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【第1843回】 今日も講義と講義準備とか+鄭君の道徳本の薦め(2018年5月23日)
- 6:10起床。インスタントラーメンを茹で,もずくとペッパービーフを入れて朝食。+冷や奴。
- 今日の講義は6限だけだが,今年は留学生がとっていて,今日やるクロス集計表の解析については資料を作っていないので作成中。合間にメールを見て返事を返すとか。14:30現在,まだ終わらない。明日の講義資料も作らなくてはいけないのに。
- 英語版資料の印刷が終わってメールをチェックしたら,部局ネットワークシステムの更新関係の提出書類がまだ出ていないという加圧メールが届いていた。本来ならそれ専門の管理者を置かなくてはできない仕事だと思うし,六甲の文系部局はそうやっているのだが,ここは2年前に退官されたA教授が一人で請け負っていたという経緯があるので,いまだに情報基盤センター運営委員と兼任になっている。昨年度からKHAN2017への移行ということで作業量が多く,しかも書類はExcelの書式に入力しなくてはいけないというのが辛い。いっそ全部本部で遠隔管理してくれてもいいのだが,たぶん地理的に遠隔地だから無理なんだろうなあ。
- とりあえず事情を説明するメールを送ってから明日の講義資料作成にかかる。あと1時間ちょっとで6限の講義をしなくてはいけないので急がねば。
- 医療人類学資料が完成に至る前に18:30となり,エビデンスベーストヘルスケア特講。時間いっぱい使って(若干延びて)クロス集計とその解析という話をした。最後に触れたポリコリック相関係数は時間が足らず,説明が速すぎたかも。
- 21:20まで掛かって医療人類学資料も完成したので,新長田でJRに乗り換えるという最短時間ルートで神戸駅へ。万葉の湯に入り,スーパーKOHYOで食材を買って終バスで帰宅。今日も疲れた。
- 世の中の大多数の人が,2冊(うち1冊の書評? は以前書いた)のどちらでも良いので鄭君の道徳本を読んでくれたらいいのに。「人を殺してはいけない」とか「情けは人のためならず」というときの「人」が人類一般でなく「仲間」を指し,道徳とは仲間うちの約束事としての「仲間らしくしなさい」という掟であって,そこには「仲間に危害を加えない」という絶対的な掟と,「仲間と同じように考え行動する」という相対的な掟が含まれ,絶対的な掟は古今東西ほぼあらゆる人類集団に共通しているけれども,相対的な掟は集団ごとに違っている,という整理の仕方は実にクリアでわかりやすい(ここで人類集団と書いた点も実は重要で,サイコパスで無差別殺人する人のように,絶対的掟を平然と無視する個人はごく稀に存在するし,その時にその人を――俗に人非人という言葉があるが,その通り,如何に非道なことをしても生物学的には人に違いない――どう扱うべきかというのは,また別の社会的合意を要する話である)。理系の父親が子供の素朴な疑問に答えて語りかける体裁の前著は小学校の,講義形式の新作(鄭雄一『東大教授が挑むAIに「善悪の判断」を教える方法:「人を殺してはいけない」は“いつも正しい”か?』扶桑社新書,ISBN 978-4-594-07950-5(Amazon | honto | e-hon))は中学の道徳の教科書にしたらいい。鄭君は仮説構築段階で宗教や老荘からアリストテレス,カント,デカルト,アダム・スミスなど定番を経て,ロールズやマイケル・サンデルに至るまで,古今東西の思想をバサッと粗視化しているのだが,それが妥当なのかどうかを検討させるなどすれば,高校でも教科書として使えそうだ。
- (鄭君はそうは書いていないが)たぶんカルトとは相対的な掟を絶対的な掟より重視する状態で,オウム真理教の信者がサリンをばらまいてしまったことが典型的だが,最近でもそういう風に考えると理解できる異常事態が多々あるような気がする。しかも仲間の範囲は常に変化するし(そもそも明確なボーダーが引けるとは限らないし),ここまでが仲間という主観が一致しないこともある。そこを意識しないと悲劇が生まれる。スポーツの試合は敵味方というけれども,敵も含めてゲームを成立させるための共同作業をする仲間であるはずで,「勝つためには何をしてもいい」という相対的な掟を,「仲間に危害を加えない」という絶対的な掟より優先させてはいけないのは当然で,それを破ってしまっては試合など成立しない。リーグから除名という声が出るのは当然だろう。鄭君の道徳本に書かれていることが,成人するまでに身につけなければいけないリテラシーとして広まってくれると,カルトや異常な集団の出現は防げると思うんだがなあ。
- 国際保健のrationalは,人類全体が仲間であるという点に立脚しているが,上で書いたようなことを踏まえると,問題の難しさがわかる。例えば,世界のどこかに西洋的病因論を信じず,具合が悪くなったときに呪術師による儀式で対処している集団があるとしよう。この集団で致命割合の高い感染症が発生し,しかもそれを鳥が媒介するため,パンデミックのリスクを否定できないという状況に陥ったとき,WHOは当然IHRに基づいて対策を始めるし,欧米の研究グループが現地に入るはずだ。このとき現地に入る医療チームや研究チームは,現地の人の協力を求めるわけだが,このとき,例えば「時間を守って欲しい」というようなことは相対的な掟だから強要できないということは,大抵の医療者や研究者もわかっているので,仕方ないなあと思いつつ受け入れて行動する。しかし,「感染した人に鳥が近づかないようにしなくてはいけない」というのは,感染防御であって「仲間に危害を加えない」絶対的掟だから,話せばわかってもらえるはず,と考えがちだ。しかし,例えば,呪術の儀礼として,具合の悪い状態の原因である悪い精霊を生きた鳥に移して治癒を図るというものがあったとすると,現地の人々にとっては,生きた鳥を近づけることを阻むこと自体が「仲間に危害を加えない」絶対的掟に反することになってしまい,正面衝突が起こるのは必然である。外部から入ったチームの人々は,何度言ってもわかって貰えない,と無力感を感じることになるが,現地の人々は絶対的掟を守ってくれないのではなく,世界観が違うゆえ,「仲間に危害を加えない」ための行為が真逆になってしまうということが原因だから,正攻法では合意に至れない。その悲劇を防ぐためには,現地の人々が信じる世界観や病因論を学んで,その説明原理を使って,生きた鳥を患者に近づけないのが当然だと思って貰えるような説得をするか,長い時間がかかっても科学的な病因論を現地の人々に教えて理解して貰い,感染拡大を防ぐために患者に鳥を近づけないようにすることを納得して貰うか,どちらかしかないだろう。しかも,後者の戦略をとった場合,(もしかしたらそれまで紛争解決や環境保全に寄与していたかもしれない)呪術師の権威は失墜するので,大きな社会変動が起こるかもしれない。そのとき,医療チームや研究チームは責任取れるのだろうか,というと,たぶん無理だろう。国際保健で一番難しいのは,テクニカルな部分ではなくてこういうところと思う。さっき完成させた医療人類学のディベートトピックは,こんなことを考えながら決めたのだが,このフレームを使ってくる学生はいるだろうか?
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