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2013年9月のパプアニューギニア往還記

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2013. Last Update on 2013年9月23日 (月) at 14:02:50.


【第1日目】 再び関空へ(2013年9月12日)

何とか荷造りを済ませて16:30名谷発の地下鉄に間に合った。三宮からバスで関空へ。18:15頃着いて,無事にチェックインできた。ちなみに昨日lostした荷物は見つかって,今日関空に着いて,大学宛に発送されたという連絡があったわけだが,そこに入っていた常備薬と爪切りは買うしかないので,晩飯を食べてから最低限買った。ボーディング時刻が近づいたので手荷物検査場を通った後で村人用の土産物を買い,慌ててゲートまで来たら,ボーディング開始時刻5分前だった。

乗って席に着いた後は,Jetstarで何も機内サービスを買わなかったため,軽食も朝食もなく,水すら出ないという徹底的なサービス無し状態だった。おかげで,朝まで眠れた。


【第2日目】 ケアンズで眠気と闘ってからポートモレスビーへ(2013年9月13日)

現地時刻4:55という予定通りにケアンズ着。

ここの仕組みとしては,7時間待ちでも,ポートモレスビーまで荷物をスルーにすることが可能だったらしい。しかも,1時間後に出る便への接続も案内されていたので,可能だったらしい。日本の旅行代理店が発行したがらないだけなのか? 次からは強引に短時間乗り継ぎ便を取ってみよう。

ともあれ,荷物をスルーにできなかった(関空のJetstarのカウンターで,ケアンズで受け取るように言われた)ので,いったん入国し,空港で時間を潰して出国という手続きが必要になった。入国審査には日本人ツアー客が長蛇の列を作っていたので待ち長いなあと思っていたが,汚い大きなバッグを持ってポートモレスビーへ行くなんていう客が怪しかったのか,暇そうにしていた係員の女性からX線検査機器のところに連れて行かれ,X線でよく見えなかったといって,結局預け荷物にしていた大きなバッグは開けて底までさらわれ,一つ一つ説明を求められ,デジカメの撮影済みの写真までチェックされた。直前までマレーシアに行っていたのもいけなかったのだろう。密輸でもしているんじゃないかと疑われた模様。まあ7時間待ちで暇だし眠気覚ましになるのでつきあったが,預け荷物をポートモレスビー行きにできていれば,たんにtransit passengerとしてdeparture loungeに移動するだけで良かったわけだから,Jetstarのカウンターでもっと粘るんだったと後悔した。

さてオーストラリアに入国してしまったからには観光だってできるんだが,まだ早朝だし,10:00にはチェックインしなくてはいけないので,とりあえずInternational Arrivalゲート近くのTRIB'Sという店でサンドイッチとフルーツミックスジュースを買って朝食をとり,空港のベンチでWiFi接続してメール送受信とかオンラインでの仕事とかを済ませた後は,ひたすら眠気と闘っている。

ちなみにWiFi接続の手順は,

  1. WiFiをON
  2. Cairns International Airportに「接続」
  3. ブラウザでアカウント作成。クレジットカードから入金(1000円分のアカウントを作った。一定期間残るので,復路もこのアカウントにログインすれば,そこからtopupできるはず)
  4. 使用額をtopup。24時間/250MBがAUS $6(395円)である。

コーヒーショップでコンピュータ作業をしていたら,突然日本語で話しかけられて驚いた。なんとオセアニア学会で昔から知っている熊谷圭知先生だった。これから乗るポートモレスビー行きの飛行機も一緒だったが,熊谷先生は2,3時間の乗り継ぎ待ちでウェワックへ行かれるそうだ。それにしても奇遇というべきか。

出国手続きの窓口の人が,偶然とは思うが,入国時に詳細な荷物チェックをしてくれた女性で,最初から向こうも笑顔だったが,"Do you remember me?"と尋ねてみたら,"Of course. Only few hours before!"という返事。何時間か前のことには違いないが,大勢チェックしていたらそんなに覚えていないと思うので,きっと彼女にとっても,あれほど綿密に調べたのは珍しいことだったのだと思う。もしかしたら,向こうも暇つぶしをしたかっただけかも?

ポートモレスビー着が30分ほど遅れたが,On arrivalのビザを取得するために100キナ払ってビザ代のカスタマーコピーという紙を貰い,Visa on arrivalと掲示された入国審査の窓口に行ったら,とくに何も聞かれずにビザをパスポートに貼ってスタンプを押してくれた。預けた荷物もすぐに出てきたし,税関も大きなバッグをX線装置に通すだけで通れたので,PNGへの入国はとても楽だった。到着ゲート近くのDigicelの店に行って,いつからかTopUpできなくなってしまったSIMカードをチェックして貰ったら,やはりexpireしているか何かで使えないので,新しいSIMカードを買うように言われた。SIMカードは20キナだというので,80キナ分の通話料TopUpを追加し,100キナ払った。

出口の方に行くと,あまりPNGは慣れていない感じの日本人女性から助けを求められて応じていたので入国に時間がかかったらしい熊谷先生がいらした。お気を付けてと挨拶し,国内線乗り継ぎの方に歩いて行かれるのを見送ってから,Airways Hotelの車を探してみた。徒歩でも5分くらいの距離なのだが,ここはポートモレスビーであり,一般道を少しでも歩きたくないので,さっき買ったばかりのSIMカードを使って,Nokia Jazz 303からホテルに電話を掛け,迎車をお願いした。果たして3分もかからずに迎車が到着し,あっという間にホテルに着いた。

agodaで予約しておいたので,あっさりチェックインできた。部屋がフロントのすぐそばなのは便利だが,もしかすると夜間にうるさいかもしれない。ちなみにやや高級なビジネスホテルくらいの感じなのだが,マレーシアのVistanaが1泊約6000円だったことを考えると,ここの3万円は滅茶苦茶高いと思う。それでもポートモレスビーの安全とされるホテルの中では最安レベルなのだが。Restaurant Bacchusの晩飯(暗いところでNokia Jazz 303で撮影したので写りが悪い)

ともあれ,荷ほどきをし,荷物の整理をしつつ,Nokiaをvaio-saにつないでメール送受信とか。

現地時間20:00近くなったので晩飯に行こうと思っているところ。

ホテルの敷地内にあるバッカスというレストランで食べたのだが,晩飯は素晴らしかった。暗くて本を読めなかったのは誤算だったが,水の代わりにペリエが出てきたし,鶏ムネ肉とハーブをパイ皮で包んで焼いた料理とギリシャ風サラダを頼んだら,鶏料理に時間がかかっているお詫びということでアスパラガスのスープがサービスされたし,そのスープが滅茶苦茶に美味だったし,時間がかかった鶏料理も素晴らしく美味だった。サラダはsmall dishというわりに多かったが,全部合わせて100キナしなかったので,この手のレストランにしてはリーズナブルといえよう。もう一つ素晴らしかったのは,入り口のそばにグランドピアノが置かれていて,生演奏がなされていたことだ。どう見てもパプアニューギニア人のピアニストなんだが,『昴』『心の友』『上を向いて歩こう』『杏奈』といった日本の曲をやってくれたのは感動した。しかもJazzっぽくおかずが入った演奏で格好良かった。それにしても,彼はいったいどこでこれらの曲を習ったのだろう? もっとも,『昴』は東南アジアでよく知られているし,『心の友』は第2の国歌と呼ばれるほどインドネシアで知られているし,『上を向いて歩こう』は『Sukiyaki Song』として全世界的に有名なので,それほど不思議は無いのか。

食後,部屋に戻る前にフロントに寄って,agodaでbookingしたVoucherに朝食が含まれていると書かれていたので,明日はどこで食べられる? と尋ねてみたら,7階のプールサイドでバイキング形式で供されるらしいことがわかった(後でわかったが,これは嘘で,無料ではなかった)。明日の朝は食べに行ってみよう。

しまった。今日のあまちゃんライブは予約録画しておいたのだが,高校生クイズも今日だったとは。いつも県予選で松元深志高校に負けてしまっていた長野高校が,予選突破どころか決勝まで行ったらしいのに,録画設定しなかったのは不覚だった。


【第3日目】 久々に十分な睡眠が取れた(2013年9月14日)

いろいろ片付いていないことはあるが,このところ夜行便移動などで疲れが溜まっていたので,意を決して十分な睡眠時間を確保した。目覚ましをかけないでおいたら,目が覚めたのは現地時刻9:30だった(日本時間では8:30)。約8時間眠ったことになる。

明日からウェスタン州のダルーに飛ぶので,今日のうちに必要な準備はすべてしておかねばならない。が,現地のホテルとセスナを飛ばしているMAF(教会運営の航空会社?)に再三連絡しても返事が来ないのが恐ろしい。

