神戸大学 | 医学部保健学科・大学院保健学研究科 | SDHE Lab. | フィールド紀行 | Top
Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2012. Last Update on 2012年9月28日 (金) at 19:22:35.
伊丹発のJALは結局予定より30分ほど遅く成田に着いた。ローソンで月末のバスチケットを発券してもらうために第1ターミナルに行ったり(明示されていないが,無料の連絡バスがあっておよそ7分間隔で走っている),ついでに理髪店を見つけたので散髪したりと時間を潰したので,18:30のチェックイン開始ちょうどに第2ターミナルKカウンタに着き,無事に北大の山内さんと合流した。今年は荷物がそれほど多くないのでスムーズにチェックインできたのは幸先がいい。
明日の早朝ポートモレスビーに着いたら,ダルー行きの国内線に乗り継ぐのだが,そこの待ち時間も相当に長いので,そこで某査読でもするか。
ポートモレスビー着は予定より若干遅れたが,時間はたっぷりあるので問題ない。on arrivalのビザ発行も割とスムーズに進んだ。驚いたことに我々以外にもon arrivalのビザ発行でPNGに入国しようとしている日本人グループがあって,しかも女性が何人も入っていた。治安が良くなってきているのかもしれない。我々は既に若干のキナ(現地通貨,以下K)をもってきていたので問題なかったが,このビザ発行には100Kかかるので,無い人は50メートルほど戻ってATMからKを引き出さねばならない。前に並んでいる人たちのいくつかがそうだったので,やや無駄に長く待たされた感がある。
入国手続きが終わってATMで現金を引き出し(ぼくはCITIカードを使った。山内さんは隣の両替所で日本円と米ドルをKに替えた。日本円でKを買うときのレートは1Kが約40円と,Kが強くなっているように思った),国際線から外に出るゲートの近くでMobile phoneの店が開くのを待っていたが,日曜のせいか,いつまで待っても店の人が来ない。仕方ないので10時過ぎに国内線の方に移動したところ,既にDigicelの店はオープンしていたので,無事に携帯電話(Nokia Jazz 303)を299Kで買うことができた。TopUpも50K分しておいたので,今回の旅の間の通話には十分だろう。
荷物を預け,ボーディングパスをもらってから,出発客の待合室に入るゲートのところでストップがかかった。機内持ち込みの手荷物が5 kg未満でなくてはいけないというのだ。Excessを払うのでもダメで減らさなくてはいけないなどというので焦ったが,途中から金を出せば通してやるなどと言い始め,なんだかタカリっぽい気がしてきた。山内さんが交渉し,結局一人5Kを払うことで話がついたが,交渉慣れしていない普通の旅行者だったら言い値(50Kとか言っていた気がする)で払ってしまうんだろうなあ。
待合室にはコーヒーを6Kで飲ませる店があった。ちゃんと挽いた豆を使って,エスプレッソマシンのようなもので圧をかけて抽出するのだ。とても美味だった。
ボーディング時刻が若干遅れ,ダルー着も若干遅くなったが,ホテルのバスが迎えに来ていて,スムーズにチェックインできた。荷物を置いて,トイレットペーパーなどの買い物をしてから病院にA医師を訪ねようと思ったが,買い物に行く途中,以前からの知人で調査許可に受け入れ側の代表としてサインをしてくれるというB氏に偶然出会い,少し話しているうちに雨が降ってきたので,買い物だけして,病院は明日行くことにしてホテルに戻った。
晩飯はバラマンディーのフライとエビのフライを山内さんとシェアした。付け合わせは煮野菜とフライドポテトで,そこそこ美味であった。
晩飯後,部屋の水が出ないので(昼間,他の客が使いすぎたために棟全体のタンクが空になってしまったという話),シャワーも使えず,仕方ないので新規購入した携帯電話Nokia Jazz 303のメールやインターネットの設定をした。本体をネットワーク接続するとかブラウザでwebサイトを見るとかいったことに成功したのに気をよくして,303はUSBのmicroB端子があるのでvaio-saにUSB接続してみた。先に去年ダウンロードしておいたNokia Ovi Suiteをインストールしてから303をつないだら,まったく何の問題もなく認識され,インターネット接続も480 Kで接続されたかのような表示が出るのだが,どうしてもvaioから303を介したインターネット接続はタイムアウトしてしまう。惜しいところまでいっているような気がするので何度もtrial and errorをしたのだが,結局ダメだった。USB接続すると充電してくれるので,そこはいいのだが。もう一つ問題があり,Nokiaがサービスとして提供しているovi.comのアカウントが認識されないし新規登録もできないので,何度も試した末に諦めて眠った。
