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ソロモン諸島での研究を長く続けているが,中でも最も長く調査している場所が東タシンボコ区である。現在までのところ,下記3つの研究費をいただいて調査を継続している。
ソロモン諸島の首都ホニアラから東に約50 km離れた東タシンボコ地区は,ホニアラとの交通の便が良くなったのをきっかけに,人口が激増し近代化が進行中であった。研究代表者の中澤が1995年から1996年にかけて行ったフィールドワークの結果によれば,ホニアラとの間で人も物資も激しく動いていたし,主食もサツマイモだけではなく,インスタントラーメンや米が毎日のように食卓に並ぶ状況であった。低栄養の者がいなかったのと同時に,高血圧や肥満,糖尿病の患者が出現し始めている状況があった。一方,この地区は,もともとマラリアが定常的に高度流行していた。JICA,WHO,Welcome Trustなど諸機関の協力を得て,1980年代,90年代には医学訓練・研究所(SIMTRI)が殺虫剤処理した蚊帳を配布したり,クロロキンで治療できるようにしたり,といった医療サービスを提供しつつあったし,マイクロバスの1台が救急車の機能を果たし,重症の者をホニアラの病院やアブラヤシプランテーションにある診療所に搬送する態勢が整っていたが,住民検診の際に見られるマラリア原虫陽性割合は高いままであった。
2000年前後にソロモン諸島を襲ったエスニック・テンション(ガダルカナル島民とマライタ島民の間で起こった部族間紛争)の結果,川に架かった橋が破壊され,ゲリラが交通の要地に拠点を構えたこともあってホニアラと東タシンボコ区の交通は途絶え,近代化の流れは完全にストップし,マラリア治療もできない状況に陥った。既に貨幣経済が浸透しつつあり,米やラーメンなどの購入食品への依存度も高まりつつあったために,まったくの自給自足だった頃よりも,この交通遮断の影響は,より大きかったと考えられる。
2004年になると,RAMSI (Regional Assistance Mission to Solomon Islands)と呼ばれる多国籍の治安維持部隊の活動が定着したこともあって,ホニアラの経済活動はかなり復旧したし,2004年秋には橋も概ね復旧したけれども,タシンボコ地区住民がすぐに経済活動に復帰することはできず,マイクロバスやトラックの運行も再開できていなかった。
実は,途上国ではこのような状況は頻繁に起こっており,近代化と社会不安の相克が地域社会の住民の生活や健康状態をどう変えるのか,人口や社会システムへのマクロな影響はどのように出てくるのか,その地域社会は今後どうなっていくのか,住民は何を必要としているのか,といった諸側面のアセスメントをすることは,国際保健上,大きな意義があるといえる。
本研究では,1995年から1996年にかけてのタシンボコ地区住民の詳細な調査結果を,エスニック・テンションという大きな社会不安を含む10年間の後のフォローアップ調査によって得られた結果と比較した。また,現在のライフスタイルと健康状態について,2006年9月の道路再開通以降の変化も含めて,マラリア感染状況,栄養状態,QOL,ホニアラへ行く頻度,尿検査結果などの諸側面からの分析を行っている。
ソロモン諸島のエスニック・テンションがもたらした地域社会システムへのインパクトについては,宮内(2003)によるマライタ島での研究[1]やFraenkel (2004)のガダルカナル島での研究[2]があるが,いずれも健康影響を定量的に評価したものではなく,ライフスタイルへの影響の民族誌的な記載も多くはない。アフリカ等において内戦の健康影響(とくに飢餓)をみた研究はいくつかあるが,本研究のように多様な側面から同一集団をフォローアップしたものはほとんどない。
我々はさまざまな専門領域から長年にわたってソロモン諸島を調査してきており,このような学際的なコラボレーションに好適な研究グループである。研究代表者の中澤と分担者の山内は,エスニック・テンションが終結した後,橋が復旧されていないために海路しか交通手段がなかった平成14年にタシンボコ地区を訪れ,地域の長老の何人かに対して,政情が安定したら実施する計画として,今回の研究計画の概要を説明し協力の内諾を得た。
研究代表者の中澤は小集団人口調査のエキスパートであり,聞き取り調査,栄養調査やマラリア罹患に関連する行動分析でも十分な経験を積んできた。分担者の山内は栄養・代謝研究のエキスパートであり,行動観察,QOLやヒューマンニーズの調査でも十分な経験を積んできた。中澤も山内も,メラネシアの村落に住み込んでフィールドワークをした経験を累積すれば2年以上になり,ピジン語による調査が可能である。分担者の川端と大前はマラリア罹患の予防と治療について長年にわたる経験をもち,マラリアに関してはあらゆる分析に対応できる体制にある。ソロモン諸島での医学研究にはMedical Advisory Committee及び倫理審査委員会の審査を通る必要があるだけではなく,必ずカウンタパートを定め現地の研究者と共同研究という形にしなければならない。我々はSolomon Islands Medical Training and Research Institute (SIMTRI)のMalaria Control SectionのDirectorであるBernard Bakote'e氏とは古くから何度も共同研究をしており,今回も彼がカウンタパートとなった。SIMTRIのラボテクニシャンやVector Control SectionのDirectorであるAlbino Bobogare氏とも旧知の関係であり,今回の調査に際して全面的な協力を得ることができた。
本研究では,2006年2月,2006年9月,2007年2月,2007年9月,2008年2月の5回にわたって,マラリア検診,尿検査,インタビュー,行動観察などを含むフィールドワークを行った。スムーズに調査が進められたのは,SIMTRIの協力が得られたことと,村人が全面的に我々の調査に同意協力してくれたおかげである。1995年当時に村のリーダーとして中澤を暖かく受け入れてくれたFrederick Samu氏がエスニックテンションが終結して間もなく亡くなってしまったのは大変残念なことであったが,氏の長男であるJames Elliot Samu氏と次男のChristian Samu氏が中心となって引き続き全面的に調査に同意協力し続けてくれているのはありがたいことである。ここに記して感謝したい。
なお,大量に得られたデータの分析はまだ途中であり,分析が進み次第,随時学会や論文等で発表する予定である。このページに掲載した未発表の図や数値も最終的な確認が済んでいないため,今後の発表においては若干の修正がなされる可能性があることに留意されたい。
対象集団はガダルカナル島内でホニアラ市から東に約50 km離れた東タシンボコ区の住民である。なかでもMbambala,Koilo,Rogu,Omi,Sasapi,Kaio,Kepiという7つの小村落の居住者を対象とした。小村落はある程度親族集団としてのまとまりをもっており,もっと広い親族単位で見ると,彼らはMbambalaに居住するチーフの下で結束しているので,Mbambalaの人々と呼ぶことにしたい。
実はソロモン諸島では1990年代初めに,当時自治医大にいらした石井明先生を中心に,マラリア感染状況の比較介入研究が行われており,Mbambalaエリアは対象地域の1つであった。もっとも,介入といっても,指先穿刺によって塗沫標本を作ってマラリア検査を行い,陽性だった人には投薬するだけであり,3ヶ所の中では最も介入度合の小さい地域であった。他に蚊帳を配布する地域なども選定され,介入効果についての検討が行われてきた。