もし泊まるところがなかったら,どこか転がり込めるところはありそうだが,その人たちにも連絡がつかない。既に村に入っている先発隊からも返信がない。あの地域一帯のネットが落ちているんだろうか?エアウェイズホテルの展望レストランに続く空中回廊

ともあれ,まずは朝食。10:00を過ぎてしまったのでSeven C'sというコーヒーショップで,クロワッサン1個とコーヒー。早くプールサイドのレストランに行けば無料だったと思うが,まあ20キナだからいいか。Tall Blackだったか,コーヒーも美味だったし。その後,マレーシアのVistanaと同じくカードキーを差し込んで操作するようになっているエレベータ(けれども,エレベータホールへの入り口にカードキーを差し込んで開けた直後にエレベータに乗ったら,カードキーを差し込まなくても7階のボタンは押せた)で7階へ。飛行場が一望できる空中回廊を通ってSpaと書かれているプールの方へいくと,大変眺めが良さそうなレストランがあった。今日は昼夜兼用でここで食べることにしよう。昨夜のレストラン・バッカスはドレスコードもあったし高級すぎた。

ホテルの中にはdunhillとか格好いい売店がいくつもあるのだが(服地から背広を仕立てる店まである),ATMはない。ここはカードが使えるので必要ないといえば必要ないからか? 現金を追加で引き出すのは,明日早めにチェックアウトして空港でするしかないな。

今日絶対にすべきことは,去年B君とプレゼントすることを約束したフォトフレームの仕上げと,調査フォームを完成させてプリントアウトすることだ。リチウムバッテリ類の充電も,ここでフルにしておくべきだろう。後は余裕があったら,某査読をするつもり。調査地まで持ってくるのもどうかと思ったが,間に合わないので仕方がない。帰国翌日が締め切りなので,最悪,復路ケアンズ1泊と日本への飛行機の中で査読を終わらせねばならない(あまり今は考えなくないが)。

フォトフレームの仕上げはすぐにできた。調査フォームは若干難航中。まあ,いわゆる半構造的面接だから,細部までは詰められないのだが。とはいえ,ここでの苦労が調査時に生きてくるはずなので足掻いてみる。

調査対象地出身で,今はKiungaという町でHealth Officerとして働いている人からメールの返事が来た。Daru居住の彼の姉であるLさんに電話番号を教えてくれたとのこと。メールが着いて間もなく,Lさんから着信があり,明日,空港に迎えに来てくれるとのこと。大変ありがたい。これで,最悪,ホテルがダメでもLさんの家に転がり込ませて貰えそうだ。

現地時刻19:00頃,漸く調査票が完成した。再三見直ししたから大丈夫だろう。共同研究者にメール添付で送信し,これから昼夜兼用の食事をしてくる。印刷はその後の予定。Airways Hotel展望レストランの晩飯

7階の展望レストランは,離れの「バッカス」よりも明るく(おかげで,前野ウルド浩太郎『孤独なバッタが群れるとき』東海大学出版会を読み進めることができ,初心忘るべからずというか,研究意欲が湧いてきた),ややカジュアルな感じだった。でも生演奏はあったし(Bossa Nova/Jazz系統の音楽),料理もトニックウォーターと豚肉の照り焼きと蒸し野菜を頼んで80キナとリーズナブルであった。豚肉が分厚くて大きくて柔らかく,添えられたポテトも美味であった。

部屋に帰ってきたのは現地時刻21:00近かった。すっかりベッドメイクなどされていたのだが,これからiP100で印刷しなくてはいけないので,まだ眠るわけにはいかない。明日は現地時刻6:30には起きたいところだが。

1枚だけ印刷して後はコピーにしようかとも考えたが,コピーでは細かい文字が見えないかもしれないのと,考えてみればインクカートリッジが古くなってきた(たぶん予備として持参したのが,3年くらい前に買ったものだと思う)ので,とりあえず30枚両面で60部作った。あとは生体計測用の記録用紙も作る必要があるか? ということで,3部作ってから眠った。


【第4日目】 Daru着は良かったが,またも預け荷物が届かない(2013年9月15日)

8:30に7階のレストランでビュッフェ形式の朝食。agodaのバウチャーにはbreakfast includedと書かれていたが,バッカスレストランで食べないとダメなのだそうで,60キナ取られた。こちらの落ち度といえばそうだが,融通がきかない。

9:30にチェックアウトし,車で国内線乗り場の方へ送って貰った。ダルー行きはまだチェックインが始まっておらず,長蛇の列だった。怪しげなSECURITYが,自分は腹が減っているので20キナくれれば並ばなくてもチェックインできるようにしてやるぜ,などと言ってきたが無視して並んでいたら,10:00ちょうどにチェックインが始まり,30分くらいで自分の番が来た。預け荷物が18kgあって,これまでは2kgくらいは大目に見てくれたのだが,今日の係員は制限が16kgだから向こうで2kg分のexcess feeを払ってこいの一点張りであった。仕方ないので13キナ払い,チケットを受け取れたのは11:00頃だった。ATMで現金を引き出しておこうと思ったが,国内線乗り場のANZの機械はCITICARDで現金を引き出そうとしたら,最後の段階で処理できないという表示が出て引き出せないのだった。仕方なく国際線の方にある別のATMに向かったら,BSPの機械がやたらにキーの反応が鈍くて,まともに金を引き出せないのだった。一瞬,1万キナを引き出してしまうところだった。そうこうしているうちに11:25になり,ボーディングパスに11:30からボーディングと書かれているので慌ててゲートに向かったら,もうとっくに始まっているから急げと言われ,走るように搭乗した。が,結局離陸したのは定刻の12:00に近かったから,慌てる必要はなかったかもしれない。

しかしトラブルがこれで済めばまだ良かった。先日のマレーシアからの帰りの再現かと思うような,baggage lostが起こってしまったのである。今回は自分ばかりでなく,かなり大勢の荷物がモレスビーで積み残されたままだったというが,次の便が火曜だからそれまで待てというのだ。着替えとか歯ブラシとかお土産とかが全部預け荷物に入っているので,火曜まで着た切り雀である。寝袋と蚊帳が無いので,ダルーに一番近い村に泊まりに行くこともできない。さて困ったぞ。

ともあれ,気を取り直してLさんに電話してみた。彼女は,1989年に初めてここに来た時にお世話になった長老(既に故人)の長女なので,ぼくにとっても姉のような存在で,ダルー病院で看護師をしている。すぐに娘さんを空港によこしてくれて,一緒に歩いて行ってくれるという話になった。しかし,予定が状況次第で二転,三転するのはこうした場所ではありがちなことで,今回も別のホテルのドライバーが好意でクキホテルまで連れて行ってくれるという声をかけてくれた。ちょっと迷ったが,Lさんの娘さんも他の村人もそうした方がいいというので,乗せて貰った。クキホテルの受付に行ってみると,返事が来なかったのはネットが使えなくなったからで,同じ理由でカード決済もできないというのだけれども,とりあえず宿泊はできるそうだ。現金払いしか受け付けられないので,ATMで現金を引き出さなくてはならないと言ったら,車が帰って来たら送ってあげると言われた。まあ,それなら危険も無いだろうしいいか。ついでに最低限の必要物資(歯ブラシとインスタントコーヒー。これは一日も欠かせない)も買っておけるし。

部屋に入って調査隊同報でダルーに着いたがbaggage lostというメールを送り(DaruでもNokia Jazz 303をUSBモデムとして,無事にインターネット接続ができた),善後策を練っていたら,Lさんから電話があった。クキホテルまで話に来てくれるという。ありがたい話なので,OK,待っているよ,と答えたのだが,その直後,パンクしていたらしいホテルの車が修理が終わって帰って来て,ATMがある銀行のところまで連れて行ってくれるという。間が悪い。ドライバーにLさんを待たねばならないと言ったら,途中でピックアップしてやるというので,Lさんに電話して事情を話し,ドライバーと話して通り道を決めてもらった。果たして途中で無事に会うことができた。とりあえず明日は独立記念日なので何もできないが,看護師のLさんは病院に出勤なので,その後ゆっくり会おうということになった。その時に,今回聞き取りたい医療人類学的な項目の30年間の変化をみるという話をしてみよう。希望として,一番早いMAF便が出る水曜にはカパール村に行きたいということと,火曜の朝に空港で荷物を受け取らねばならないことと,ダルーにいる間にドロゴリ村を訪問したいことを伝えたら,MAFのエージェントには連絡しておくし,火曜は空港に寄ってからドロゴリに行けるように手配してくれるという。大変ありがたい。ちなみにMAFでダルーからカパールは240キナとのこと。もう少し多めに現金を引き出しておくべきかもしれない。