朝食中,B氏がホテルに来てくれたので,村に行く移動路のアレンジについて相談した。ディンギーと車で行くとすると,ディンギーが1人40 Kとのこと。それならリーズナブルなので探してくれるように頼んで(ただし,先発隊が既にIN氏に頼んであるといけないので断りを入れようと電話したら留守電サービスに繋がったので,後でかけ直すことにして)から病院へ向かった。病院の前にはオーストラリアの援助で結核病棟を更新中であるという看板が立っていた。後で聞いた話では,去年から結核対策援助が本格化して,かなりの補助金が投資されているらしい。
残念なことに去年会ってからいろいろコンタクトをとってきたAL医師がポートモレスビー出張(今日の午後帰ってくる予定とのこと)中で,旧知の看護師LIさんは体調を崩してポートモレスビーの病院に行ったとのことであった。LIさんは自分より年上なので心配だ。AL医師の代わりに我々への対応をしてくれたのはHuman Resource係官のN氏であり,とても親切に対応してくれた。と,IN氏が着信記録から電話をかけてくてくれた。現在道が非常に悪いので,ディンギーと車というよりも飛行機の利用を薦める。ちょうど今日11:00にDaruからWipimに飛ぶ飛行機があるから2人分予約するがどうか,という。値段はディンギーよりはやや高いが,払えないほどではない。わかった,こちらで相談してからかけ直すから,と言っていったん電話を切り,AL医師に渡したい書類をR氏に託して,とりあえず買い物と荷造りを済ませてホテルをチェックアウトすることにした。B氏に再びコンタクトすると,B氏も道路の状態が悪いという情報を掴んで,飛行機をアレンジしてくれるという。ただしこちらは明日の便だという(後でわかったが,火曜から木曜はレギュラーフライトがあるが,月曜は不定期らしい)。ここでIN氏の息子であるJr.IN氏が,父親から言いつかったといって我々のエスコートをしてくれることになった。ともかく,両方の可能性を試して早く村に行けるようにしようと,いったんホテルをチェックアウトして,ホテルの車で買い物の残りをすませてから空港に向かうことにしたのだが,途中で飛行機会社(MAFという)のエージェントと会って確認できたのは,今日の便が満席だということだった。なんだか疲れてしまったのだが,ともかくもう一泊ホテル住まいになってしまった。この程度の「予定は未定」は,フィールドワークでは良くあることなので仕方ない。
ホテルに戻って,ビスケットと紅茶という,某所で朝食として流行したことがあるようなメニューの昼食を食べてから,Nokia 303本体でインターネットに接続し,gmail.comのアカウントを作った。予め303内部に設定があり,簡単にできた。これで日本ともメールのやりとりができるわけだ。Nokia Jazz 303では英語しか打てないが,日本語表示はある程度できるので,返事が日本語でもたぶん大丈夫だ。
しかし,村に入っている先発隊からの返事が来ない。そのため,明日からの計画の細部を詰められないのだが,仕方が無いか。晩飯にフィッシュフィンガーとチキンを頼み,某学会仕事をしていたが,いつの間にか眠っていて,ふと気づいたら晩飯近い時間であった。
食堂に行って暫く待つと,できたての料理が運ばれてきた。フィッシュフィンガーというのは,指くらいの大きさに白身魚(たぶんバラマンディーではない。この3年くらい急速に分布を広げているという外来魚であるティラピアか?)を切り分けて衣を付けてフリッター風に揚げたもので,チキンは骨付きのままぶつ切りにして煮込んであんかけにしたものであったが,チキンに小骨が多くて食べにくかったものの,そこそこ美味であった。と,B氏から電話があり,奥さんがマーケットで魚を買ったので,これから持っていくという。暫くするとB氏が奥さんと小学生の娘さんを連れて現れ,暫し歓談した。魚はアジのような小魚を素朴に塩焼きにしたものだったが,新鮮で美味しかった。食べている途中,AL医師から山内さんに電話が入り,Daruに着くのは明日になるというので,N氏に書類を託したことと,我々が再びDaruに帰ってくるのは19日頃になることを告げ,そのとき会うことを約束した。あとは,どこまで調査準備を進めるかだな。
朝食を食べてから部屋にいたらJr.IN氏が来てくれて,MAFのエージェントから連絡はあったかというので,無いというと,MAFのエージェントに連絡してくれた。エージェントが9:30に飛行機の時刻を教えてくれるというので待っていたが,9:40になっても連絡が来ないので不安になってきていたところ,再びJr.IN氏が来てエージェントに連絡してくれた。結果,10:00に飛行機が出るのですぐにチェックアウトして飛行場に行けと言われたので,慌てて荷造りをしてホテルをチェックアウトし,ホテルの車で飛行場まで連れて行ってもらった。ソロモン諸島の某ホテルと違って,送迎がすべて無料なのがこのホテルの利点だと思う。