ソロモン諸島国のセンサス結果によれば,東タシンボコ区全体の人口は,1976年に2667人,1986年に4646人と,10年間で74.2%増加していた。この時期の人口増加は,主として東タシンボコ区の西縁を流れるMbalisuna川まで舗装道路が通じたことによるが,1990年頃にはさらに東のMberande川にも恒久的な橋がかかり,さらに約50 km東のAolaまでは自動車の通れる道路が拓かれた。またMbalisuna川とMberande川の間にはCDC3(CDCはCommonwealth Development Corporationの頭語で,当時1〜3まで拓かれていた。民族紛争で一度は壊滅的な打撃を受けたがGuadalcanal Plains Palm Oil Limited 【頭語はGPPOL】として再出発し,2007年現在では1〜5が稼動している)という大規模なアブラヤシのプランテーションが開発され,サボ島やフローレンス島などからも労働人口が激しく流入しつつあった。タシンボコ地区の中ではより早く拓かれたCDC2及びTetere地域を中心とする西タシンボコ区で1960年代から現金経済が浸透していたのに比べると(Lasaqa 1972[3]),1980〜90年代に開発が進んだ東タシンボコ区は,比較的近代化が遅かったということができよう。東タシンボコ区の面積は168 km2なので1986年の人口密度は28人/km2と比較的低いが,道路沿いと海沿いだけに人口が集中していてそれ以外は無人に等しいため,調査対象地区の人口はかなり稠密である。
Mbambalaを中心とする対象7村落の常住人口は1995年11月から12月に行った人口調査によれば,男性95人,女性92人の,合計187人であった。1931年には(MbambalaとKaioしかなかったが)男性15人,女性32人であり,1955年には男性52人,女性34人,1966年には男性34人,女性35人という資料があるので(Lasaqa 1972),この地区でも激しく人口増加したことがわかる。男性の人口に変動が激しいのは,アブラヤシやココヤシのプランテーションでの労働力として頻繁に移動があったためだが,西タシンボコや東タシンボコの中でもMbalisuna川以西とは違って,大資本によるプランテーションではなく,自分たち自身で比較的小規模なプランテーションを拓いて管理してきたのが特徴的である。同様に,森林伐採でも,ウェスタン州などで行われてきたような外国企業による大規模な伐採ではなくて,Private Sawmillと称して,個人単位で材木企業と契約してチェンソーを借りて木を伐って製材し,貯めておいて業者の回収を待つというスタイルが一般的だった。彼らの居住地区の面積は1 km2に満たないが,畑やプランテーションを含む所有地の面積は10 km2程度であり,土地は不足していなかった。
対象地区には,1995年当時4台のマイクロバスと3台の大型トラックがあった。Mberande川に橋が架かってからは,前者は主に人を,後者は主にスイカ,サツマイモ,ココヤシ,パイナップルなどの農産物をHoniara市に運ぶために毎日稼動していた(橋が架かるまでは,人が川を徒渉して農産物を対岸まで運んでいた)。この他に,コプラ業者,木材業者,カカオ豆業者のトラックがHoniara市から定期的にやってきていた。また,大型トラックの所有者の一人はトラクターも2台私有しており,農地を耕すために分単位で賃貸されていた。対象地区およびその周辺村落には,マイクロバスを使ってHoniara市に毎日通勤している人が十数人いた。村から市の中心部までの所要時間は約1時間から1時間半であり,マイクロバスの運賃は,片道6 SBD(SBDはソロモンドルの略記。6 SBDは1995年当時の為替レートでは日本円にして約200円であったが,2008年現在のレートだと100円強にあたる)であった。通勤客用には月に240 SBDという割引運賃が設定されているものの,相当に高額な運賃である。それでも引き合うほどHoniaraでは生活費が高く,村では金がかからないということである。ちなみに給与は,スーパーマーケットや本屋の店員の場合で,年間5000 SBD程度,技術系の公務員やタイピストなどの技能職で年間15000 SBD程度であった。通勤客以外の村人もインスタントラーメン,米,ビールといった輸入食品や生活雑貨を購入するために頻繁にHoniaraに出かけるので,バスは毎日ほぼ満席であり,乗客が多いときは2往復することもあった。
食事は,伝統的には主食として焼畑で作るサツマイモ(クマラ),ヤムイモ,タロイモ,キャッサバなどのイモ類とクッキングバナナ,タンパク源としては村のすぐ北側の海に入って網で獲る魚とマングローブブッシュに多数生息している貝類が食べられていた。ココナツの実の白い果肉の部分は,乾燥してコプラとして出荷する他にも,削ってスープのベースにするなど多面的に使われていた。しかし1995年に米またはラーメンを食べる頻度を尋ねたところ,大半の人が1日1度は主食として米かラーメンを食べ,コンビーフやツナ缶も頻繁に食べられていた。ビールは主にホニアラへの通勤客が村に帰ってくるときに買ってきて,他の村人に振舞うという形で消費されていたが,村の売店(カンティーン)では販売されていなかった。カンティーンではタバコ,カミソリ,マッチ,鉛筆,ボールペン,ノートといった生活用品の他,インスタントコーヒー,ミロ,缶詰など,保存のきく食品も売られていた。
インフラストラクチャーとしては,電気・ガス・水道はないが,Mbambala地区から徒歩数分のところに位置するKuluという小学校の敷地に,ニュージーランドの援助で設置された,太陽電池の力でポンプを動かして深井戸からタンクに揚水するスタイルの水利施設があって,飲み水として近隣の多くの村人によって利用されていた。
東タシンボコ区を含むガダルカナル島北東部居住者の現地語はLengo語という。Lengo語はオーストロネシア語族に含まれ,他の地域で話されているオーストロネシア語族の言語(たとえばウェスタン州で広く話されているロヴィアナ語など)と若干の共通語彙をもつ(例えば,"Ko mai"は来なさいという意味で,「mai」が「来る」を意味するのはロヴィアナ語でも同じである)が,通常,他の言語族との会話はピジン語で行われる。ソロモン諸島のピジンはパプアニューギニアのピジンと若干異なるが,互いに了解可能である。ピジンは語彙の多くを英語から借用して成立した言語であるため,英語が話せればピジンを覚えるのはそれほど難しくない。例えば,英語ならばI want to ask your age.というところを,ピジンではMI LAIKEM ASKEM OL YIA BILON YU.(但しソロモン諸島ではOL YIAの代わりにAGEと聞いても大抵通じる)という具合である。また,高校以上の学歴をもつ人が村にも何人かいて,この人たちは英語を話し,ある程度読み書きすることもできる。
したがって,基本的に聞き取り調査はピジンで行うこととした。問題は,ピジンでは抽象的な概念を問うことが難しいことと,高齢者の中にはピジンさえもわからない人がいたことであった。そのため,調査においては村人の中から通訳を雇用し,これらの問題にぶつかったときには訳してもらった。基本的に通訳は常に同じ人(CS氏)に依頼した。こうすることによって通訳の違いによるバイアスをできるだけ避けた。CS氏は神父である(1995年にはホニアラのカレッジで神学を学んでいる途中だったが,その後正式にキリスト教の宗派の1つであるAnglicanの神父になった)ため村人に尊敬されているばかりでなく,フィジーのUniversity of South Pacificに2年間留学して神学と歴史学を学んでいたので,QOLの質問項目など,英語で記述された複雑な概念でも,正確に理解して現地語で村人に説明することができた。
ソロモン諸島に限らず,メラネシアの多くの国の住民はクリスチャンである。多くの宗派が混在しており,同じキリスト教であるとは信じがたいほど教義も多様である。Mbambala地区では20世紀初頭にMelanesian Missionaryの宣教師が訪れて教会を建てて以来,Anglicanという宗派を信仰する人が多く,ついで1920年からCatholicが入ってきたので,その信者が多かった。これらは比較的戒律が緩いことで知られる。1932年からやや厳しい戒律をもつEvangelical Churchが入り,1951年からは食や行動規範にさまざまなタブーをもち土曜が休みであることで知られるSeventh Day Adventist (SDA)がMbembeで長期貸借契約を結んで布教を始めたので,Kepiの一部にはSDAの信者も存在する状況である。宗教活動も,現金経済に組み込まれるきっかけとなる一つのできごとであった。