ホテルに帰ってインスタントコーヒーを淹れようとしていたら,電話がかかってきた。見たことがない番号からだったが,知り合いの誰かが番号を変えたか,またはLさんが連絡してくれたMAFのエージェントかと思って出てみたら,マダンに住んでるマイケルという男で,間違い電話だったようだ。イタ電のような気がしないでもないが,自分は日本人の旅行者だと言ったらバイバーイと言って切ってくれたので,まあいずれにせよ実害は無い。ホテル住まいしている間は電気の問題もないし。

インスタントコーヒーを淹れて一休み。いろいろあって疲れたが,勝負はまだまだこれからだ。

鶏のぶつ切りのソース煮(小さい骨がたくさん入っている)と白いご飯と煮野菜という,エアウェイズに比べると洗練度も低いが値段も半分以下な晩飯を済ませた後,日曜の夜でもあるし,査読仕事より先に,昨日少し読み進めた前野ウルド浩太郎『孤独なバッタが群れるとき』東海大学出版会,ISBX978-4-486-01848-3を読了してしまった。去年の暮れに出ていたのだが,どうしていままで読まなかったのか激しく後悔した。それくらい面白い本だった。これほど大学院生に是非読めと勧めたくなった本は,矢原徹一さんの『花の性』以来だ。しかも余談も語り口も面白い。欲を言えば,フィールドに行ってしまう前に,ヘキサン抽出物を分画して綿棒でメスの触角に塗る実験を仕上げていってくれたら,なお良かった。あと,論文掲載のものから,図を見やすく作り直したそうだが,たぶんそのせいで図から消えてしまっている実験条件があったと思われるところが何ヶ所かあったのも,本書でサバクトビバッタの相変異について理解しようという読者にとってはやや残念だった。ただし,元論文の書誌情報がすべて載っているので,そういう読者は原著を読めばいいだけの話だが。

ぼくも,荷物が届かないくらいで落ち込んではいられない。3日間着替えがなくてもどうってことない。明日から気合いを入れ直して頑張ろう。


【第5日目】 独立記念日(2013年9月16日)

寝苦しくて変な夢をたくさん見た。現地時刻7:00にGoosehouseの「グッドモーニング」が鳴ったのだが,止めて二度寝してしまった。次に目が覚めたのは8:00だったので食堂に降りて朝食をとった。他に客がいないようで,昨年まではお湯とインスタントコーヒーの粉とティーバッグが用意されていてセルフサービスだが飲み放題だったのに,食堂はがらんとして何も無かった。ブラックコーヒーが欲しいと言ったら,確かに黒いのだが甘いコーヒーが出てきた。まあ半ば予想できたことだが。朝食が出てくるまでの間,gmailをチェックしようとしたのだが,DNSがうまく引けないようでつながらない。Nokia Jazz 303にはアンテナマークが5本立っているので,電波状態自体は悪くないはずだが,インターネット側の調子が悪いのだろう。

朝食は小さいトースト3切れ,ウインナー1本,缶詰の豆,ゆで卵というメニューだったが,量的には丁度良かった。加熱しすぎのゆで卵よりもスクランブルエッグの方が良かったが,それは贅沢というものだろう。

今日は独立記念日なので,もっと朝から騒々しいかと思ったらそうでもない。クキホテルは中央広場にかなり近いのだが,まだお祭りは始まっていないようだ。見に行きたい気もするが,外国人が一人で行ったりするとホールドアップの危険が常にあるとこちらの人たちも言うので,Lさんの仕事が終わるまでは大人しくホテルの部屋でデスクワークをしようと思う。ドロゴリ村に行くにはボートが必要で,埠頭に行ってボートの交渉をしなくてはいけないが,埠頭はスラムに近い危険地帯と言われているので,そこも一人で行くわけにはいかない。大変もどかしいが仕方が無い。

部屋でもネット状況は悪く,アクセスに長時間かかったが,ともかくメール受信だけはできた。後は昼まで某査読でもするしかないなあ。

査読をしていたら部屋の掃除をしにきてくれたが,必要ないと言ったら後で来るとの返事。別に今日はしなくてもいいんだがなあ。気を取り直して査読を続けていたら電話。Lさんからで,ドロゴリ村の人と話がついて,火曜に飛行場で荷物を受け取ってからボート(ディンギー)でドロゴリ村に行く手筈ができたとのこと。彼女の3人の息子がエスコートについてくれる。ボート代は片道1人5キナというから,エスコート3人の往復だけで30キナ余計にかかるわけだが,その方が安全ならまったく問題ない額だ。飛行機についてはエージェントがあてにならないので電子メールを出し続けてみろとのこと。あまりしつこく出すのも気が引けるが,背に腹は代えられないので,再びメールを出してみた。カパール村に行きさえすれば,B君が泊まるところを用意しておいてくれるそうで心配ないのだが,飛行機に乗れるかどうかだけが問題だ。

現地時間13:00過ぎまでかかって,某査読完了。回線状態が悪いのでかなり手間取ったがメール送信もできた。これから昼飯を食べてくる……つもりだったが,今日は独立記念日で,14:00を過ぎた今頃来ても料理人はいないと言われてしまった。まあそれもそうか。仕方ないので晩飯のオーダーをしてから部屋に戻ってきた。

暫くするとドロゴリの「チェアマン」という男が来て,明日のトランスポートについて確認しておきたいという。ドロゴリ村のコミュニティ・ディンギーなので,乗り合いなら1人5キナだが,明日のはチャーターだから200キナだという。話が違うじゃないかと思ったが(だからこそ彼が交渉に来たのだろうが),4人で乗るし往復で200だというから受け入れることにした。政府や会社の仕事なら500キナなんだが,ローカルレベルのチャーターだから200なんだと言われてしまっては仕方が無い。明日は7:00にエアニウギニが空港に着くはずなので(とドロゴリの「チェアマン」が言う。こっちの人は皆飛行機の日程と時刻を良く覚えている),そこで荷物は入手できるはずだが,不運なことに朝はbig low tide(凄い引き潮ということだろう)なので,9:00に迎えに来るという。伝統医療がいまどうなっているのかを調べに来たのだということを,稲岡さんのアシスタントを長くやっていたG氏に伝えておいてくれるそうだし,10:00に着いて15:00頃まで聞き取りできれば,ある程度の人数はいけそうだ。あとは,彼が独立記念日で酔っ払ってしまわないことを祈るのみ。なお,1996年の調査で世話になったS氏は,村人ともめごとを起こして家を焼かれ,家族は村にいるけれども,本人はブッシュでキャンプ暮らしをしているそうだ。何をやったんだろう?

夕方,仕事を終えたLさんがドロゴリ行きの首尾確認のためにホテルに来てくれた。親切さに涙が出そうだ。で,「チェアマン」との話を伝えたら,なるほどと納得してくれた。ドロゴリにも知り合いはいるはずだが,知っている少年3人がエスコートしてくれるのは安心だ。なお,Lさんといえば病院勤務なので,病院のS医師がどうしているのかも気になるが,今日コンタクトできても仕方ないので聞かなかった。金曜にカパールから帰って来たら土曜にコンタクトするのが良かろう。

晩飯までは,時々メール送受信した他は休憩。昼飯抜きだと元気が出ない。

海外出張により強制的に「あまちゃん」から離れてしまったおかげで,何も考えていないようでいてズバッと本質をつくアキちゃんがワンピースのルフィ的な存在であることに気づいた。ユイちゃんは理由の無い不幸につきまとわれていて,一時ダークサイドに落ちたりするけれども,存在を否定されているわけではないからナミだな。魚人アーロンの圧倒的かつ理不尽な力に囚われていたナミが「助けて」と泣き顔を見せた後のルフィの頑張りと,ユイちゃんを立ち直らせるためのアキちゃんの奮闘が重なる。もちろん勉さんはシルバーズ・レイリーで……と思ったが後が続かなかった(前髪クネオはサンジでいけるかもしれないが)。あと,南部ダイバーは「いなかっぺ大将」のテーマ曲とイントロが似ていると思った。どうでもいいことだが。それにしても,Twitterを見ていると,水口とGMTが北三陸に来て潮騒のメモリーズが復活しそうな局面を迎えたらしい。ちゃんと録画できているかが心配。

バラマンディーがマーケットになかったということで(まあ,今日は誰も漁になんか出ていないので当然か),晩飯は今日もチキンになった。せっかくホテルの人と顔をあわせたので,明日の朝,飛行場に荷物を取りに行くためのドライバーをお願いし,昨日の夜,今日の朝と合わせて3食分の食事代を払った。やるべきことが一つずつ片付いていくのは気持ちいい。それにしても,動いていないせいか,2食で十分だな。


【第6日目】 ドロゴリ村に行ってくる(2013年9月17日)