飛行場でもエージェントがまだいないし,MAFという会社はチェックインカウンターが無くてパイロットに直接料金を払って乗せてもらう形なので,途方に暮れかけたが,再びJr.IN氏がエージェントを探してくれて事なきを得た。実は荷物が重すぎて,既に乗り込んでいた地元の人たちの荷物の一部を外に出して別送するということをしないと,我々の荷物が載りきらなかったとか,それでもコパイロット席まで使って5人乗りのセスナ機なので,コパイロット席に座ってとてもいい眺めだったとか,いろいろあったが,何とか無事にカパール村の飛行場に到着したのは11:20頃だった。
1997年以来だから15年ぶりに会う村人たちと感動の再会を果たしながら村の中央部に歩いて行き,15年前はまだ少年だったB君が建てたという家に落ち着いた。残念ながら,B君の父で,以前は村の長老だったI氏は既に亡くなっていたが,お母さんとお姉さんは健在で同居しており,他に2人の若者が同居していたが,我々のために1部屋空けてくれるくらいに大きな家であった。前の村長(現地ではカウンシラーと呼ばれる)が非常に有能な人で,残念ながら40歳代の若さで夭逝してしまったのだが,どこからか援助を引っ張ってきて,村中の家がトタン屋根になっていたのには驚いた。トタン屋根だと熱がこもるので熱帯にはあまり向かない気もするが,雨水をためるのに使えるのと,草葺きに比べて長持ちするので好まれるようだ。
子供が非常に多く,しかも高齢の人たちが15年前とあまり変わらない様子だったので,人口がかなり増えている印象を受けた。聞くと400人というので,もしそれが本当なら15年間で倍増に近いことになるが,たぶんそこまでは増えていないだろう。
まだ熱帯の気候に慣れていないためか,何もしていないのに妙に疲れているが,まずは先発隊と連絡をつけなくては今後の予定が立たない。どうしようかと山内さんと話しながら,元長老I氏の墓参りに向かっている途中,山内さんの携帯電話(Nokia E71にポートモレスビーで買ったDigicelのSIMを挿したもの)に先発隊萩原さんからの電話が入った。カパール村内部ではアンテナが立たないのだが,開けた場所に出ると電波が通じるようだ。凄いタイミングの良さだ。電話の内容は,これから歩いてカパールに向かうというものであった。先発隊はカパールよりさらに奥のルアルという村に2週間いたため,バッテリーが切れかかっていて,あまり連絡もできなかったそうだ。
墓参りを済ませて村に帰ってきたら疲れたので,B君の家に蚊帳を張って,夕方までその中で休んでいた。すると17:00頃に戸外が騒がしくなった。先発隊がルアルから到着したのだった。先発隊は翌日の飛行機でウィピムという村からダルーに戻ることになっていたが,車のアレンジを頼んだIN氏と連絡がとれていないので,ぼくらの電話を借りて連絡をとったり,情報交換をするために,カパールまで来たということであった。実はぼくらが来るときに乗ってきた飛行機は,カパールの前にウィピムにもいったん着陸して何人かの乗客を降ろしたので,そこで少しMAFのエージェントと話してきたのだが,どうもIN氏が日程を1日勘違いしているようで,IN氏はまだウィピムに不在で明日来るとのことだったし,エージェントが次の飛行機は金曜だと言っていたので,どうも話が違う。そのことを先発隊の2人に伝え,ぼくのNokia Jazz 303を貸して見晴らしのいい場所に行ってIN氏に連絡をとってもらうことにした。
連絡が取れた結果は最悪で,もしかしたら飛行機がカパールに来る可能性はあるものの,ルアルからウィピムに荷物を運ぶ車が手配できないということであった。そこでカパール村のエージェントに話して,明日カパールからダルーに行ける飛行機が手配できないか交渉して貰うことにした。望み薄とのことだが,それでダメなら,カパールからカヌーとディンギーを乗り継いで行くしかない。それもチャーターになるので,かなり高くつく。一縷の望みを託す先発隊の表情には悲壮感が漂っていた。
ルアルから先発隊2人と一緒に来てくれた村人が,夜のうちにルアルに戻って,早朝に若者を連れて先発隊の荷物をカパールまで運んでくれるというので,先発隊2人は明日までカパールで待てばいいことになったのは,唯一の救いであった。