なお,彼らはクリスチャンでありながら,伝統的な精霊信仰も完全に捨てたわけではない。ヴェレという呪術を使う人がいて,ガダルカナル島の上空を3分間で1周するとか,ヴェレマン(ヴェレの呪術を使う術者)は首から呪術の道具が入った小袋を提げて森を歩いていて,その姿を見破られると気が狂ったようになり老人の術者でも屈強な若者10人掛かりでやっと止められるくらいに力が強くなっているのだとか,精霊の力に依存するヴェレに関して多くの語りがあるし,それが生活の中に生きている。実際,1995年の調査時に,神父になるために神学を学んでいたCS氏に,キリスト教信仰とヴェレは矛盾しないのかと尋ねてみたところ,神はすべてをわかっているので,ヴェレを使うも使わないもその人次第であって矛盾することはないとのことであった(CS氏はその後神父になったので,2007年9月の調査時に同じ質問をしてみたが,返事は同じだった)。神が世界観の中心にあるのに対して,ヴェレはヒトの側が選択できる技術であるかのような返答である。しかし,それを額面どおりに受け取っていいのかどうかはわからない。村の周りの森は,前述の通りPrivate Sawmillによる森林伐採が進んでいるが,ヴェレの力を含めて超自然的な力の源であり祖先を祀ってある場所として木を伐ってはいけない「聖域」があって,そこの森だけは手付かずのままに残されているのは,ヴェレが単なる技術ではないことの証左ではなかろうか。
食生活の市場経済化は,内生的ではなく,むしろ外因によると考えられる。例えば,インスタントラーメンが好まれるようになったのは,ラジオを通じた宣伝の効果が大きな役割を果たしたといわれている。1980年代初頭にマレーシアからインスタントラーメンが輸入されてホニアラのチャイニーズショップなどの店頭に並ぶようになったと同時にFM放送を通じて大量のインスタントラーメンの宣伝が流れ,村のカンティーンでも仕入れて売るようになったのである。一度調味料の「うまみ」を覚えてしまうとそれを忘れられないのはヒトにとっての性であろう。換金作物としてのスイカやエシャロットの作付けも,外から種を持ち込んだ人がいたからできたことである。とくにスイカは,村とホニアラの間にある農業研究所の研究員として働いていた村人が,いろいろな品種のスイカの種を紹介してから作付けが進んだ。養鶏は1990年代に本格化したが,雛と餌をホニアラから買ってきて,村の養鶏場で育て,成鳥になったらホニアラの業者に引き取ってもらうという,完全にホニアラ主導型のビジネスであるにもかかわらず,その利益で,基盤がコンクリート打ちで2階建てでトタン屋根という立派な家を建てる人まで現れていた。養鶏はそういう意味で現金収入源として大きな役割を果たしたが,それだけではなく,50 SBDで村人がいつでも鶏1羽を買うことができるようになったので,クリスマス・正月あるいはキリスト教の聖人のお祭りの日など,大きな行事のあるときにはハレの料理として鶏肉料理が登場するようになった。
ソロモン諸島は独立後も英連邦に属しているため,海外からの援助はかなりあった。東タシンボコ区にも国際機関あるいは海外のNGOやNPOのかかわりの歴史は古い。WHOやGlobal Fundなど,多くの国際団体がマラリア対策活動をしてきた他,合衆国のPeace Corpが1983年にKulu Schoolの近くに初任者研修所を作り,語学研修をしたり,ホームステイをして住民との付き合い方を学んでいた。 彼らはEthnic Tensionで引き上げてしまい,その後は来なくなったが,Tension以前にはさまざまな実質的な援助をしたので近代化に果たした役割は大きかった。日本のJICA(国際協力事業団)もソロモン諸島内各地にJOCV(海外青年協力隊)を派遣して教育側面などで協力活動をしてきた。また,ホニアラ中央病院の建物やヘンダーソン空港の建物,さらにBalisuna川やMberande川という大きな川にかかる橋は,日本のODAの資金によって日本のゼネコンが作ったものである。近年では国連加盟を目指す台湾が,味方を作ろうとして小国に資金をばら撒いている一環で,ソロモン諸島にも大きな金銭的援助が送られてきている。台湾からの援助の一例として,ヘンダーソン空港の近くで実験水田を随分以前から運営しているが,なかなか商業ベースに乗るところまではいかないようである。これらのインフラの変化を通じて,東タシンボコの村人の暮らしにも間接的に国際協力は影響を与えてきた。また,ごくわずかとはいえ,我々の研究自体も,村人の暮らしに何らかの影響を与えてきたという側面は否めない。
東タシンボコ区に病院はない。西のNguviaには2008年1月に病院ができたが,それまではナースが常駐する診療所がいくつか点在するだけであった。ソロモン諸島の国立病院は医療スタッフが交代勤務をして24時間受付され,かつ無料で診療を受けられる。医師数は不十分だが悪くないシステムである。Mbambala地区には診療所がなく,もっとも近くの診療所はNguviaまたはRuavatuまで車で15分(徒歩なら近道を通っても1時間以上)動かなくては利用できなかった。診療所のナースはかなりの治療を独力ですることができ,マラリアを問診等から診断して患者にクロロキンを処方したり(確定診断のため採血して作ったスライドをSIMTRIのマイクロスコピストに検鏡してもらうために送るが),木から落ちて頭から出血している子供の創傷部の消毒と縫合くらいは自力でできる。村人は,マラリアでも重態だったり,あるいは吐血した場合などは直接ホニアラまたはNguviaの病院を受診するが,通常は診療所のナースに診てもらっている。
1995年には村で救急車が用意されており,急患については搬送可能だったが,Ethnic Tensionで救急車が破壊されてしまってからは,2008年に至るまで復旧していない。
メラネシア社会の特徴として,ワントークシステムはしばしば言及される。同じ村出身(広くいえば同じ言語族)の人々の間での強力な相互扶助のありようを指す。例えば,村から公務員として町で生活するようになった人が1人いたら,その人の一族郎党はいうに及ばず,同じクランの人であれば我が物顔に町での居候を決め込むことができる。最近は個人所有の思想もかなり広まってきたが,ワントーク間の相互扶助は当然のこととして受け入れられている。
ソーシャル・キャピタル(social capital)は,日本語では社会関連資本と訳されることが多い。社会疫学という学問分野の中心概念の一つである。疫学は,ある特定の原因に注目して,それがあると,どの程度疾病に罹患しやすくなるかを調べる学問だが,社会疫学は,原因として社会経済要因に注目する点に特徴がある。たとえば,教育歴が短く収入が少ない喫煙者で肺がんが多発しているような状況があった場合,古典的な疫学が注目する原因は喫煙であり,教育歴と収入を交絡因子として扱い,その影響を調整して(教育歴や収入の水準別に層別化して同じ層の間で比較するとか,教育歴が短く収入が低い人だけに対象を限定するとかいった手段をとる),喫煙者は非喫煙者に比べて何倍肺がんを発症しやすいかを調べるだけであった。しかし,社会疫学においては,教育歴や収入そのものを疾病の社会経済的な原因として捉え,他の要因の影響を調整した上で,教育歴が短いと十分に教育を受けた人に比べて肺がんにどれほどなりやすいか,といった仮説を調べる。言ってみれば,古典的な疫学では医療や個人の努力で改善可能な要因を明らかにしようとしてきたのに対して,社会疫学では,個人の努力だけではどうしようもない要因であっても,公衆衛生政策の重点的対策をとるべきハイリスクグループを特定したり,政策的介入によって疾病を減らせる可能性があればよいという立場にたって疾病の原因を探るのである。ハーヴァード大学公衆衛生学教室のLisa F. BerkmanやIchiro Kawachiらによってその重要性を指摘され,社会格差が生む健康格差への対策というスローガンで米国のみならず日本でも注目が高まっている。実はいわゆる途上国における疫学研究でも,社会経済的因子の健康影響が明らかになれば,国際協力などをする際の指針作成に役立つので,社会疫学と銘打ってはいないが,教育歴や収入の健康影響について行われた研究は少なくない。
