対処

人口学の主流は官庁統計の分析による政策立案や大規模な社会調査に基づく人口に影響する要因の研究であるため,小集団における研究が少ない

通常の人口学の分析においては,国勢調査等の各種官庁統計で,比較的信頼できるデータがあるが,途上国の小集団では,国勢調査人口もあまり信頼できないし,出生・死亡等の動態統計も不十分

村の人口を数えるだけでも難しい:頻繁に小移動すること,コミュニティの認知

聞き取りにはさまざまなバイアス(系統的な偏り)が生じやすい:調査者の意図を正しく伝えるような聞き方の難しさ,記憶の曖昧さ,概念を正しく聞き取ることの困難

適切な調査方法

栄養学の方法論

栄養学の一部としての食餌療法(dietetics)は,ヒポクラテスが自分の患者に,どういうものを食べるべきでどういうものを食べない方がよいのかをアドヴァイスしていたことから考えてもかなり古くからあるが,科学としての栄養学の創始者はラボアジェ(18世紀末の天才化学者として有名)であるといわれている。

ヒトは従属栄養生物なので,環境から食物を得て摂取し,そこからエネルギーと他の栄養素を吸収(消化,異化,同化)し,不要なものや老廃物を体外に棄てなくては生存できない。

個人レベルでも,身体活動や体格から,生命活動を維持するために必要なエネルギーやタンパク質,脂質,ビタミン,ミネラルなどは計算できるし,食事調査(これにも24時間思い出し法や陰膳方式での秤量法や摂取頻度の質問紙調査など,いろいろ提案されている)をすれば,摂取する栄養素がそれに見合っているかも評価できる。摂取と消費のバランスがとれているかどうかという「栄養状態の評価」は血液や尿の検査からも可能。

集団レベルで考えると,食物として得られるエネルギー量(狩猟・採集も含むし,調理損失や残飯として廃棄されるものも含む)と生産活動や生命活動の維持に必要なエネルギー消費量を計量して,そのバランスを考えれば,集団として栄養バランスがとれているか評価できる。生産量をinput,エネルギー消費量をoutputとして比較する方法をinput-output analysisという。スクリーニングにより栄養状態に問題がある人の割合を求めたり,栄養状態に影響する他の要因(遺伝,物理化学的環境,生物的環境,ライフスタイルなど)を調べることも重要。

栄養素

化学形態を無視すれば,「食品に含まれる,生存に必要な元素」という観点で栄養素を区分することもできる。ヒトも生物であるから,自身の体構成成分は必要である。従って,炭素,水素,酸素,窒素,硫黄,リン,塩素,カリウム,ナトリウム,カルシウム,マグネシウム,鉄あたりは必須元素である。これらは比較的多量に存在するので常量元素と呼ばれる。初めの6個の元素は有機化合物の主構成元素である。一方,微量ではあるがそれがないと生存できない元素もまた存在する。硼素,フッ素,珪素,ヴァナジウム,クロム,モリブデン,コバルト,ニッケル,銅,砒素,セレン,マンガン,スズ,ヨウ素,亜鉛の15元素がそれで,必須微量元素(essential trace element)と呼ばれる。

血液,尿,毛髪,爪などの生体試料を分析して栄養素を定量することを生物モニタリング(bio-monitoring)と呼ぶ。食品サンプルの分析により食物中の栄養素を定量することもあるが,食品成分表も使える。

栄養状態の評価法

三大栄養素について
NHANESなど,性・年齢別の大規模健診結果に基づいて,標準的な身長・体重の成長パタンを求め,それに比べて数値が低ければ低栄養と判断する。とくに,身長だけが低い(stunted)な場合は,長期的な低栄養,体重だけが低い(wasted)な場合は短期的な低栄養,身長も体重も低い場合は,protein-energy-malnutritionであると考える。体重については数値が極端に高くてもエネルギーや脂質の摂取が過剰であり栄養状態が良くないと判定される。身長と体重のバランスをみるためには,一般に体重(kg)を身長(m)の2乗で割った値であるBMIが用いられ,日本ではBMI18.5未満は痩せ過ぎ,25以上は肥満とみなされる(日本肥満学会やWHOの基準)が,BMIが低くても体脂肪割合が高かったり,その逆もありうるので,BMIを絶対視すべきではない(詳しくは肥満 (obesity)を参照されたい)。また,遺伝的な差異を無視した考え方になると問題で,米国の標準を途上国の山奥などで適用した論文があるけれども正しくない
食品のエネルギーの分析は燃やして測る。CNコーダという機械を使うと炭素と窒素の含有量が測れる。タンパク質や脂質については高速液体クロマトグラフィーも使われるが,総量を量るための公定法がある。しかし,一般にこれらは大量に存在するのでばらつきが大きくないと考え,食品成分表の値を信用して使う(ただし,できるだけ現地の食品成分表を用いる)。
微量元素について
一般に欠乏も過剰も問題。地域ごとに含有量が異なる。
測定は元素そのものならICP-MASSでOK。化学形態まで考えるとHPLCやガスクロと組み合わせることも必要。

環境の評価法

物理化学的環境の測定
●水:さまざまな水質検査法
COD, BOD,硬度,アンモニウムイオン,塩化物イオン,残留塩素(上水の場合)など
●空気:浮遊粒子状物質と重金属は,ローボリュームエアーサンプラーやハイボリュームエアーサンプラーで流速がわかっているポンプを一定時間使ってろ紙やグラスファイバーフィルターに吸着させ,抽出して分析。
浮遊粒子状物質,とくにSPM10とかSPM2.5とか,粒径が重要,重金属,NOx,SOx,オゾンなど
●気流,気温
●騒音,振動など:それぞれ専用機器がある
ヒトにとっての環境
環境アセスメントでは,CVM,CRAなども重要

人間=環境系の統合モデル

中澤 港「開発と環境保全の相互連関性ーマルチエージェント・モデルによる分析」,In:大塚柳太郎,篠原徹,松井健(編)『島の生活世界と開発(4) 生活世界からみる新たな人間―環境系』 東京大学出版会,東京,pp.137-157.を参照。

対象集団について,人口学,栄養学,環境科学などを含め,あらゆる角度からアプローチし,その集団がいかに環境を利用し,影響を与えられてきたかについて情報を得た後で「包括的に理解する」ために


実践編

パプアニューギニア低地に居住するギデラの研究

ソロモン諸島ガダルカナル島東タシンボコ区でのテンション前の研究

ソロモン諸島西部州における未来開拓研究

ソロモン諸島ガダルカナル州東タシンボコ区でのテンション後の研究


「人類生態学」へ戻る | リンクと引用について | トップへ