現地語でグゾサナと呼ばれる,サゴヤシデンプンとココナツの白い部分を削ったものを混ぜて椰子の葉にくるんで焼いたものと,ヤムイモを焼いたもの,それにインスタントコーヒーという朝食の後,先発隊も来ていることだし,日本人調査隊4人とカウンシラーとコミッティ(村会議員のようなものか? 2人いて選挙で選ばれる)を含む村人たちとディスカッションとなった。目的は,40年にわたって調査対象となっている地域なので,我々調査チームは村に対してどういう貢献ができるのかということであった。もちろん学術調査隊なので,直接的な金銭的貢献はできないことをまず理解してもらった上で,我々にできることは,この地域の村人の生活と健康についてのfactを明らかにし,そのfactに基づいたsustainable developmentのプロジェクトを村人が作って州政府,PNG政府と上げていって,PNG政府から日本政府に依頼があればJICAなりなんなりがプロジェクト支援をするというルートはあるので,この地域のプロジェクトが採用されるように働きかける推薦状を書くことくらいだということを説明した。村人たちもそれで喜んでくれたので良かった。ついでに,村人が集まっているいい機会なので,山内さんとぼくの滞在目的である人口のフォローアップ調査と生体計測についても説明し,了承して貰った。
午前中は先発隊の帰り方を模索するので終わってしまったが,飛行場の近くの家の軒下で待っている間に推薦状の文面を考えたので,時間はそれなりに有効に使えたと思う。
しかし先発隊は大変な思いをしたらしい。結局飛行機は来ず,カヌーで途中まで行って,エンジン付きのディンギーが使えるフライ河に出たら(タピラかレワダのどちらかのステーションまで辿り着けばディンギーがたくさんあるそうだ)乗り換えてダルーを目指すことになった。翌朝10:00にダルーを発つ飛行機に乗るには,それしか方法がないのだった。しかし,その日のうちにはタピラにもレワダにも辿り着けず,野宿に近い状態で夜明かしせざるを得なかったりで,結局ダルー発ポートモレスビー行きの飛行機に間に合わず,翌日の別の会社(Airlines PNG)の飛行機でポートモレスビーに出るしかなかったそうだ。その顛末は,どこかに先発隊のどちらかが書くらしい。ちなみにタピラやレワダは伐採会社が木材を出荷するため開発されていて,大きな埠頭があるそうだ。
午後はコミッティの1人S氏や暇にしている若者たちに案内して貰って村内の地図を作った。地図と言っても正確な測量をしているわけでは無く,世帯を見落とさないように,家屋建物のだいたいの位置関係がわかるようなスケッチをして番号と世帯主名を振っていくだけだが,これがなくては人口調査はできないという意味で,とても重要なものだ。スケッチマップ作りが完成したら夕方になっていて,とても疲れた。晩飯までのわずかな時間に昼間考えた文面を打ち,印刷してサインまでしたので,推薦状に関しては,後は頃合いと状況を見てカウンシラーとコミッティに渡すだけだ。
というわけで疲れ果てたこの夜は,晩飯の後は村人たちと少し喋って眠った。
ヤムイモとグゾサナとインスタントコーヒーという定番朝食の後,家主のB君を初めとするヤングボーイズ(独身の場合は現地の言葉でケワルブガという。既婚だとルガジョグと呼ばれ,一人前と見なされるが,現在では幼なじみの集団という感じで,あまり独身既婚の区別無く遊び仲間になっているようだ)に立って,村はずれの家から順番に戸別訪問を開始した。
今回は独立記念日のため広場に行って準備をしている人が多く,あまり効率は良くないが仕方ない。調査目的が事前にカウンシラーやコミッティから周知されていることもあり,概ねどの家でも気持ちよく協力してくれる。その家に住んでいる全員の名前と関係と誕生日,外に出ている家族がいればどこにいて何をしているかを聞き取り,その場にいる人の生体計測をし,最後に集合写真を撮って,翌日写真をプリントしたものを進呈するという手順なのだが,ここの人たちは自分の写真を手にできる機会が稀なので,誰もが写真を撮ってほしがる。こういう状況はソロモン諸島でも同じだが,調査結果が間接的に村に益することよりも,自分たちの記念写真が手に入るという直接利益の方が,村の人たちにはピンとくるようだ。もっとも,後で知ったことだが,デジカメで撮った写真をプリントする機械はダルーのスーパー(経営者はマレーシアか中国が知らないが,アジア系の人)にもあったし,ポートモレスビーの大型ショッピングモールでも大人気だったので,そのうちもっと普及して,写真のありがたみは薄れるかもしれない。
この日は炎天下を歩き回って105人まで生体計測をした。世帯調査の方は7割方終わった感じであった。1人でも家にいたら,家族の情報を聞き取ってから測定し,広場に行っているとか畑に行っているという家族は後日測定だけしようという作戦。これだと後の方ほど落ち穂拾いの効率が落ちていくが,まあ仕方なかろう。
晩飯は,我々が食糧負担をかけないため+αで持ち込んだ米とラーメンとコンビーフと,バナナと魚の煮物であった。1人で長期間入るときは購入食品は持ち込まないのだが,今回は短期間で2人いて,かつ独立記念日準備のために村人が十分な食物獲得活動ができない時期であることを考え(+先発隊のやり方を踏襲して),エクセスを払ってまでもダルーから買ってきたのだ。ぼくの趣味としてはイモとグゾサナとバナナと魚と野生動物の肉という食生活は,葉野菜がないという問題を除けば悪くないと思うが,ラーメンの旨みと塩味が麻薬的なのも否定できない。なお,葉野菜がないのは,後で知ったところでは全般的に今年は少ないらしいのだけれども,他の家ではアイビカなどを入手していたようだから,この家特有の問題であったらしい。