社会疫学が対象とする社会経済的因子として,上述の教育や収入などミクロレベルのものや,人口密度や収入の不均質度などマクロレベルのものに加え,その中間に位置するソーシャル・キャピタルが重要である。ソーシャル・キャピタルの例としては,隣人をどれくらい信用できるか,困ったときに助けてもらえる人は何人くらいいるか,近隣での助け合いの程度が挙げられる。ソーシャル・キャピタルは地域住民の相互作用で生まれ,対象者個人に直接影響するだけではなく,地域の雰囲気と密接に連関しているマルチレベルな概念といえる。いわゆる途上国においては,ソーシャル・キャピタルの研究はほとんどないのが現状だが,メラネシア社会ではワントーク間の互恵性が高度に発達しており,ソーシャル・キャピタルについては,いわゆる先進国とはまったく違った様相がみられる可能性がある。
仮にワントークシステムのためにソーシャル・キャピタルの水準が高いことが健康状態の向上に寄与してきたとすれば,民族紛争によってソーシャル・キャピタルが損なわれ,健康状態にも悪影響が生じた可能性はある。しかし,村人に聞き取った結果では,民族紛争の最中でも,隣人信頼度は常に100%で,決して損なわれることはなかった。このことは,紛争などでもたらされる社会不安が常に「外部の」ものであって,社会自体はきわめて安定していることを示す。しかしプランテーションワーカーの流入は少なくなく,彼らが村の娘と婚姻するなどで社会は開いているので,今後彼らの社会がどう変わっていくのかは注意深く見守っていく必要があるだろう。
本研究を遂行するために群馬大学医学部疫学研究倫理審査委員会,およびソロモン諸島国保健省による医学研究倫理審査委員会の審査を受け,承認を得た。承認された計画上のポイントは,研究実施が日本からの我々の研究グループとソロモン諸島医学訓練研究所(Solomon Islands Medical Training and Research Institute; SIMTRI)の共同研究であること(それに際してMOUを取り交わしておくこと),研究の対象者たる村人には研究内容とそれに伴う利益・不利益の十分な説明を行い,参加の決定は村人の自由意志によっていつでも100%変更可能であること,参加に際しては文書によるInformed Consentを得ること,などであった。
MOUにおいては,SIMTRIにfacility feeを支払うのが1つのポイントであった。SIMTRIや州政府保健局は健康問題を直接解決する課題への関心は高いが,基礎研究への協力は優先順位が下がりがちであり,その点を保障するためにはfacility feeという形でSIMTRIのテクニシャンや施設,車などを利用する便宜を図ってもらうための実質的な貢献をする必要があった。もっとも,WHOやGlobal fundからだと,総研究費の1/3がfacility feeの相場だそうだが,本研究は旅費がほとんど全てを占めているため,旅費を除いた研究費をfacility feeの算定根拠とすることで合意した。
1995年末の調査は,ヒトの行動とマラリア罹患リスクの関係を調べることが第一の焦点であったが,行動を規定するのは,生活様式まで含めた文化と,その基盤となる自然環境・社会環境のすべてであるという人類生態学的な見地から,人口センサスと人口動態調査,生体計測と食事調査による栄養状態の評価,尿検査による健康状態の評価,ライフスタイルや社会システムの聞き取りなど,村に2ヶ月間住み込んで,包括的調査を実施したものであった。その結果,橋が通って生活が近代化するとともに食生活やライフスタイルも変容し,成人病が出始めていると考えられることや出生力が上昇傾向にあること,それにもかかわらず住民のマラリア有病割合が定常的に20%以上であること,蚊帳の使用はマラリア罹患と有意な関係がみられないけれども日没後の服装によってマラリア罹患リスクが異なると考えられること,それがタシンボコ地区での主要マラリア媒介蚊の昆虫生態学的特性と整合していることなどを明らかにし,複数の学会や書籍,学術雑誌等に発表済みである。以下,1995年調査の主な知見をまとめて示す。
前述の通り20世紀後半のソロモン諸島では首都ホニアラへの人口一極集中が進行中であったし,それに伴う2つの理由で近郊村落の人口も増加しつつあった。1つは近郊村落自体でのプランテーション開発によって労働人口が流入することで,もう1つはホニアラまでのバスでのアクセスが可能になったことなどによる生活の変化の影響による人口増加であった。
バンバラ地区でセンサスを行い,男性95人,女性92人の合計187人の常住人口について得られた情報を分析した。人口構造の指数を次の表に示す(各指数の意味は人口学のページを参照されたい)。1994年のソロモン諸島全体の国勢調査の結果と近く,老年化指数が低い,ピラミッド型人口構造をしていた(バンバラ女性の年少人口指数が低いのは0-4歳の女児が少なかったためだが,おそらく偶然変動であろう)。日本の1920年に比べても老年化指数は低く,きわめて若い人口構造といえる。なお,ココヤシとカカオのプランテーションで季節労働者が雇われていたが,当時は5,6名と少数であり,村人との婚姻はなく,かつ毎年入れ代わっていたため,季節労働者は分析に含めなかった。ただし,その後季節労働者の中にも村の娘と結婚して村に住むようになった者が出てきたことは前に述べたとおりである。
バンバラ地区 パプアニューギニア ソロモン諸島 日本 日本 男性 女性 1994年 1994年 1994年 1920年 従属人口指数 102.1 73.6 78.6 100.0 43.7 71.6 老年人口指数 6.4 1.9 7.1 6.0 20.2 9.0 年少人口指数 95.7 71.7 71.4 94.0 23.5 62.6 老年化指数 6.7 2.6 10.0 6.4 86.1 14.4
生活の変化による人口増加への影響があったのかどうかを調べるため,出生の詳細な分析を行った。小集団のため死亡はデータが少なすぎたことと,バンバラ地区では意図的な出産抑制がまだほとんど行われていなかったことと,また,年月日のレベルでデータが得られる人口学的イベントとしては出生が唯一だったことから,第1子出生と第2子出生の間隔を1980年代後半以降とそれ以前で比較した。一般に途上国では,都市の一部を除けば,年齢や時点に関して信頼できるデータを集めることはきわめて困難であるが,バンバラ地区の出生データについては,可能な限りベイビーカードを確認して信頼性を高めた[4]。さらに,家系と女性の再生産歴の聞き取りによって,データに死亡による脱落がないことを確認した。
出生について検証する仮説は,食生活、授乳状態等の変化による産後不妊期間の短縮が起こっているかどうかとした。出生のデータについては,月までわかるデータの他に年までしか確かでないケース(区間打切りと同値)があったことと,第2子がまだ生まれていないケース(右側打切り)があったことから,ハザードモデルを用い,第1子出生が1985年以前の女性(A群21名)とそれ以降の女性(B群19名)について,別々に出産間隔を推計して比較した。具体的には群ごとに均質な出生ハザードを仮定し,それぞれの逆数で表される出産間隔に差があるかどうかを検討した。均質な出生ハザードの仮定によって生存関数は単純な指数関数となる。その結果,第1子と第2子の出産間隔の推定値は,A群約39ヵ月,B群約35ヵ月となり,若干短縮している傾向があった。4ヵ月の差をどう解釈するかは問題であるが,ソロモン諸島の都市近郊村落では,都市化の進展にともなって(摂取カロリーの増加などを介して)産後不妊期間が短くなっている可能性が示唆された。
食事について24時間思い出し調査の結果から,以下のことがわかった。夕食では80%近い人が伝統的な主食を食べていたのに対して,昼食ではその割合は40%に満たず,ホニアラほどではないが,多くの人が米やラーメンやビスケットなど,購入食品を主食としていた。これはバンバラだけの現象ではなく,ガダルカナル島全体でも,また隣のマライタ島でも似たような傾向であった。伝統的な主食の中でもサツマイモに限って詳しく見ると,小村落によってはSasapiのように全員が1日に1度はサツマイモを食べていたところもあれば,KoiloやRoguのようにその割合が半分に満たないところもあった。
表.バンバラ地区住民の性・年齢別生体計測値(1995年)
性別 年齢階層 身長 (cm) 体重 (kg) BMI (kg/m2) N Mean SE N Mean SE N Mean SE 男性 成人 37 164.8 0.9 37 63.4 1.8 37 23.4 0.5 未成年 33 128.6 1.2 47 25.8 0.9 33 16.7 0.4 女性 成人 39 152.8 0.9 39 51.9 1.1 39 22.1 0.4 未成年 39 127.3 1.1 47 26.1 0.9 39 17.6 0.4 * 年齢階層で成人としたのは20歳以上,未成年は20歳未満である。身長は成人でも未成年でも年齢調整したが,体重とBMIは未成年で年齢と有意な相関があったので未成年の年齢についてのみ調整した。