6:30起床。エアニウギニの音がして機体が見えたので6:50にフロントに行ったが誰もいない。7:00になって漸く職員が出勤してきたが,ドライバーがいない。ドライバーが来るまでコーヒーでも飲んで待っていたら? と言われたので待つこと10分。漸くやってきた車に乗って飛行場に行くと,機体は着いていたが,まだ荷物を降ろしている途中だった。なるほどこういうことか。ドライバー氏は,荷物を受け取った頃また来ると言っていなくなってしまった。おおかた,朝食の途中だったのだろう。

自分の他にも日曜便で荷物が着かなかった人がたくさんいて,飛行場で待っていたので,その人たちと一緒に行動した。というか,ゲートから中に入れて貰って,荷物が出てきたのを見つけて係員に荷物番号札を見せて確認して貰って,引き取るだけだが。15分ほどで受け取れただろうか。しかしドライバーが戻ってきたのは,その10分後で,他の客はみんないなくなってしまった後だった。まあ,こういうものだよなあ。

宿に戻って朝食をとり,外に出てみるとLさんと息子たちが(なぜか3人の予定だったのが4人に増えていたが)待っていて,ドロゴリからの迎えが来たら一緒に行こうという。ダルーにいても若い男は暇だろうから,人が増えたのは暇つぶしなのだろう。Lさんは今日も仕事で,いま勤務しているのが産科病棟で,毎日出産があるので忙しいという話。それにしては夜はちゃんと家に帰っているようだが,まあ,彼女は看護師で,とりあげるのではないからだろう。

とりあえず部屋に戻って3日間着たきりだった下着とシャツを着替え,ここまでのメモを打ったところで9:00近くなった。

最終的に暇な若者によるエスコートは8人になった。まあチャーターだから移動にかかる金は変わらないが,時間的にも彼らへのお礼は昼飯をおごることになるので,散財は否めない。ほぼ予定通りにホテルを出発し,歩き始めたところでドロゴリ村の「チェアマン」と「コミッティーメンバー」という男に出会ったのでベストなタイミングだった。ちなみに後でいろいろ聞いたところによると,「チェアマン」は正式な役職ではなくてコミュニティ・ディンギーの管理者みたいなもので,「コミッティーメンバー」というのは5年任期の村長(カウンシラー)だった。選挙で4人の中から当選したばかりで,補佐役に当たるコミッティーメンバー2人をまだ選んでいないので(村長による任命制だそうだ),今のところ彼が唯一のコミッティーメンバーということだ。村の運営委員としては,この他にレコーダーという,いわゆる書記がいるのだけれども,これも村長による任命制とのこと。村で聞き取りをしていた間,村長は傍らにいた女性にフィールドノートのようなものにそのプロセスをメモさせていたが,彼女を書記にしようと考えていたのかもしれない。この女性は,夫がドロゴリ村出身だがポートモレスビーに住んでいる実業家で,日本にも何度か行ったというのだが,彼女自身は他の言語族出身で,とてもきれいな英語を話す人だった。きっと学歴も高いのだろう。

話を戻すと,8人の若者とともに船着き場に歩く途中,ATMで金を引き出そうとしたら,機械自体は動作したのだが,今回はTemporally Unavailableと表示が出てCITICARDを受け付けてくれなかった。次にダルーに戻ってきてから試すしかないな。たぶん,このままいくと,次にクキホテルに泊まる時の現金が足りなくなる。ともあれ,スーパーマーケットに入って若者たちの分と一緒に昼飯を買った。飲み物(ぼくはミネラルウォーターにしたが,若者たちもドロゴリの偉い人の分も缶コーラとか缶ファンタだった)とビスケットと缶詰であった。そういえばこっちの朝食や昼食は,町に近いところだとビスケットのことが多いのだった。

じゃあ船着き場に行こうと歩き始めたら,町の側からドロゴリの偉い人2人が歩いてきた。ベテルナッツか何かを買ってきたらしい。いよいよドロゴリに行ける。

しかしやっぱり一筋縄ではいかないのだった。ボートはどこかと聞いたら,まあ待て,まずは燃料を買わねばならないというのだ。ああ,チャーター代と燃料は別なんだな。たぶん近距離だからそんなに燃料は使わないはずだが,大勢乗るから燃料を食うとか何とか言ってタンクをフルにしろと言うのだろうな。ここは考えどころである。全部込みで200キナと言った昨日と話が違うじゃないかと言ってごねることもできるし,燃料屋に聞いて,往復に必要な最低限の燃料代だけ払うこともできる。そうした方が,後々こいつは侮れないと思ってくれるかもしれない。その反面,この2人の体面を多少は傷つけることになるので,気持ちよく仕事をしてもらうにはマイナスだろう。一瞬迷ったが,何も言わずに燃料代を払うことにした。まあフルではなく20リットルしか要求されなかったし(たぶんドロゴリは近いので10リットルで往復できると思うが),それがチャーター代のほぼ半額の108キナだったので,許容範囲か。

Daruに残る掘っ立て小屋群

マーケットの近辺が去年に比べてきれいになっていたので尋ねてみると,警察がマーケット周辺に掘っ立て小屋を建てて住んでいる人たちを追い払って,掘っ立て小屋群を撤去したのだそうだ(上の写真は,ドロゴリから帰って来たときに,海側に少し残っている掘っ立て小屋群を離れたところから撮影したもの。去年まではマーケット周辺がこういう小屋だらけで,ちょっと危ない目をした若者がウロウロしていた)。近くに警察の出張所もできていて,多少治安は改善しつつあるのかもしれないと思われた。ディンギーに乗るところはコンクリートが少し突き出ていて,靴を脱がなくても乗ることができたが,非常に穏やかな海だというわりにはアップダウンが激しく,10分弱の航海を終えてドロゴリに着いた時には足が痺れていた。しかも,当然,村には船着き場などなくて,靴を脱いで海に入って歩くしかないのだった。ここは物凄い遠浅の海岸で,満潮に近い時刻なのですぐ村に入れたが,帰りはたぶん干潮になるから遠くまで歩かなくてはならないだろう(右下の写真は,思った通り長い砂浜が出現した帰りの景色)。やれやれである。Dorogori村と水平線

村に入ると稲岡さんのアシスタントだったG氏は昨日クニニという村に行ってしまったということで不在だったが,村長が仕切ってくれて,聞き取り調査をすることができた。本当は村を回って1軒ずつやろうと思っていたが,独立記念日のためウィピムなどに出かけている人が多く,村に残っているほぼ全員が集まったというので,グループインタビューに切り替えた。今回の調査は村で行われている伝統医療の方法を30年前と比べることが目的なので,グループインタビューでも事足りる。一つ観察項目があるのだが,これも村に残っている人が全部いるなら,人数だけまとめて調べてしまえばよい。村人が協力的だったこともあって,無事に伝統医療の調査ができた。30年前と違っているところも多かったが,意外に残っているものもあって興味深かった。重要と思われる薬用植物の写真も撮らせて貰った。あとは,村の世帯数と人口を知りたかったが,昔からの村の土地は狭いのだが,キャンプサイトなどに散らばっているので,この短時間では調べることができない。センサスブックに人口を記録しているレコーダーがいるはずなので,村長に尋ねてみたら,今日は出かけているというのだが,重ねて頼んだら,金曜か土曜までに人口と世帯数は調べておいてやると言ってくれた。素晴らしい。

同じような調査を内陸側の村でもできれば,ショートレポートくらいは書けそうだ。できれば30年前の論文で取り上げられている,ウォニエ村の人(今はもう長老になっていると思う)に聞ければベストだが,今回ウォニエ村に行く時間はないから,先発隊でかつ後に残る2人に頼んでみるかな。

13:00過ぎに聞き取りが無事に終わったので,雑談をしながら,持参した昼食を食べた。「エスコート」ということで着いてきた若者たちも適当に楽しんでいるようで良かった。14:00頃,ディンギーが帰って来たから(やっぱり余計な燃料消費をしていたようだ)出発するというので海に出た。今度は干潮の真っ最中で,村から遙か遠くまで干潟状態で,その先に芥子粒のようにディンギーが見えるのだった。心が折れそうだったが,仕方ないので靴を脱ぎ,深いところではスネくらいまで海に浸かりながら歩いた。近くでドロゴリの村人が網漁をしていて,偶々大きな魚が捕れたのでダルーのマーケットで売ってきてくれと言われたらしく,ぼくのチャーターのはずだが,とくに断りもなく魚を積んできた。まあいいけど。確かに大きな魚で,腹が膨れあがっていたのだが,産卵直前なのだそうだ。きっと高く売れるのだろう。ドロゴリ村の隣村のトタン屋根群