独立記念日の2日前だから,もうほとんど家に残っている人などいないと家主B君が言うので,この日から広場に出かけて,出店を出している人たちの間を廻って調査を継続することになった。多くの村人が簡単な出店を出していて,ココナツとかバナナとか自宅で調理したものとかを売っているのだ。
しかし広場に行ってみると,右写真のように,まだ閑散とした感じで,とても村人が全部集まっているという感じではなかった。まだ畑や森に行って収穫中とか,水くみに行っているとか,準備段階だということだろうと思われた。
それでも確かに広場で待っていると次々に村人が現れて調査を続けることができ,全部で62人の生体計測ができた。ここでの最大の問題は,体重計を安定して設置できる固い地面が少ないということであった。この問題は途中から堅い板を持ち歩き,体重計を板の上に載せることで解決したが,最初のうちは毎日のように雨が降っていたこともあって地面が柔らかいところが多く,大問題であった。それでも,設置する度にB君が載って自分の体重が正しく量れているかをチェックしてくれてからの測定という点を徹底したので,測定結果は信頼できる。
この日はMAFの飛行機が来るというので,チケットを買うのと同時に帰りの便をパイロットに直接頼んでおこうという計画もあった。昼頃に飛行機の音らしいものが聞こえ,村人の一部が飛行機が来たと言って走り出したので,一緒に走って飛行場まで行ったのだが,これはガセネタ(パプアニューギニアの共通語であるピジン語ではギヤマンという)であった。結局ココナツ1つで喉の渇きと飢えを抑えつつ,2時間近く飛行場の近くの家の軒下で待ち,遂に飛行機が現れたときは踊り出したいほど嬉しかった。パイロットとの交渉もまあうまくいき,もし19日水曜に来られない場合は火曜でも月曜でもいいので乗せてくれるように念を押した。カパールからダルーまでの飛行機代は片道240Kで,日本円だと約1万円もする。せいぜい20分しか乗っていないので割高な気がする(ダルーからポートモレスビーまで,エアニウギニのダッシュ8に1時間乗るのと,あまり値段が変わらない)けれども,他のルートだと最低でも半日かかるので,仕方ないところか。夕方の水浴びは15年前と同じ小川が淵になっている場所で,濁った水なのだが一応流れているので,それなりに冷たくて気持ち良かった。
帰ってきてから,これまで2日間の家族写真を印刷した。明日からはこれを配り,集客効果を上げる。
この辺りになると,見落としがないように,未測定者のリストを作る必要がある。朝一番でその作業をして,朝食後にそのリスト順に調査を開始した。わざと後回しにしてきた(いつでもできるから)B君の家の近所の人の他には,カウンシラーの家やエイドポストオーダリーの家など重要人物が多忙であるが故にできなかったところを廻ってからは,広場で落ち穂拾いのようにリストの人が見つかる都度聞き取りと測定をするという手順になった。昼過ぎまでやって33人。
夕方から学童の伝統的なダンスがあるから写真を撮れというので,午後3時頃には水浴びに行ってきた。学童のダンスは衣装や音楽も含めてなかなかのものだった。ダンスを見た後は写真印刷と晩飯。
独立記念日本番だし,日曜なので,この日は調査は諦めていたが,6:30に起床し,7:30に朝食まではとくに変わったことはなかった。9:00頃から村から(飛行場からという話だったが,実際には村の中央部辺りから)広場まで,村人総出(といっても出ない人もちらほらいるのだが)で行進があった。
日曜なのでECP(パプア福音伝道教会)の信者が大多数を占めるこの村では教会の礼拝がある日でもあり,独立記念日なのに広場でも牧師の説教が長々と続き,やや盛り上がらない独立記念日になったかもしれない。その後演説したカウンシラーも,独立記念日が日曜になったのは申し訳ないが自分のせいじゃないなどと言っていた。
昼はいったんB君の家に戻って昼食。午後は広場に行って,Nokia Jazz 303を開いてGmailを打ったり(英語しか打てないが日本語が読めるのに驚いた。通信速度はきわめて遅いし,つながらないことも多いが),ココナツの皮むき競争とか,村人がいろいろなゲームを楽しんでいるのを眺めつつ,B君に写真を配ってもらった。
未測定の人たちが写真目当てもあるのか,自らやってきてくれたので,測定可能と思われる人はほぼ全員の聞き取りと生体計測をすることができた。この日から乾季に入ったとB君がいうのだが,とても天気のいい1日だった。
夜,カウンシラーとコミッティに推薦状を渡したら,大変喜んでくれた。晩飯の後はいろいろ喋ってから就寝したので,いつもより夜更かしであった。