栄養状態については,生体計測の結果から,以下のことがわかった。身長,体重は成長期のうちはばらつきが小さいが,成人ではとくに体重に大きなばらつきがみられた。BMIとFAT%には強い相関がみられ,成人では女性が男性よりもFAT%が高い傾向を示した。30歳代の男性のBMIは平均して25を超えており,とくに肥満者が多かった。しかし尿検査で糖尿を示したのは60歳代の男性で一人,50歳代の女性で一人だけだったので,臨床症状が現れるほどには肥満の影響はでていないといえる。このことは,男女とも徒歩で一時間ほど離れた畑まで毎日農作業をしに出かけ,成人男性の中には木材伐採と製材をする人もいるために,充分に運動量があることによると考えられる[5]。
表.小村落別尿検査異常所見陽性割合(%)
村落名 N* タンパク** 潜血*** ケトン体 ブドウ糖 Mbambala 29 0 10.3 10.3 3.5 Kaio 19 5.3 10.5 0 0 Kepi 20 10.0 0 0 0 Sasapi 11 9.1 18.2 0 0 Omi 10 0 10.0 0 0 Koilo 11 0 9.1 9.1 0 Rogu 12 0 66.7 0 8.3 * 検査数
** ±は異常所見に含めなかった
*** 有病割合は村によって有意に異なっていた
尿pH検査値のヒストグラムは先進国と同じく弱酸性にピークがあり,アルカリ尿の人は少なかった。このことは食生活がイモ類と野草と魚を専らとする伝統的なものから,米,ラーメン,缶詰など購入食品への依存度が高まっていることを反映していると考えられた。
村人の中にはホニアラに通勤したり,ココヤシやカカオのプランテーションを経営したり,養鶏場を経営したり,トレードストアを経営したり,"Private Sawmill"として森林伐採・製材をする人も若干いたが,基本的には焼畑農耕が彼らの生業であった。焼畑は森を切り開いた後で火を入れ,まずヤムイモを作付けし,次いでタロイモ,サツマイモ,キャッサバの作付けと収穫を何年か繰り返し,イモの出来が悪くなってきたらバナナを植え,最後はココヤシを植えておいて別の焼畑を開くのが基本的なパタンである。
焼畑の収穫物は自家消費するほか,ある程度溜まる度にホニアラに売りに行き,現金収入を得ていた。また,多くの家では基本パタンの焼畑に加え,川原など水はけの良い土地でスイカやエシャロットなどの換金専用の作物を作り始めていた。
畑は村のすぐ近くにある家もあれば,1時間ほど歩かないと着けない家もあった。炎天下を歩くのは辛いので,基本的に平日は朝早く畑に行って暫く農作業をして,昼休みは畑の近くの木陰で長く休みをとり,夕方になってから農作業の続きをして帰ってくる人が多かった。その後に晩飯を用意し,漸く涼しい風が吹いて過ごしやすくなったオープンキッチンで井戸端会議をしながら,比較的長い時間をかけて食事をするときが,彼らの至福の時間である。先に述べたKuluスクールにある井戸水か,あるいは川だったら湧き水の近くの比較的きれいなところで水浴びをするのも,夕方以降の時間帯が主だった。平日の昼間は暑いので,マラリアの問題を別にすれば,このライフスタイルは合理的である。
レクリエーションとしては,ホニアラに通勤しているような金持ちは休暇をとってウェスタン州に鳥撃ちに行ったりするのだが,それは例外的で,多くの人は村の中で気晴らしを探していた。なかでも1995年当時流行していたのが,"Social Night"であった。これは葉っぱで囲んだ空間で入場料を取って行われる屋外ディスコであり,若い男女の出会いの場となっていた。発電機とPAを使って大音量でレゲエ風味のロックをかけるので,年寄りは閉口していたが,若者には人気があった。
マラリア罹患に関連して実施した調査項目は,血液検査,検査前2週間にわたる住民の行動の直接観察,及び生活習慣の聞き取りであった。主要媒介蚊であるAn. farauti No.1の早晩屋外吸血性(とくに足首から下を吸血することを好む)という行動特性から,観察項目は, (1)場所,(2)衣服,(3)靴・靴下・サンダル等の3点とした。生活習慣については,7村落を巡回し,乳幼児を除く住民の約80%から,「その年のマラリア罹患(発症)経験及びその治療」,「蚊帳使用の経験」,「夕食を食べる場所」,「水浴びの時間帯」を聞き取った[6]。
血液検査の結果,マラリア原虫陽性は62名,陰性は89名であった。とくに熱帯熱マラリアが陽性者の9割近くを占めていた。蚊帳使用も含め,生活習慣と陽性割合には関連がなく,行動観察の結果でも,陽性の者と陰性の者の間で日没後2時間にいた場所,靴・靴下・サンダル着用の頻度に有意差は見られなかった。しかし,陽性の者の方が,陰性の者よりも,日没後 2時間に長ズボンや長いスカートをはいている頻度が低く,短いズボンや短いスカートで短いシャツを着ている頻度が有意に高かった。
衣服は個人ごとに固定しているのではなく,どの人も長いズボンをはいたり短いズボンをはいたりしていたことから,予防効果βをもつ行為をするかどうかが個人ごとに日々確率変動する分集団(その割合がp)を組み込んだ新しいSEIRモデルを立て,モンテカルロシミュレーションを行ったところ,集団全体の感染率を低下させるためには,βが0.3の場合(衣服の場合),少なくともpが95%以上でなければならないことがわかった。また,β=0.8でもpが 70%程度では感染率の低下は平均60%程度にとどまるが,β=0.8かつp=95%の場合は2年以内に100%マラリアが根絶できることがわかった。この結果は,マラリア対策における集団中のカバー率と健康教育の重要性を示すものと考えられた。
1998年から2003年まで続いたエスニック・テンションは,ソロモン諸島の人々にさまざまな影響を与えた。激戦地であり実に60%もの人が住居を失ったとされる東タシンボコ区(Fraenkel, 2004)では,とくにその影響は大きかったに違いない。
本研究ではまだ橋と道路が完全には復旧しておらず,ホニアラへの交通が不便だった2006年2月と9月,橋と道路の完全復旧とマイクロバスやトラックなど公共交通の復活から約1年が経過した2007年9月,それから更に半年が経過し,その途中で東タシンボコ選出の国会議員Derick Sikua氏が首相になったことで,いろいろな意味でホニアラへの距離がより近くなった2008年2月に集中的な現地調査を行った。そのほかに,2007年2月にもマラリア検査を実施した。
仮説としては,2006年2月と9月の調査結果にはエスニック・テンションの影響が残存していて,1995年の状況と比較することで,それがより鮮明になると考えた。
小村落名 1995年11月 2006年2月 2006年9月 Mbambala 43 59 66 Kaio 27 23 31 Kepi 33 25* 50 Sasapi 17 33* 52 Omi 23 50 50 Koilo 23 15 18 Rogu 21 19 23 * 新しく分かれてできた分村の人口を調べていないため,過小評価になっている。
Mbambala,Kaio,Kepi,Sasapi,Omiの人口が増え続けているのに対して,KoiloとRoguの人口は変わらないかむしろ減っていた。これにはいくつかの理由が考えられる。まず,KoiloとRoguはこの地域の中で最も蚊が多く,マラリア有病割合が高いことがある。そのため暮らしにくくて移住したという家族がいくつかあったし,マラリアで死亡した人も何人かいたので,そのために人口が増えなかった可能性もある。別の理由としては,KoiloとRoguはマイクロバスの運行経路からすると,この地域の中で最もHoniara寄りに位置し,Lengarau,Tumbosaといった開けた場所につながっているため,エスニック・テンションの影響を強く受けた可能性がある。ただしインタビュー結果からは確認できなかった。