暫く沖側にディンギーを押してから出航。ドロゴリ村は昔ながらの家ばかりで,AusAIDで寄贈されたが既に壊れて使えないという水タンクを除けば,30年前から外見的にはほとんど変化がなかったが,すぐ東側にあるキワイ語族の村は,どういうわけかトタン屋根の立派な家ばかりだった(右写真)。ドロゴリの村人に尋ねたところでは,隣村にはインドネシアからナマコの買い付けに来るから豊かなのだというのだが,後で昔からの友人であるB氏に尋ねたところ,それだけではないとのことだった。オクテジ鉱山の会社が鉱毒の補償をパッケージという形で行っていて,パッケージに入ると莫大な補償金が入ってトタン屋根の家を作れるのだが,ドロゴリ村はパッケージに含まれたことがないということだった。本当にすぐ隣で,鉱毒被害に差があるとは考えられないので,この違いは交渉能力の差によるのだろうと思われた。というか,ドロゴリの普通の村人がそのことを知らないらしいのが不思議だった。それとも,知らないことにしているのだろうか。

10分ほどの船旅で,凪に近い海だったのだが,久しぶりだったのでディンギーが波の上を跳ねるように進んでいくアップダウンはきつかった。当然のようにダルー側も干潮の真っ最中で,船着き場の辺りはすべて干潟になっていた。しかし流石にここは町だけあって,やや大きめのボートからの艀が着けるような場所があり,そこでディンギーを降りた。といっても,もちろん水の中に降りるので,裸足である。砂だらけの足を歩いて乾かしつつ堤防の上に出てやっと一息ついたが,予想以上に疲れていた。陸側を見ると,撤去されたはずの掘っ立て小屋群が若干残っていた。靴を履いてからドロゴリの人々がマーケットに出店しているところまで一緒に歩き,ちょうどクニニから戻ってきたG氏と挨拶し,ディンギーのオペレータにチャーター代の200キナを払ってから,8人の若者とクキホテルに向かった。さすがに若者は元気で,これから中央広場で行われているスポーツ(ラグビー,サッカー,ネットボール,バレーボール)を見るらしいが,ぼくにはそんな元気は残っておらず,記念撮影をして別れた。

部屋に帰ってきたら,身体が滅茶苦茶に疲れていた。潮風と日光に当たりすぎたこともあるが,運動不足だ。ともかく水シャワーを浴び,天井の扇風機を回してベッドに横になったら,2時間ほど眠ってしまったようで,もう夕方近かった。明日から行く村には電気が無いのだから,エアコンなしに身体を慣らしておかなくてはダメだ。年をとるとともに環境変化に適応できなくなってきた。昔は前日までクーラーの効いたホテルで過ごしていても,次の日から炎天下で活動できたものだが。バラマンディーとポテトのとても美味い晩飯

晩飯はレストランが掃除できていないからという,よくわからない理由でルームサービスになった。けれども,バラマンディーのトマトソース煮とポポとキュウリとチップスという料理が絶品で,オレンジ&マンゴージュースが良く合った。完璧な晩飯であった。いつの間にかクキホテルは客室でテレビが見られるようになっていた。もっとも,映るのはEM TVという1チャンネルだけだが(EM TVはピジン語で,英語に直すとIt's TVという意味),今夜のプログラムはたぶんポートモレスビーで行われていると思われる独立記念日のダンスショーのハイライトと,日本のラーメン(RAMEN)の紹介であった。後者は,屋台や行列を作ってまで食べているラーメン専門店の映像から始まって,如何にラーメンが日本で好まれている食べものであるかを示した後,麺の作り方からスープの取り方,それが地方によって違うことを紹介し,最後は横浜のラーメン博物館で締めるという,本格的な番組だった。EM TV,侮れん。

食べ終わった皿を持ってフロントに行こうとしたら,廊下に男性職員がいて,ここの台に置いておけばいいよ,と言ってくれた。なかなかサービスがいい。これで事あるごとにタバコをくれとかタバコ代の2キナ(1本か2本だろう)をくれとかダメ元で言ってこなければ,もっといいんだが。こちらの人にとっては挨拶みたいなものなんだろうな。タバコは身体に悪いから自分は吸わないしタバコ代もあげないと言ったら,身体に悪いことはわかっていて,だからいつも吸うわけじゃ無いんだ,時々だと言い訳していたが。

それにしても落ち着いて所持金を数えてみたら,明日からカパール村に行って金曜日にダルーに帰ってくるのにギリギリしか残っていない。ダルーでホテルに払う金がないので,ATM必須だな。今日上手く引き出せていれば問題なかったのだが。ちなみに携帯電話の通話料金は,*120#に電話を掛けるとショートメールで帰ってくるので確認したら,まだ100キナ以上残っていた。時間的にはかなりネットにつないでいるのだが,回線が遅くて流量が少ないから減らないのだろう。夜,ホテルにいると電気が使えるので,つい「あまちゃん」の情報を検索してしまい,今日が潮騒のメモリーズ復活の日だったことを知った。「潮騒のメモリーズ現象」てのは最もイカ天バンドらしいアマチュアバンドとして原宿のホコ天を沸かせていたremoteが自称していた「remote現象」へのオマージュだろうか。確か,最初はファンの熱気をremote syndromeと呼んでいて,その後,盛り上がり全体をremote現象と呼んでくださいと言っていた気がする。それともイカ天の名アシスタントだった相原勇が名付けたのだったか? リードボーカルの池田貴族氏が若くして亡くなってしまったのが惜しまれる。実はvaio-saにはイカ天バンドのお祭りだったアマバン博(あ,何と「あま」つながりだ)をVHSで録画してキャプチャしたmpgファイルをいくつか入れてあって,remoteの「NEVER BE」も入っているので(他に入っているのは,THE NEWSの「POPS」とか,寿の「金網の向こうはなんだろうな」とか,GENの「バラ色の人生」とか,ジッタリン・ジンの「エヴリデイ」といった,演奏は荒削りなんだけれども躍動感と熱意が溢れている名曲の数々),池田氏を偲びつつ聴き直してみよう。あれ? そういえば,岩手こっちゃこいテレビのプロデューサーの役名って池田じゃなかったっけ? そう考えてみると,クドカンは意外に本気でremoteへのオマージュをしているのかも。

「金網の向こうはなんだろうな」で思い出したが,イカ天が始まったのは平成元年だったはずだから,25年前に寿が歌ったテーマは,未だに解決していない。彼らが逆説的に「アメリカはどこなのか? 少年は彷徨う。アメリカはどこなのか? 金網の向こうは誰の国だろうか?」と歌っていたときから,今に至るまで,沖縄の基地の中はアメリカのやりたい放題だ。だからこそ民主党への政権交替のときは期待したんだがな。理想だけ語っていても,結局は(いろいろな意味での)力がないと現実を変えることはできないということだ。今日の聞き取りで,病気の原因についてどう考えているのかという話を聞いていたら,多くの人がオクテジ鉱山の汚染水で死んだ貝が黒くなっていて,それを食べると腹痛になると言っていた。政府もそれを認めていて,死んだ貝は食べるなという通達が出ているそうだ(もっとも,死んだ貝は食べないのが普通だから,どこまで汚染のせいにしていいのか不明だが)。けれども,オクテジ鉱山は大きな収入源だから,政府として採掘を規制する気はまったくない。下流の人々にアラートを出したり補償金を出す方が差し引きで考えると得だからだ。村人たちもオクテジ鉱山を閉山して欲しいとは思っていない。パプアニューギニアは地下資源が豊富なので,それを目当てに殺到している海外資本のビジネスマンたちのせいで,首都のホテルは安いところで1泊3万円,地方都市のホテルが1泊1万円弱,物価は日本とあまり変わらず(果物とか魚とか地元産のものは安いが),地方出身でも滅茶苦茶金持ちなビジネスマンがいるかと思えば(まあ,大勢のワントークがぶら下がっているので,そんなに豪勢な暮らしはしていないが),狩猟採集と焼畑農耕で生計を立てながら電気も水道もない田舎で暮らし,2日掛けないと病院にも行けないような人々が普通にいる。村中から援助を集めないとハイスクールに進学する学費もままならないので,ハイスクール以上への進学率は低いままだ。携帯電話の普及で変わりつつある気もするが,年収1万円いかないくらいの村の人たちが,1泊3万円のホテルに泊まれるようになるとは到底思えない。かなり社会格差が大きく,歪んだ姿になっていると思う。それが仕事のない地方の若者たちによって組織された強盗団(ラスカル)という形で現れているのだろう。ラスカルがいるのと滞在費が高く付くせいで観光開発もうまくいかないし,かといって,地下資源開発前の状態に戻ることは,たぶんもうできない。携帯電話網に必要なインフラは,ビジネスが成り立たないと維持されないだろうし,村人は携帯電話を使って家族や知り合いと連絡が取れることの便利さを知ってしまったから,地下資源ビジネス排斥には向かわないだろう。この国の出口はどこにあるのだろう? せっかく国際協力研究科も兼任しているので,開発経済とか政治の人たちとも,この問題をディスカッションする機会をもってみたい。