朝食後に数名の測定をしてから集団猟に出た。乾季なので草原と灌木に火を付けて動物を追い立て,待ち伏せして弓矢で射るのである。ワラビーが飛び出してきてB君が弓矢で射たのだが逃してしまい,残念そうだった。気づくのが遅かったということだが,たぶん元気なワラビーには滅多に当たらないのだと思う。
夜は独立記念日の後夜祭なのか,村人みんなが広場に料理を持ち寄り,ビニールシートをしいて会食。我々2人はコミッティの1人から前の方に座るように招待されたので少々注目を浴びてこそばゆい。しかし会食の前に牧師の感情たっぷりの説教が長々とあったのには参った。たぶん内心では村人の多くも辟易していたのではないかと思うし,子供たちは関心を失って騒ぎ始めていたけれども,表面的には恙なく説教は終わった。その後,村人代表が何か現地語(英語でもピジン語でもなく,彼らの言葉。彼らはウィッピー語と称している)で何か演説。中で我々2人の滞在に触れ,独立記念日への寄付への謝意を語ってくれていたようだ。我々は,まあ些少だが先発隊と同額の寄付をしていたのだ。先発隊の2人については,もう帰国してしまったからか触れられたかどうかわからなかったが,我々については意外に長く語ってくれていた。その後は会食となり,B君のお姉さんがコップを持ってきてくれたので,予め湯を沸かして魔法瓶水筒に入れてきたものを使ってインスタントコーヒーを入れることができた。料理についてはB君のお姉さんとお母さんのは緑色の野菜が入っていなかったが,コミッティの奥さんが用意した鍋にはアイビカがたくさん入っていて,久々に葉っぱものを食べることができた。もし彼らの食生活が我々の滞在中とずっと変わらないとしたら,WHO/FAOの推奨から考えたら野菜を摂らなすぎなのでまずいと思うが,自然に依存して生きている人たちなので,たぶん葉っぱものがたくさん摂れる季節もあるだろうし,もう少し長期的にみないと何ともいえない。
後夜祭はいつ終わるともしれず続いていたが,この日に測定した人の写真を印刷しなくてはいけないからと説明し,我々は途中でB君の家に戻った。夜眠る前に,いつもつけている万歩計をみたら17,800歩ほど歩いていた。
もうダルーに帰るだけにしようと思っていたが,朝食後に未測定の人が3人ほど測ってくれと言ってきたので測定した。ただ,もうプリンタを取り出したくなかったので,写真は日本から送ることにした。
パイロットとの約束があるので,確実に飛行機は来るはずだが,問題はいつ来るのかがわからないことだった。カパール村のMAFエージェントのI氏に聞いてもわからないという。本部に電話をして確かめるから電話代をくれというので,カードを買う金を出す代わりに,ぼくのNokia Jazz 303に入れたSIMの番号から,彼の番号へ3Kをトップアップしてあげることにした。B君がやり方を知っていて,簡単にできた。
ともあれ,飛行機に乗り遅れることだけは絶対に避けたいので,10:00くらいから空港近くの家で飛行機が来るのを待っていたのだが,一向に現れる気配はない。11:00,12:00と時が過ぎ,その間にブユに食われたのは痛かった。空腹と喉の渇きを癒やすため,ココナツを割って貰ってココナツジュースを飲んだりもしたが,結局飛行機が着いたのは14:00過ぎだった。しかも,降りてきたパイロットが済まなそうな顔をして,本部と連絡が付かないので,これから本部に直帰しなくてはいけないので,ダルー行きは明日の早朝ではどうかなんてことを言うのだ。
一瞬の絶望に囚われつつも,ここが踏ん張りどころである。我々2人は,口々に,明日のダルーからモレスビー行きのAir Niuginiは朝早い便だし,何よりも我々は今日ダルー病院で人と会う約束をしているから,絶対に今日ダルーに行かなくてはならないのだ。キャプテン,あなただって先週はOKと言ったじゃないか,と強く主張した。先発隊の悲劇を見ているだけに,絶対にこの飛行機を逃がしてはいけない。5分くらい粘っただろうか,パイロットが根負けして,わかった,とりあえずもう一度本部との連絡が取れないかやってみるよと言ってくれて,漸く光明がみえた。それでも,2つめの周波数で漸く連絡が付いて,ダルー廻りで本部に帰ることの許可が出るまで気が気では無かった。
ダルーではホテルに連絡していなかったので,当たり前だが迎えが来ていないのだった。これからホテルに電話しようかと思っていたところ,空港に軽トラのような車で来ていた親切な人が,OK無料で送ってあげると言ってくれ,まあ空港の係官も大丈夫そうな顔をしているので,この人の申し出に甘えることにした。結果,この人は本当に親切な人だったのだが,車がオンボロというか,悪路にさしかかる度にエンストを起こすので困った。