2006年2月の尿検査は,バンバラにおいて折悪しく葬式が行われている最中の調査となってしまったために,スポット尿を用いるしかなく,かつエリア外からの参加者が多くて,1995年12月の結果と比べることは適切でないかもしれないが,190人のスポット尿をN-Multisticks-SG-L(マイルス三共)を用いて検査した結果,陽性所見は亜硝酸6人,タンパク12人,潜血6人,ケトン体2人,ビリルビン1人,グルコース3人,白血球12人にみられた。潜血陽性者は1995年に比べると少ないように思われた。また,pHは酸性側とアルカリ側に2つのピークをもつ二峰性の分布を示した。ソロモン諸島の伝統的な食生活であるイモとバナナが主食で魚と野草は食べるが肉を食べないという状況だとアルカリ尿になりやすいので,この結果は,購入食品の摂取が減った人が少なからず存在していることを示していると考えられた。
2006年9月には1995年と同じく早朝尿を分析することができた。用いた試験紙は2006年2月と同様にN-Multisticks-SG-L(マイルス三共)である。各項目ごとの小村落別陽性者数を下表に示す。
表. バンバラ地区で2006年9月の尿検査により異常所見が認められた人数
小村落名 検査総数 ウロビリノーゲン タンパク 潜血 ケトン体 ブドウ糖 ビリルビン 白血球 亜硝酸塩 Mbambala 55 2 0 1 1 0 0 5 3 Kaio 16 0 0 2 0 0 0 0 0 Kepi 33 0 1 0 0 0 0 2 0 Sasapi 46 1 2 2 1 0 0 3 0 Omi 30 0 1 0 0 0 0 1 0 Koilo 14 0 0 0 0 0 0 2 0 Rogu 12 0 0 1 0 0 0 0 0
陽性者の割合は明らかに1995年より低くなっていた。とくにブドウ糖とビリルビン陽性の者は皆無だった。KoiloとRoguもとくに陽性所見が多いということはなかった。尿pHの分布は,2月に比べるとややアルカリ側のピークが減ったように見えるが,まだ二峰性を保っており,伝統的な食生活への回帰傾向は残っているようにみえた。このことから考えると,エスニック・テンションによって購入食品の入手が困難になったことから伝統的な食生活への回帰が起こり,糖尿などはかえって抑えられるようになった可能性はある。
1日3食のうちで米を食べる回数を横軸に,尿pHを縦軸にとってプロットすると,負の相関関係があるようにみえる。米の摂取頻度が高いことは食生活の近代化(あるいは購入食品への依存)が進んでいることを示すと考えられるが,そういう人ほど尿pHが酸性側に偏っていることがわかる。この傾向は統計学的に有意であった(相関係数-0.34,p=0.007)。一方,1日3食のうちでサツマイモ(クマラ)を食べる回数を横軸に,尿pHを縦軸にとってプロットすると,正の相関がありそうにも見えるが,統計学的に有意ではなかった。サツマイモを1度も食べなくてもアルカリ尿の人がいたために正の相関が崩れていた。ただし,そういう人はキャッサバやバナナを食べていて,購入食品を食べていたのではなかった。
エスニック・テンションの心理的な影響は,感受性の強い子供に,成人に対して以上に大きな影響を及ぼしている可能性がある。神戸大学では阪神淡路大震災の後に心理的な後遺症が残存したことを踏まえ,PTSDの調査のためにIES-Rという質問紙を開発していたので,本調査でもそれを利用した。
PTSDについては2006年2月と7月(9月ではなく)に詳細な聞き取り調査を実施した。7月の調査では子供のPTSDを中心に調べ,対象地区である東タシンボコの学校のほか,ホニアラ市の高校とマライタ島の高校でも調査を実施した。IES-RによってPTSD症状を比較したところ,紛争の影響を直接受けた場所と,紛争の影響ではじき出された人々が多数流入した場所に住んでいた子供はIES-Rスコアが地区ごとの平均でみて30点から34.5点と高く,ほとんど紛争の影響を受けていない子供のIES-Rスコアが平均16.5点であったのとは明らかな差があった。
紛争が完全に終結してから3年が経過してもPTSDが残っていることは,紛争の影響を強く受けた子供には適切なケアが必要であることを意味する。今後ソロモン諸島政府保健省あるいはガダルカナル州保健局がそうしたアクションをとるべきであろう。なお,詳細な分析はUtsumi et al. (2007) として発表済みである。
論文としては未発表なので簡単にまとめる(追記:2010年にYamauchi et al.として発表された)。
2006年9月の調査では,マラリア検査・血圧測定・生体計測を含む健診実施の前夜,調査対象の住民に調査協力を依頼し,尿サンプル用の紙コップを渡してくることで,参加率が大幅に向上し,住民の8割近くをカバーすることができた。したがって代表性は十分にあると判断される。
WHOQOL-BREFは,WHOが開発したQOL質問紙が,元々100問あったのを26問に短縮したもので,日本語版を使うには版権使用料が必要だが,英語版,中国語版,タイ語版など,いくつかのバージョンがWHOのwebサイトで公開されていて自由に利用できる。本研究では英語版を使用し,適宜ピジンまたはLengo語に通訳してもらいながらインタビューを行った。
生体計測は標準的な方法を用いて実施した(身長は携帯身長計GPM, Switzerlandを用いて1 mmの精度で,体重は携帯用デジタル体重計TANITA HD-654を用いて100 gの精度で測定し,BMIを計算した。また,グラスファイバー製テープメジャーを用いて上腕囲,ウエスト囲,ヒップ囲を0.1 cmの精度で測定し,皮脂厚計Holtain, UKを用いて上腕三頭筋及び肩甲骨下の皮脂厚を0.2 mmの精度で測定し,これらの値を元にしてDurnin and Womersley, 1974及びSiri, 1956の式で体脂肪率を計算した)。また,デジタル血圧計を用いて血圧も測定した。生体計測と血圧を測定した対象者のうち成人は88名(男性39名,女性49名)であり,そのうちWHOQOL-BREFに回答した者は57名(男性29名,女性28名)であった。
WHOQOL-BREFに回答した者の身長は男性165.3±5.7 cm(値は平均±標準偏差,以下同じ),女性153.5±4.8 cm,体重は男性60.0±10.5 kg,女性52.3±8.8 kgと男性の方が高値だったが,BMIは男性21.9±3.1 kg/m2,女性22.1±3.2 kg/m2と差が無かった。WHO-ISHの基準によれば男女とも約8割が正常範囲のBMIを示し,低体重も過体重も少なかった。上腕囲と収縮期血圧は男性が女性より有意に高く,ウェストヒップ比,体脂肪率,皮脂厚は女性が男性より有意に高い値を示した。QOLは身体,心理,社会,環境のどの領域についても,また総合点についても男女差はなく,環境領域以外は3.4より大きなスコアを示したが,環境領域だけは男女とも平均が3点を下回った。これは交通の不便を反映している。
2006年9月の現地調査において,成人を対象に,前出のCS氏を通訳にして,エスニック・テンションの前後において,(1)隣人はどれくらい信頼できるか,(2)ホニアラへ行く頻度,(3)利用できる医療施設,(4)さまざまな組織における役の数(社会的なつながりの数と考えられる)を尋ねた。さらに,エスニック・テンションによって受けた心理的影響と物質的影響をそれぞれ,なし,弱い,中程度,強いから選んでもらった。
すべての質問項目を聞き取れた対象者数は女性25人,男性26人であった。もっとも特徴的な結果は,エスニック・テンションによって村を追われた経験をもつ人も含め,全員が常に「隣人は強く信頼できる」と回答したことであった。ワントーク社会におけるソーシャル・キャピタルが多少の社会不安ではゆるぎないことを意味するのか,あるいは隣人信頼度という質問項目ではソーシャル・キャピタルを聞き取れないのか,今後の検討が必要であるが,社会疫学のフレームをそのままでは適用できないとわかった。心理的な影響は大多数が「強い」だったが,まったくないという男性も1人いた。物質的な影響は,なし,弱い,中程度,強いが,それぞれ,11人,14人,10人,16人であり,養鶏や店を経営していた人が強い影響を受けたと回答した。
ホニアラに行く頻度についての結果を下図に示す。エスニック・テンションがあった1998年から2003年の間については,ホニアラに一度でも行ったことがある人は,聞き取りを行った51人中1人だけであった。エスニック・テンションが終結した後は毎月1度,あるいは2週間に1度程度のペースでホニアラに出る人が増えたが,テンション以前に比べるとまだ頻度は低く,とくに毎日通勤する人がいないのが大きな違いであった。