とりあえず今日聞き取ってきたデータはチェック完了。予定通り金曜にダルーに戻ってこられたら,論文を書き始めてしまうのがいいかもしれない。

唐突に思った希望カバー曲。潮騒のメモリーズ2人では「潮騒のメモリー」を歌うのだろうけれども,ソロもつけてくれないだろうか。ユイちゃんには森高千里「私がオバさんになっても」を,アキちゃんにはジューシィ・フルーツ「ジェニーはご機嫌ななめ」を歌って欲しい。とくに「ジェニー……」は,イリアさんのギターソロを完コピしてくれたら絶対に「カッケエ」と思う。それにしても頭がかなり「あまちゃん」に浸食されていてやばい。明日から3日間は特定の場所でしかネット接続できないし電力も無駄遣いできない村暮らしだから,「あまちゃん」情報を見ることもできない。禁断症状を起こさないだろうか。あれ? 考えてみたら明日は8:00から空港で待つことになっているから,7:00には朝食にせねばならないな。6:30起きするためにはそろそろ眠らないとまずいな。


【第7日目】 カパール村へ飛べるか(2013年9月18日)

現地時刻6:30に起床。寝汗をかいていた。予定通り7:00から朝食をとり,すぐにチェックアウトして空港へ。空港で待っていた他の乗客と話していたドライバーが,まだ時間があるから買い物とかはないかと尋ねてきたので,じゃあATMを試したいと言って連れて行って貰った。途中,Lさんから電話があって,どこにいるかと訊かれたので,空港に着いたが,まだ飛行機が来なそうなのでATMに行ってくるところだと答えた。いろいろ気にかけてくれてありがたい。

前日使えなかったせいか,何人か並んでいたATMだが,ドライバーがセキュリティの人と話をして,優先的に使わせてくれた。外国人がATM周辺に長居しているのは危険だという理由による。今度は無事に1000キナ引き出せた。これで多少余裕をもってカパールに行って来られる。OkTedi鉱山の会社所有の飛行機

空港に戻ってひたすら待ち。普通はMAFのエージェントがいて,もう少し見通しがわかるのだが,独立記念日絡みでダルーのエージェントがウィピムに行ってしまっているので,ダルーの乗客の管理がうまくいっていないようで,大勢の乗客がいるのだが,誰もいつ飛行機が来るか知らない。別の航空会社の飛行機がいくつか着陸したが,地方政府チャーター機だったり,バラマンディの輸出専用機だったりで,一般客が使えるような飛行機はないのだった。オクテジ鉱山の会社が所有する飛行機が来た時は,屈強そうな若者が奥さんと赤ちゃんと涙の別れをして,タブビルに旅立っていった。昼を過ぎてもMAFの飛行機が来ないのでいらつき始めた頃,B氏から声を掛けられた。実は彼は地方政府の事務官なので,今朝のチャーター機でダルーに帰って来て,第2便の荷物を引き取るために再び空港に来たところ,偶然ぼくを見かけたので声を掛けたのだという。8:00からずっとMAFが来るのを待っているのだと言ったら驚いていた。漸くMAFの飛行機が来たのは14:00を過ぎていた。飲まず食わずで待っていたので疲れた。来た飛行機は5人乗りだったので,やはり待っていた全員が乗れたわけではなく,カパール行きの4人とタピラ行きの1人は乗れたが,ぼく以外の全員が滅茶苦茶な大荷物を抱えていて補助座席を出せず,ウィピムに行きたがっていた2人と,もう1人カパールに行きたかった人は次の便が飛ぶ金曜日を待つことになった(それでも飛ぶかどうかわからないのだが)。ぼくが乗れたのはメールで直接本部に何度も連絡しておいたことと,有力者の口利きがあったことと,外国人の旅なので日程の制約が大きいことをパイロットが理解しているからだと思われた。ともかく,エージェントがいなくなるとMAFの運行管理は崩壊するので,次にどこかに行ってしまう時は代理を立てて業務引継をしていって欲しいと強く思った。

さて20分弱のフライトでカパールに着いて歓待を受けたのはいつも通りだったが,どうも村の様子がおかしい。訊いてみると,ついさっき,一人の女性が毒蛇に噛まれて,吐いて弱っているという。毒蛇被害は人口300人くらいのこの村では,年に多くても1人か2人だし,今年も初めてだそうだ。救急治療にあたっていたエイドポストオーダリーのD氏に訊くと,村には抗血清がないので,毒を吸い出すことしかできないのだが,そのキットが無くて困っているということだった。ちょうど飛行機がこれからウィピムに行くのだから,載せていって貰って,ウィピムヘルスセンターで治療したら? と言ったら運賃を払えないという。救急なのだしMAFという航空会社は教会運営なのだから,人道支援でタダでやってくれてもいいんじゃないかと思ったが,村人が有料だというからには有料なのだろう。いくらかかるのか訊いてみたら,患者に2人の付き添いがついて260キナだという。ちょうどさっきATMで金を引き出したところなので,それくらいなら払える。"I'll pay because life-saving is very important"(人命救助はとても大切だからぼくが払うよ)と言って260キナをエイドポストオーダリーに渡したら,村人の間から自然に拍手が湧いたが,1万円程度のお金で命が左右されるっていうのは,やっぱりとても悲しいことだと思い,複雑な気持ちだった。

いつものB君の家に荷物を置いてココナツジュースを飲みながら少し休んでから飛行場に戻り,ウィピムから飛んできた先発隊2人(+彼らがウィピムから雇っているアシスタント1人)と合流。2人とも元気そうで何よりだ。たぶんウィピム滞在はまだ1週間程度だというのに日焼けが凄かった。

今回は2日しか時間がないので,荷物を置いてからすぐに独立記念祭で人々が集まっている広場に向かい,去年の調査から今までに起こった人口動態イベントをすべて教えて貰った(細かいところは後で補足的に聞き取りする)。これが,立ったまま1時間以上の聞き取りになったので疲れ果ててしまった。が,汗で気持ち悪いので水浴びに行き,蚊帳を吊って寝袋を用意して,等々していたら日が暮れた。先発隊が米や缶詰をもってきたので,晩飯はそれを料理して貰った。湯を沸かして貰って,札幌に行った時に天使大学の佐藤先生から頂いたコーヒーをドリップして飲んだ。ブルーマウンテンとソフトブレンドを飲み比べたら,明らかにブルーマウンテンの方が美味だった。これは飲んだ3人の一致した見解だから気のせいではないと思う。

その後は調査隊内で少し情報交換してから就寝。独立記念祭のクロージングイベントがあるという話で,若い先発隊は見に行くという話だったが,結局何も無かったらしい。


【第8日目】 カパール村での調査(2013年9月19日)

現地時刻7:00起床。朝食は芋スープとご飯だったか。

村人の中にはいろいろな人がいる。去年の調査時には重機操作の訓練中でマダンにいたEさんもその一人だ。長く伸びている村の丁度真ん中付近に,去年はなかった巨大な集会場があって驚いたのだが,今年初めに帰って来た彼が若者を指揮して作ったそうだ。壁はこれから作るそうだが,凄く立派な柱12本の上にトタン屋根が乗っていて,雨は避けられるし風は通るので,壁が作らない方がいいんじゃないかと思った。朝はまず今年の選挙で村長になったばかりのP氏のところに行って,この集会場を借りて調査をさせて貰う許可を得た。カパール村集会所での先発隊による生体計測風景

調査といっても,ぼくの調査内容は30年前に故・鈴木継美先生が調べて論文にした伝統医療のフォローアップだし,先発隊の調査内容は活動記録と生体計測なので,当然二手に分かれることになる。先発隊もカパール滞在は短いので,活動記録は行わず,昨年との比較やウィピム村との比較を目的に,学童の生体計測をすることになった。独立記念日の週とその次の週は2週間連続で学校が休みなので,学童は基本的に暇で,何か変わったことをしているとわらわらと集まってくる。彼らの仕事は順調にスタートしたようだった。それを見届けてから,ぼくは集会場の反対側に大人を集めて,伝統医療として使われている薬草や技術を細かく聞き取っていった。困ったのは,30年前の調査になかった薬草がいくつか出てきたことだった。これは30年前の聞き漏らしなのか,その後新しく使うようになったものなのか(グァバなんかはそうだと思う。民間医療とはいえるが伝統医療とはいえないだろう),区別が難しい。彼らは昔から使っているというが,どれくらい昔なのかがわからない。自生しているものは伝統的に使われてきたと考えていいように思うが。ともかく,30年前に出てこなかったすべての薬草について,後でブッシュに入って教えて貰うことにした。