漸くホテルにチェックインし,冷たいソフトドリンク(たしかオレンジマンゴーソーダだったように思う)を飲んで一息ついてから,すぐに病院に向かった。往路N氏に頼んだ伝言と書類がまだAL医師に渡っていなかったことには愕然としたが,代わりにSP医師を紹介してくれ,彼から必要な情報を得ることができて助かった。旧知の看護師Lさんはまだモレスビーから帰ってきていなかったが,彼女の家を訪ねて,どうやら膝の調子が悪いので検査入院らしいということがわかった。
昼飯はスーパーで買ったビスケットで済ませた。スーパーではカップ麺も買ってしまったのだが,それは食べきれなかったので,ポートモレスビーまで持っていくことにした。
夜はSP医師だけが来てくれたら良かったのだが,N氏ともう一人正体不明な男性がホテルに食事に来たので3人分払ってあげることになってしまった。とはいえ,SP医師は役に立ちそうな資料をCDに焼いて持ってきてくれたし,食事中に相談しながらvaio-saでMOUを打ち,SP医師と契約を取り交わすことができたのはラッキーだった。これで懸案がすべて解決した。
朝食後,8:00にチェックアウトして空港に向かった。去年同様,B氏が見送りに来てくれたし,昨日会えなかったLさんの夫でカパール村の小学校長でもあるNM氏も会いに来てくれた。カパール村の小学校の先生の1人であるB君の兄I氏も同じ飛行機でモレスビーに行くというのは何とも奇遇であった。そのおかげもあって,モレスビーの空港でLさんとも会うことができ,糖尿病により足の調子が悪くて検査入院したが,検査結果によれば問題なかったということで,一安心した。
レインツリーロッジの運転手J氏の連絡先をショートメールで旅行代理店の方から聞いておいたのだが,J氏はちゃんと空港まで迎えに来て待っていてくれた。ホテルにチェックインしてから,JICAオフィスに電話をしてIさんを呼んで貰おうと考えたが,ちょうど休暇で日本に帰っているという。JICAオフィスに行く理由が無くなってしまい,B氏にサインをして貰うべき書類も郵便局に届いていなかったということでサインも貰えなかったためにNRIに行く理由もなくなってしまったので,ポートモレスビーでデータ入力を済ませてしまうことにした。
昼飯は予定通りダルーから持ってきたカップ麺で済ませ,データ入力にすぐに取りかかるべきところだったのだが,疲れていたのと,ネット接続を試したりもしていたので,晩飯前には100人分しか入力できなかった。
クラブサンドとピザを山内さんとシェアするという方法でそこそこ美味な晩飯を食べてから部屋に戻り,天使大学のS先生から頂いてきたというコーヒーを飲みつつ,データ入力を開始した。山内さんが読み上げ,ぼくが入力するのだが,移動疲れか,机が無くて膝の上でやっているのが悪いのか,妙に肩が凝って疲れることこの上ない。それでも気力を振り絞って200人目までのデータを入力してから眠りに就いた。
今回のホテルの宿泊には米国風の朝食が付いていて,そこそこ美味であった。村で野菜をあまり食べられなかったので,とくに焼きトマトが最高であった。食後はまずデータ入力を完了し,暫くしてからホテルの車でATMとDigicelの店に連れて行って貰うことにした。料金は運転手のJ氏に直接交渉して往復50キナと決まったが,支払いはホテルのカウンターにするというシステムが面白い。当初Townに行く予定だったが,J氏によると,それだけの用ならWaiganiのショッピングモールに行った方が近くて便利だというので,そちらに行くことにした。
行ってみると,Vision Cityという名前であるらしいその施設は,日本にあってもおかしくないような大きな建物だった。ATMとDigicelだけではなく,映画館も入っているし,スーパーもあれば美容院もあり,電器店や文具店,パン屋や軽食コーナーや中華料理店,日本料理店など,かなり多くの店の集合体で,しかも警備状態も良く,安全な感じだった。ここならTownに行くより正解だった。
Digicelの店にも電器店にもNokia純正のUSBケーブルはなかったが,無線LANルータなどを見ていて,ネット接続が3Gでされていることに気づいたので,Nokia Jazz 303をネットに安定接続するための解決策がひらめいたのは収穫であった。
薬局でArtemisinin含有の抗マラリア薬を買っておこうと思ったが,Novartis製のLumifantrineとの合剤が24錠で500キナ以上というので諦めた。2万円も出す必要はない。ちなみにクロロキンならジェネリックのものがOTC薬として安価に売られており(12錠で7キナくらい),PNGにはまだそれほどクロロキン耐性原虫は多くないので,通常はこちらで十分に機能するから問題ないのだろう。
スーパーで果物詰め合わせが3.5キナ,1リットルの100%フルーツジュースが7.55キナと安価だったので買い,パン屋でハンバーガーとピザを合計8キナくらいで買ってからJ氏を電話で呼び出し,ホテルに帰った。