利用できる医療施設については,最も近かったBinu診療所はエスニック・テンションの影響で破壊され(写真),次に近いNguviaの診療所も電力供給が途絶したので変わらざるを得なかった。テンション前は,まったく医療施設を利用しない人が9人,Binu診療所が 9人,Nguvia診療所 16人,Honiara 病院8人,Ruavatu診療所 14人であった。それに対して,テンション後はまったく医療施設を利用しない人が6人,Binu診療所 2人(破壊される前),Nguvia診療所 37人,Honiara病院5人,Ruavatu診療所 5人と,圧倒的にNguvia診療所を利用する人が増えた。マイクロバスがないため,Nguvia診療所まで徒歩では2時間近くかかるし,電力供給がないのでワクチン備蓄もなく,できるのは創傷の治療とクロロキンやアスピリンをもらうことくらいだが,それなりに役に立っているようだった。ただし,テンション前はマイクロバスやトラックに便乗して診療所に行くことができたので15分程度で着けたのに比べると,利便性は大幅に低下した。
社会組織の参加についての結果を次の図に示す。テンション前は平均 1.078 範囲 0-4,テンション後は平均1.255 範囲 0-7で,差は統計的に有意でなかった(paired t-test, p=0.253)。
マラリアについては,2006年2月にはバンバラ地区以外の人も含めて217人,指先穿刺で得た血液からスライドを作成し,ギムザ染色・メタノール固定を行ったものを顕微鏡で調べた。この対象者は,弔問のためにバンバラに来たら無料で健診を受けられるチャンスがあったので受けた,という人たちを大勢含んでいた。したがって,体調が悪いので受けておくという人が相対的に多い可能性があり,Passive Case Detectionの弱点を免れない。
2006年9月は健診前夜に各小村落に早朝尿採取用の紙コップを配って回った際に呼びかけたので,ほぼ満遍なくバンバラ地区各村落から参加があり,質の高いActive Case Detectionだったといえる。参加者総数は248人であり,そのうち223人が対象7村落の住民であった。2006年9月の小村落別常住人口と検査数を次の表に示す。
小村落名 Mbambala Kaio Kepi Sasapi Omi Koilo Rogu 合計 常住人口 66 31 50 52 50 18 23 290 マラリア検査数 57 16 37 51 35 15 12 223 受診割合(%) 86 52 74 98 70 83 52 77
KaioとRoguの受診割合が若干低めだが,それ以外は大多数の村人が受診したといえ,普通に暮らしている住民がどの程度原虫を保持しているのかを評価できる。なお,2006年2月も9月も,顕微鏡的診断の結果に基づき,可及的速やかに村を再訪し,熱帯熱マラリア原虫陽性の者はクロロキンとファンシダール,三日熱マラリア原虫陽性の者はクロロキンとプリマキンによる標準的治療を受けた。結果としては,2006年2月も9月も,原虫陽性割合には小村落間で違いがあり,KoiloとRoguで陽性割合が高い傾向が1995年から継続していた(どちらの村でも陽性者が多い家と少ない家があるような印象を受けた)。しかし,原虫の種類については,1995年には熱帯熱マラリアが主だったのに,2006年には2月も9月も三日熱マラリア主体に変わっていたことがわかった。小村落を区別せずに年齢階級別に原虫陽性の人数を集計した結果を次の図に示す。
* 混合感染を含むので合計は熱帯熱(P.f.)と三日熱(P.v.)の合計と必ずしも一致しない。
ソロモン諸島ガダルカナル島の気候では,2月は雨季,9月や11月は乾季であり,雨季の方が蚊が多く見られ,マラリア感染も激しいと見られている。1995年11月には全体でのマラリア原虫陽性割合が約30%だったが,2006年2月には31.8%となっており,雨季である2006年2月の方がやや陽性割合が高かった。しかし,熱帯熱マラリア原虫(Plasmodium falciparum)と三日熱マラリア原虫(Plasmodium vivax)のどちらが多いかに着目すると,1995年にはそれ以前からの知見と同様,熱帯熱が大部分を占めていたのに,2006年にはそれが逆転していたことがわかる(成人は必ずしもそうでないが,陽性者の大半を占める10歳以下の子供については明らかである)。
さらに,2006年9月には陽性割合そのものが25%に低下し,かつ三日熱が多い傾向は変わらなかった。三日熱マラリア原虫に感染していてもあまり症状が出ないことが多く,従来のソロモン諸島の保健統計で用いられてきたPassive Case Detectionに頼っていては,熱帯熱優位だった時期に比べると,マラリアに罹患していても診療所や病院で検査を受けることが減るために,原虫感染割合そのものが過小評価されてしまう可能性があることを指摘しておきたい。
2006年4月の国会議員選挙で,東タシンボコ区では教育省を辞任して出馬したDr. Derick Sikuaが当選した。ソロモン諸島には大学がないので,学士でさえ留学しなくては取得できないのだが,博士となると本当に数少ない,本物のインテリである。Ngalitabeli出身であり,現在もそこにホニアラの官舎とは別に家(写真)があるので,2006年2月調査時に選挙活動中だったDr. Derick Sikuaに頼んで調査隊の宿にした。彼の選挙公約は,東タシンボコ区への橋と道路の復旧や,水道敷設(将来的には全戸供給)など,インフラストラクチャーの整備を多く含んでいたし,村人もそれを期待していた。
Dr. Derick Sikuaは期待通りの政治手腕を発揮し,2006年9月末に橋と道路が完全復旧し,マイクロバスやトラックが村までホニアラから往復するようになった。1995年当時に比べるとマイクロバスの運賃が倍近くに値上がりしたが,それでも村に住んでホニアラまで通勤するというライフスタイルをとる人も現れはじめた。その後,2007年12月にDr. Derick Sikuaはソロモン諸島の首相になった。そのためか,インフラ整備は加速しているように思われる。
本研究の中では,2007年9月及び2008年2月の調査結果は,被害からの復興(とくに橋と道路)の程度とその影響を評価できる点に意義がある。以下,この2回の調査結果をまとめる。なお,2007年2月にもマラリア罹患についてのみ調査したので,マラリアの項では2007年2月の結果も記載する。
2008年2月はきわめて短期間に集中的に調査を行ったので,常住人口の変化は死亡が0で出生が2(KoiloとOmiで各1)であったことしか確認していない。しかし,2007年9月からの経過時間が短いことと,健診参加者がだいたい一致していたことから判断すると,2007年9月からそれほど大きな人口移動はなかったものと考える。
表. バンバラ地区の小村落別人口
小村落名 1995年人口 2006年9月人口 2006年9月から2007年9月の人口動態 2007年9月人口 2007年検査数 出生 死亡 転入 転出 Mbambala 51 66 1 2 5 10 60 48 Kaio 32 31 2 1 1 0 33 1 Kepi 33 50 2 0 0 0 52 4 Sasapi 20 52 2 1 0 4 49 42 Omi 26 50 1 1 0 0 50 14 Koilo 25 18 1 0 0 0 19 12 Rogu 23 23 2 0 0 0 25 20 合計 210 290 11 5 6 14 288 141
2006年9月から2007年9月の1年間で出生は死亡より多かったが,転入を転出が上回っていた。この中にはホニアラやGPPOL1(前述の通り,以前はCDC1と呼ばれていたが,運営母体の変化に伴って名称が変わった,アブラヤシの大規模プランテーション)で就職したための単身赴任あるいは一家での転出が含まれる。橋と道路の復旧が東タシンボコ区とホニアラとの交通の便を改善したことが,プランテーションの経済活動を活発にしたことによって大きな雇用が生まれ,周辺の村人がプランテーションに移り住むという副次的な効果をもたらしたことは注目すべきである。