一通りグループインタビューが終わったところで昼になった。先発隊も測定を中断し,皆で昼食をとった。たしか昼も芋スープとご飯だったと思う。インスタントコーヒーを飲んでから,午後の調査を開始した。ぼくはB君に案内して貰ってブッシュの中へ。写真だけでは植物名を記録できないので,LUMIX-TZ7の特徴である音声入りの動画撮影をしながら静止画も撮れるという機能を活用した。結構バッテリーを食うのだが,1時間くらいなら大丈夫だった。最後2種類だけ見つからない植物があったが,ぼくが疲れ切ってしまったので,B君が探して持ってきてくれることになった。

村に帰って,ボーッと先発隊の生体計測を眺めていたら,マダン帰りのEさんがやってきて,明日は自分もダルーに行くから一緒の便だな,という。彼は重機操作のライセンスを持っているのだが,いま仕事がなくて求職中なのだそうだ。けれどもダルーに行くのはそのためというよりは,彼の近い親戚の若者がダルーの病院で亡くなってしまったので,遺骨を村に運ぶ手筈をつけるためらしい。飛行機では運べないのか,誰かがディンギーとトラックを乗り継いで100キナかかるという話をしていた。翌日のことだがカパール村でも遺骨運びと埋葬のための資金カンパがあって,数枚の2キナ紙幣の下に10トヤ貨幣や20トヤ貨幣がたくさん入ったボールを持った人が村の中を歩いていたので,ぼくも2キナ紙幣2枚だけ出しておいた。こういう場合は蛇に噛まれた人を救急で運ぶ航空運賃とは違って,全額出してしまうのは逆に良くない。別に明文化されているわけではないが,そういうルールなのは,日本でも同じだと思う。

16:00頃には調査を終了し,水浴びをしてから休憩。晩飯も芋スープとご飯だったと思う。ブッシュを歩いたせいか疲れ切っていたのと,明日の飛行機が7:30だとかいう話なので,早めに眠った。


【第9日目】 待ちぼうけ(2013年9月20日)

現地時刻7:00起床。荷造りをしてからコーヒーを飲み,MAFのエージェントのところに行って荷物と体重を計量し,料金を払ってから飛行場に向かった。8:00頃着いて,若者たちの記念写真を撮ったりしながら,最初は普通に飛行機を待っていた。

しかし,待てど暮らせど飛行機はやってこない。エージェントも飛行場に来ない。喉は渇くし,周りにはエスコート役の少年が何人かいるだけなので,何もすることがない。喉の渇きに耐えかねて,途中でココナツを獲りに村に戻ったが(昼飯はココナツジュースと,皮を剥いで持ってきた若いココナツの中身だけ),集団猟をやるからといって,B君も昼前にはそっちに行ってしまった。それでもなお,一縷の望みをかけて飛行場近くの家の軒下で待ち続けていたのだが,16:00過ぎ,少年たちも諦めたら? と言い始めた頃,エージェントからの今日のフライトはないという伝言をもった男がやってきて,E氏と2人,村に戻るしかなかった。

先発隊2人は,昼頃,無事にルアル村に向かったようだ。トラックで行ったので,まあ楽に着けただろう。

B君の家の脇で悄然としていたら,隣の家の女性がふかした芋をくれた。Eさんと2人で食べたが,実に美味だった。喉が渇いていたのであまり大量には食べられなかったが。

暫くするとB君が,自分は何も獲れなかったが,村全体では大猟だったと言って帰って来た。鹿3頭と,無数のワラビーが獲れたそうだ。話の途中でMAFのエージェントがやってきたので,E氏と2人で,明日のフライトをコンファームしてくれと言って詰め寄った。例によって通話料が残っていないというので,逃げられないように,じゃあぼくの電話から通話料を10キナ分移してやるから,その場でマネージャーとパイロットに連絡しろと言って,電波を受信できる場所に行った。パプアニューギニアのDIGICELという会社のSIMカードでは,*128*相手の番号*移したい通話料#でダイヤル発信し,問い合わせに対してAnswerで1を返すと,10キナを移すときは30トヤの手数料で通話料が移せるのだ。村人の中にはこの仕組みを使って多少上乗せしてトップアップサービスをすることを商売にしている人もいる。通話料を移すのは簡単にできたので,後はエージェントが連絡を取るのを待つだけだ。ついでにGmailを受信したが,緊急の連絡はなかったので,日本に残っているチームリーダー宛に,今日ダルーに戻るはずだったけれども飛行機が来なかったので明日に延期というメールを打っておいた。空港に迎えに来てくれるはずだったダルーのLさんにも同内容のショートメールを打ったら,すぐに,B君から電話が欲しいという内容の返事が来た。そうこうするうちにエージェントにマネージャーからのショートメールが来て,明日は飛ぶから飛行場で待っているように書かれていた。パイロットと連絡がつかなかったのは多少不安だが,Eさんもぼくも,それで妥協することにした。

せっかく一晩長くいることになったのだから,追加で聞き取りをすることにした。B君はハンティングで疲れがある様子だったが,つきあってくれてありがたい。日が暮れてからだと,村の中を歩いていてもわりと涼しくて,蛍が飛んでいたりしていい感じだ。途中,去年は村の運営委員の1人だったS氏一家と出会って,feastに招待された。独立記念祭が無事に終わったことを祝う会食だそうだ。去年は運動広場で行われたのに参加したが,今年は集会場があるのでそっちでやるという。昼のハンティングはこのためだったのか,と今更ながら気づいた。怪我の功名というか,飛行機が来なかったおかげでfeastに参加できるのは嬉しい。独立記念日祭りの無事終了を祝う食事会

追加聞き取りが終わる頃に,ちょうど電波が届く場所に来たので,B君がLさんに電話した。サゴをもってきて欲しいとのこと。運賃が20キナかかるが,それくらいは問題ないので,サゴを用意してくれればもちろんOKだと答えた。帰宅後,feastは遅くなるだろうし,今日はろくに食事をしていないから軽く食べておこうとB君が言うので,ラーメンとサゴで軽く腹を満たした。2人で集会場に行ったら,村中の人が集まっていて,ここで一斉聞き取りをしたら効率いいなと思ったが,さすがにそんな雰囲気ではなかった。B君の長兄であるS氏が提供した発電機を使って蛍光灯がつけられていたが,携帯電話を便乗充電している人が何人もいるのが面白かった。B君がS氏を見ながら,そういえば今年4月だったか5月だったか,隣のビスワカと呼ばれる人たちが自分らの土地に侵入して勝手に使おうとしたので戦闘になり,S氏と次兄のI氏が活躍して何人か病院送りにしたなあ,などと恐ろしいことを言う。確かに筋骨隆々で強そうなS氏とI氏なのだが,本当なんだろうか。そういうとき,村に5人いるという警察官はどうするんだろう。きっと一緒に闘ってしまうんだろうなあ。

手分けして調理した肉を持ち寄ったものが前の方に並べられていて,村長の演説(誰も聴いていないようだった)の後でそれを世帯数分の皿に分配するのだが,物凄く手間が掛かって,結局feastが始まったのは21:30過ぎ,眠ってしまった子供も多かった。B君の判断は正しかった。S氏から貰った一皿を食べおわったら22:00を過ぎていたので,まだfeastは途中だったが疲れたのでごめんと言ってB君の家に戻って眠った。


【第10日目】 ダルー帰還(2013年9月21日)

現地時刻6:30起床。だんだん身体が慣れてきたようだ。コーヒーとトイレットペーパーの残りを先発隊に進呈してしまったので若干困ったが,ティッシュペーパーがあったので用が足りた。ここのトイレは大きな空のドラム缶を地中に埋めて,上に小さな木枠の穴を開けておき,し尿を貯めるスタイルなので,とくにトイレットペーパーである必要は無い。けれども,せっかくだからエコトイレにして尿と便を分けて貯めるようにすれば,長持ちするし,便は堆肥化できるから,たぶんその方がいい。昔はあまり村人はトイレを使わなかったが,だいぶ定着したようなので,次に来る時はB君あたりにエコトイレの構造を説明してみるかな。

白湯と芋スープとサゴという朝食後,7:00にパイロットに確認が取れたというエージェントの話では8:30にカウィトの基地を出るので9:15にはカパールに着くだろうという話なので,8:30頃に飛行場へ。結局飛行機が来たのは9:30頃だったか。10:00過ぎには無事にダルーに着いた。この飛行機では,毎回ウォニエ村のすぐ近くを飛ぶので,いい航空写真が撮れる。今回も撮っておいた(下の写真)。