まずはデータ入力を完了してから,ネット接続試行錯誤を再開した。Nokia Jazz 303を使ってvaio-saをネット接続するに際して,USBケーブル(週刊アスキーのオマケだったもの)を使って物理的に接続すると,vaio-sa側では自動的にOvi Suiteが起動し,303側では接続モードをマスストレージなど3候補から選ぶ画面になるのでNokia Suiteを選ぶと接続が確立するところまでは最初から問題なかった。Syncも完璧だった。Internet connectionでconnectとすると,connectedと表示されるにもかかわらず,NokiaのサイトとGoogleのサイトだけ,異常に低速でつながるのだけれども,他のサイトはDNSから情報が返ってこないという,非常に不思議な状況だった。さっきショッピングモールのDigicelの店で得たヒントは2つあって,1つはPCから接続するためのアクセスポイントが本体からwebブラウズするための接続用の自動と違うんじゃないかということ,もう1つは回線モードをdualでなくて3Gに固定した方がいいんじゃないかということであった。果たして,去年日本で集めておいた情報を見直してみると,アクセスポイントはinternet.digicelpng.comとすべし,と書かれていたので,その両方を試してみると,これまでの苦労がウソだったかのようにインターネット接続が確立し,メールもSylpheedで高速に受信できたし(目を通さなくてはいけないものだけで500通,返事を要するものだけでも10通ほどあったが,2週間分と考えたら仕方なかろう),自分のサイトも見えた。嬉しくなって/.Jにタレコミしたら採用され(舞い上がっていたので,Nokia Jazz 303と書くべきところ,Nokia Asha 303と書いてしまったのは許されたい),たくさんのコメントがついた。癖になりそうだ。
晩飯はステーキ。付け合わせがマッシュポテトと煮野菜であった。このホテルの食堂はできあがり連絡のタイミングが悪いという欠点があるのだが美味だ。さらに,他に客がいないことが多く,iPodがつながった大きなアンプ付きスピーカーがあって,試しに尋ねてみたらiPodを持ち込み音楽プレーヤーにつなぎかえるのはOKというので,Nokia Jazz 303をつないで,最近はまっているGoose Houseの竹澤汀さんのソロ作品『点と点のあいだ』を流してしまった。ステーキを食べつつ「東京タワー」とか「おかあさん」を聞くのは,なかなか贅沢な時間なのであった。ささやかな幸せ。後は無事に日本に帰れれば,今回の調査行はほぼ満点といえよう。
6:00頃に起きてメールをチェックし,溜まっていたメールへの返信を完了したら8:00を過ぎていた。朝食は7:00から9:00の間に食べなくてはいけないので食堂に行き,昨日と同じメニューの朝食を食べ終わったら9:00近くなっていた。メール送受信ができるようになると,時間が経つのが早い。
部屋に戻ってスーパーで買ったジュースの残りを飲んだり,写真整理をしたりしていたら,あっという間に時が過ぎた。この間,一つだけやったことは,Air Niuginiのサイトにアクセスして無料会員登録をして,メールで送られてきた会員証のpngファイルを写真用紙に印刷したことだ。成田までの国際線は片道でも6,000点が登録されるというので,試しにやってみたのだ。
空港でチェックインにはやや時間がかかった。貼り紙によると,チェックインに時間がかかるのは,どうやら新しく導入した機械のせいらしい。しかし,さっき登録した会員番号へのポイント登録も無事にできた。それでも時間が早すぎて出国審査が始まっていなかったのでカフェで8Kのカフェオレを飲みながらPCをNokia Jazz 303でネット接続してメール送受信とwebブラウズした。出国審査が始まったというアナウンスが流れてすぐにそちらに行ったためか,待ち時間も短く,審査も何の問題もなく終了し,手荷物検査ゲートを通って待合室に着いたのは,ちょうど正午頃だった。
まだ約2時間の待ちがあるので土産物屋で最後の土産を買ったり(といっても,豆のままのコーヒーも売られていないし,チョコレート類などもほとんどなくて,あまり買えるものがなかった),再びNokia Jazz 303でvaio-saをネット接続してメールチェックしたり,このメモを打ったり,デジカメ写真ファイルを整理したりしている。かなり待合室が混んでいて,しかも日本人が多いのは,ブリスベンと成田の双方向のトランジット客が大半と思われたが,実はシンガポール行きの客もかなりいた。この時間帯に離着陸が集中しているためかボーディングは40分ほど遅れたが,ともあれ,飛行機は無事に離陸したので,後は日常の記録へ戻る。
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