2007年9月にも2006年9月と同様に早朝尿を採取し,N-Multisticks-SG-Lを用いて尿検査を実施した。2008年2月にも同様に実施予定であったが,航空機に預けた荷物の到着が1日遅れたために計画変更を余儀なくされ,尿検査はこれまで比較的多くの異常所見がみられたMbambalaとRoguの住民を重点的に実施することにした。
2007年9月の尿検査結果を次の図に示す。ニュージーランドの援助でKaioに新設中の教会で行われたキリスト教のFestivalが調査時期と重なってしまったため,KaioとKepiは検査数が異常に少なく,結果から除いた。ブドウ糖とビリルビンがまったく見られないのは橋と道路の復旧前と同じであったし,他の検査値もRoguで潜血が多かったのを除けばとくに悪化した項目はなかった。Roguで潜血陽性の人の中にはマラリア陽性の人が多いように感じたが今後の分析課題である。
2008年2月の尿検査によって異常所見が検出された数は,2007年9月とほぼ同じ傾向で,Roguで潜血陽性が若干多いのを除けば,とくに悪化した項目はなかった。尿pHの分布は,2007年9月は2006年9月よりもさらにアルカリ尿の人が減って,酸性側に偏り,1995年当時とほぼ同じ状況に戻ったようにみえる。2008年2月にはアルカリ側で小さなピークができているようだったが,これは検査数が少なかったための偶然のばらつきであろう。
生体計測に関しては,2007年9月は体重と血圧のみ測定し,2008年2月には2006年9月と同じ項目を測定した。2008年2月の成人(男性25人,女性43人)の結果のみ示す。身長は男性163.9±5.0 cm(値は平均±標準偏差,以下同じ),女性153.0±5.2 cm,体重は男性62.7±8.4 kg,女性52.6±9.0 kgと男性の方が高値だったが,BMIは男性23.3±2.9 kg/m2,女性22.4±3.3 kg/m2と有意差は無かった。この値を2006年9月の結果と比べると,身長と体重は変化ないが,BMIは男性のみ増加傾向にあった(女性は変化なし)。原因として考えられるのは,男性がビールを良く飲むようになったことである。2006年9月の調査後にホニアラとの交通が回復して以来,自宅にビールを備蓄しておき,1990年代のように毎日とは行かないまでも,頻繁にビールを飲む男性が増加した。ウエストヒップ比も性差がなくなってしまった。この傾向が続けば男性の肥満者が増加し,糖尿病などにもつながるかもしれないので,今後のフォローアップが必要である。
活動状況に関しては,ホニアラに行く頻度が2007年9月には2006年9月より増えた。理由としてはマイクロバスとトラックの定期運行のおかげで交通が便利になったことが大きいが,裏側では,それだけホニアラに出てする仕事が増えてきたということである。2008年2月にGPSと心拍計と聞き取りを併用して調べた結果では,コプラ作りの手伝いとか木材運搬の手伝いといったアルバイト的な仕事も(といっても明確にいくらの賃金と決まっているわけではないが)かなり入ってきていた。
2007年9月,2008年2月にも,2006年9月と同様にWHOQOL-BREFを用いてQOLを評価した。対象者数は各回50人程度だが,3回とも回答した人は14人だった。
結果は上のレーダーチャートの通りである。2007年9月にはホニアラとの交通が回復した影響が明確に現れ,環境領域のQOLが改善したこと,2008年2月には環境領域のQOLは高いままであったが,社会的領域のQOLがやや低下したことが特徴的であった。3回とも回答した14人について変化をみると,環境領域のみ2006年に全員が低く,2007年には誰もが同じようにスコアが上昇したが,それ以外の領域は2006年にはきわめてばらつきが大きかったのが,2007年,2008年とばらつきが縮小したことが特徴的であった。
まず,小村落を区別せずに年齢階級別に原虫陽性数をまとめる。2007年2月は受診数が少ないため直接比較はできないが,2006年9月の橋と道路の開通以前より続いてきた陽性割合の低下傾向が継続しているようにみえる。また,三日熱原虫の感染が多く,熱帯熱原虫が減少している傾向も継続していた。
雨季(2月),乾季(9月)によらず,1990年代に比べると原虫陽性割合はずっと低下していた。また,データとしては示さないが,陽性の場合でも感染強度が低く,血液中の原虫濃度が低くなってきている。このことは検査が難しくなる(見逃しやすくなる)ことを意味する。
1995年の調査の結果からヒトの行動変容によるマラリア感染防御の可能性を示したが,2006年以降の調査で1990年代と大きく異なっていたのは,乳幼児が靴下を履いて寝かされていることであった。このことが原虫陽性割合の低下に寄与しているとしたら,1995年の調査結果を住民に説明した効果が現れていることになるが,未確認である。
一方,1995年当時からの傾向として,KoiloとRoguに陽性の人が多く,かつ同じ村の中でも特定の世帯に集中して陽性者がみられる印象をもっていたので,Google Earthの航空写真を使って,各世帯から一番近い川(といっても河口が土砂でふさがっているために流れは極めて緩く,ハマダラカのボウフラにとって好適な繁殖条件を備えている)までの距離を画像解析して求めてみた。この作業は継続中だが,2007年9月のデータを用いた途中までの結果としては,Roguの何世帯かを例外として,弱い負の相関があるようにみえなくもない。この点については今後の検証が必要だが,村の周辺部に位置するか中央部に位置するかでヒト1人から吸血できる蚊の数が変わってくるために,周辺部ほどマラリア罹患リスクが高い可能性がある。
ソロモン諸島ガダルカナル島東タシンボコ区バンバラ地区では,1990年代に急速な近代化が進行中であり,生活のさまざまな側面にその影響が出てきていた。ところが,1998年から2003年までガダルカナル島とマライタ島の住民の間で吹き荒れた民族紛争の嵐は,バンバラ地区のみならずガダルカナル島全体の近代化を大きく停滞あるいは後退させてしまった。直接的な影響として,戦火によって多くのタシンボコ区住民が家を失い,家財道具を盗まれ,また戦闘によるPTSDは紛争終結後も長く残存していた。それは他方では近代化によって購入食品の過剰な導入に偏ったために成人病リスクが上がっていた状況を改善する方向にも影響した。
しかし,2006年9月に橋と道路が完全開通し,首都ホニアラとの交通が回復したことにより,状況は再び大きく変わった。人口移動が激しくなり,食生活の近代化も1990年代の水準にほぼ戻り,成人男性が太り始めた。尿検査の異常所見が目立って増えるほどではないが,フォローアップが必要であろう。
一方,この地区の風土病であるマラリアは,1990年代には重症化しやすい熱帯熱原虫が主で,かつ原虫陽性割合が30%以上という高水準で,健康に関する最優先課題だった。それに比べると,2006年以降の調査ではいずれも三日熱原虫が主になり,原虫陽性割合も低下傾向にあって,地域全体の問題としては解決しつつあるように思われる。ただし,どの対策が有効に寄与したのかは,今後の詳細な検討が必要であり,その結果次第では再燃の可能性もないとはいえないので,世帯集積性の問題と併せて,今後も研究を進める必要がある。
本研究では近代化と社会不安の相克がライフスタイルと健康状態に及ぼす影響を調べることが大きな目的であったが,近代化も社会不安も,それを担う実態は村に住む人々自身であり,ライフスタイルや健康状態の変化からのフィードバックがあって,事態はたんに近代化と社会不安の相克という以上に複雑であった。近代化が健康状態にもたらす影響にもプラスの影響とマイナスの影響の両方があり,社会不安自体は健康状態やQOLを下げるとはいえ,それが近代化にブレーキをかけたことで一時的かもしれないが健康状態にプラスの影響もあったかもしれないことが示唆された。
こうした状況はソロモン諸島に限ったものではなく,多くの途上国に当てはまると考えられる。本研究の知見を踏まえれば,そこへの援助や介入には意図せぬ副次的効果がつきまとう可能性があるので,多面的な予測の後に住民自身の判断に基いて援助や介入の可否が決められるのが理想であろう。
Last updated on February 20, 2011 (SUN) 15:43 .
Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.