2013年9月のWonie村

Lさんとその夫のN氏,息子のJ君ともう一人が待っていてくれたので,E氏も含めて6人でLさんの家に歩いた。そこでLさんたちにお土産を渡した後,ホテルまではJ君がエスコートしてくれた。クキホテルには前日から宿泊すると言っていたのだが,MAFが飛ばなかったので来られなかったと言ったら,とくにキャンセル料は要求されず,今夜1泊分だけ払ってチェックインできた。カードが使えないという不便さはあるが,この大らかさはクキホテルの美点だと思う。そのおかげか,LさんやB氏,ドロゴリのディンギーオペレータも,あまり臆することなく来てくれるし。カードが使えないのと予約の確認に難があるので来年からホテルを変えようかとも思ったが,これは変えるわけにはいかないなあ。J君にはここまでエスコートしてくれたお礼にコーラを進呈したら,喜んで帰って行った。シャワーを浴びた後,簡単に洗濯をして室内干しして,メールをチェックして(さすがに何十メガバイトか溜まっていたが,全部受信しても10キナくらいしか減らなかった),昼寝して,としていたらあっという間に夜。

18:30から晩飯。チェックイン時に頼んだクレイフィッシュが美味だった。疲れが出たのか早く眠った。


【第11日目】 ポートモレスビー経由ケアンズへ(2013年9月22日)

現地時刻5:40起床。さすがに昨夜早く眠りすぎたか。クーラーと扇風機を稼働させた甲斐があって洗濯物がちゃんと乾いたので荷造りができた。カパール村にいた間のメモ打ちができていなかったので打っていたが,一昨日の途中までで7:20になったので朝食をとりに階下のレストランへ。

朝食はトーストとソーセージとポーチドエッグとスパゲッティナポリタンの缶詰(今日は豆が切れたのか?)であった。コーヒーと紅茶のセルフサービスで使われる湯沸かし器が去年と同じものに戻った。このところは,独立記念日絡みで変則営業だったのかもしれない。

ポートモレスビー行きの飛行機は13:30発なので,11:00にチェックインだろうから,その頃に空港に送る車を用意してくれるとのことなので,それまで部屋でメモ打ちの続きとメール送受信。メモ打ちが何とか現在に追いついた。

暫くするとB氏が見送りのためにホテルまで来てくれたので,10:40頃にチェックアウトして,バスで空港へ。チェックインの手続きはかなり時間がかかったけれども無事終了。荷物はケアンズまでスルーにはできず。でもモレスビーからケアンズまでのPXはディレイになっているから時間は十分あるから安心しろ,と係員がいう。ダルーからモレスビーへの飛行機はディレイにならないのかが不安だが,仕方ないのでOKした。12時までに戻ってこいというので,それまでB氏と,やはり見送りに来てくれたLさんの夫と話をしていた。ウェスタン州の将来についてなど。で,12:00になって待合室に入ったはいいのだが,13:35を過ぎてからやっとAir Niuginiが着くまで,実に待ち長かった。CymbalsのAnthologyを全部聴いてしまった。

ポートモレスビー到着は予定より30分遅れだった。8Dという席だったが,8Cが空席だったので,先頭でタラップを降りることができ,到着ゲートにも一番に着いた。荷物が出てきたのは20番目くらいだったが,最近のロスト続きからすれば十分に良い荷物運だった。

国際線乗り場までは徒歩10分もかからない。チェックインは30分待ちくらいで終わり,カードを書いて出国審査,手荷物検査とスムーズに進んで,ケアンズ行きの待合室に着いたのは16:15のボーディング予定時刻の30分前だった。が,vaio-saを開いてポートモレスビー到着をtweetしたりメモの続きを打ったりしていたら,16:05頃なのに,PX098のボーディングコールが掛かった。ダルーの空港係員が言っていたPX098がディレイというのは大嘘で,予定時刻より早いくらいだ。逆にダルーからケアンズへのPX801が30分のディレイだったので,危ないところだった。

PX098はほぼ定刻に離陸し,わりと美味な軽食が出た後,飛行時間1時間20分くらいでケアンズ空港に着いた。ここも申告するものが何もないので,入国審査も税関も一番で簡単に通過できた。バスに乗ろうと思ったが,チケット売り場が開いていないし,どうもバスが動いている気配がない。面倒なのでタクシーに乗ったら,ホリデイ・インまで23ドルだった。バスだと12ドルからとなっていたので,2人以上ならタクシーの方が得だ。ホリデイ・インはホテルクラブというサイトで予約したのだが,チェックインは実にスムーズだった。部屋のテレビでNHKプレミアムが見られる機能もあり,無線でも有線でもインターネット接続はできるのだが,どちらも有料なのが悩みどころだ。コインランドリーがあるのだが,21:00までしか使えないらしい。とりあえず食事と買い物に行って来よう。

町中を歩いてみたら,Night Marketなんてものはあるし,屋外で生演奏しているレストランもあるし,美味そうな中華料理屋もあるし,どこで食べようか迷いながら,ひげ剃りを買うためのスーパーマーケットを探した。かなり中心部にWoolworthがあって,もちろんひげ剃りはあったのだが,6個入りで1.08ドルというバンズがあって,明日の朝食をこれを使ったハムサンドを作ろうと思い立ったので,ももハムと,ほうれん草ペースト(ほうれん草の若葉とカシューナッツとパルメザンチーズを細かく切ったもの)を探し,ついでに土産物も買って,等々やっていたら30分以上掛かってしまった。でも60ドル程度で今夜の飲み物と明日の朝食と土産とひげ剃りが全部揃ってしまったと考えれば効率の良い買い物だった。

晩飯はNight Marketの外れにあるフードコートで,ワンタン麺12.90ドルを買おうとしたら今日は麺類は終わってしまって,中華&オリエンタルなビュッフェしかやってないの,と言われたため,13.50ドルの大プレートを買って,そこにチャーハンとか肉野菜炒め各種とかシンガポールヌードル(焼きビーフンのようなものだった)などを一杯に盛った。テーブルで食べられるので,安い割には充実した晩飯であった。

ホテルに戻ったらちょうど21:00だったので,コインランドリーで洗濯することはできないが,まあいいか。さっきのWoolworthで好奇心に駆られて買ってしまったコーヒー豆入りのヨーグルトというのを食べてみたが,やっぱりゲテモノだった。ちょっと後悔。

ネット接続が,9ドルで2時間か,19ドルで1日の2択なのが悩ましい。しかし空港で接続できる状況を往路に作っておいたので,ここは9ドルで2時間の方だろうな。そうと決まれば,その前にひげ剃りと入浴を済ませておこう。

……というわけで,ひげ剃りと入浴の後で2時間ネット接続し,鵯記のアップロードとか,あまちゃん情報のフォローとか,ドラゴンズの様子を見まくってしまった。高橋周平選手の打率が順調に上がってきているのがいい感じだ。


【第12日目】 帰国の日(2013年9月23日)

現地時刻の5:30頃目が覚めてしまった。ここで起きてしまうと早すぎるので二度寝しようと思ったが,6:00頃諦めて起きた。朝飯は昨夜Woolworthで買ってきたバンズとハムとほうれん草ペーストで即席サンドを作って食べたが,4個が限界だった。仕方ないのでバンズ2個は空港まで持っていくことにした。チェックアウトは9:00頃にするつもり。

結局8:45頃チェックアウト。タクシーを呼んで貰って空港まで19.60ドルだった。昨日より安いのは,空港発の場合はたぶん初乗りが高いのだと思う。Jetstar関空行きのチェックインは簡単に完了。9:05からカウンターが開いて,9:06に着いたので,全然待たずに済んだ。しかし,11:50ボーディングなので待ち時間が長い。ネット接続は1時間205円と1日395円で,つい前者を選んでしまったが,後者にすべきだった。

1時間近くネット接続してから出国審査に行ったら長蛇の列だった。先に出国審査を済ませてしまうんだった。が,審査自体は何の問題も無く済み,手荷物検査場も何の問題も無く通過したので,カフェオレを飲みながら,朝のパンの残りを食べようか捨てようか(たしかJetstarは飲食物の持ち込みは禁止だったと思う)思案中。ここで2度目の205円を使ったが,1時間は使い切らないうちにボーディング時刻になりそう。

パンを捨ててしまってから,温かい飲み物の持ち込みは禁止だが,パンや水なら持ち込んでも問題ないことに気づいた。それなら機内でクレジットカードで買うより,待合室の売店で買う方が安いので,ペットボトル入りの水を買ってからボーディング。

A330-200という小さな飛行機なので,ろくな機内エンタテインメントが無く(iPadの貸し出しを人数限定でしているらしいが),vaio-saを開いてAIMP3で音楽を聴きながら(ノイズリダクション付きのインナーイヤホンは,飛行機の中では絶大な効果を発揮する)写真整理を開始し,ついでに,ここまでの記録を別ページに独立させよう。関空から三宮に向かうバスの中でアップロードしたい。


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