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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『唯脳論』

書名出版社
唯脳論ちくま学芸文庫
著者出版年
養老孟司1998(初出は1989)



Jan 02 (sat), 1999, 15:06

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

10年前に知の世界を席巻した名著の文庫落ちである。あまりに論じるべきポイントが多すぎ,すべてに触れるのは難しいので,断片的な評になることをご容赦されたい。

まず目次をあげておこう。
 はじめに   7
唯脳論とはなにか   11
心身論と唯脳論   27
「もの」としての脳   51
計算機という脳の進化   75
位置を知る   87
脳は脳のことしか知らない   101
デカルト・意識・睡眠   117
意識の役割   129
言語の発生   141
言語の周辺   171
時間   197
運動と目的論   219
脳と身体 エピローグ   247
 引用文献   257
 おわりに   259
 文庫版あとがき   261
 解説(澤口俊之)   263

実は,養老さんには,ぼくが属する学科で1992年度から1994年度までの3年間,人類生態学教室担当の「解剖学」という講義の非常勤講師をお願いしており,助手であるぼくは,養老さんとの連絡係を兼ねてほぼ毎回聴講していたのである。その講義でも,心身論とか,日本社会でのタブーとしての身体ということは繰り返し語られていたが,そのことの解剖学的意味というのは,恥ずかしながら本書を読むまでわからなかった。養老さんの意識は,「ヒトはなぜ解剖のような奇妙な行為を始めたか」というところにあるのだった。それを論ずるために引用される古今東西の論考の多彩なことには驚く。とくに言語の発生あたりまでの筆の冴えには感服する。『視覚と聴覚という,刺激の種類も時間に関する性質もこれほどみごとに異なる二つの感覚を,「言語」として統一する』ことが脳という場において成立したという見方は実にすっきりしている。美しいと言っても良い。

それに比べると,後半,進化を語るときの切れ味はやや鈍いような気がする。それはダーウィニズムという思想の多義性(曖昧さ)と無縁ではないから,必ずしも養老さんのせいではないのだが,「ネオ・ダーウニズムはコスモロジーである」という捉え方は,進化学的にいうと正しくない。少なくとも現代においては,物理学と同程度には検証可能な科学である。しかし,もしぼくの理解が正しいならば(解説の澤口さんの読み筋が我田引水に過ぎないならば),唯脳論は脳科学万能論ではなくて,反科学論である。我々の脳では知覚系と運動系の機能的統一ができないとするならば,仮説検証型の理解は不可能と言うことになる。理解したといった瞬間に,それは「等身大以上の話」になるので脳の中の話になってしまい,デカルト以前に戻ったことになってしまう。ぎりぎりの妥協がポパーを認めることだろう。だから,本書で論じられているのは,解剖学なのだ。養老さんも講義の中で触れていたが,解剖学はanatomyであって-ologyではないことに注目すると,本書の主張がわかってくると思う。

余談だが,エピローグで触れられている自然保護運動批判は正しいと思う。環境倫理とか生物多様性を旗印にした自然保護運動は,脳内に描かれた自然のカリカチュアを守ろうとしているに過ぎない。やはり,脳は脳に対して責任をとるというのが本来であり,「考えなしに開発するとヒトの生存に不都合が出るから頭を使おう」という論理でないと一般性に欠け,それゆえ力を持ち得ないのではないか。藤前干潟の干拓にストップがかかりそうなのは非常に喜ばしいが,環境倫理の要請が勝ってそうなったのではないことに留意すべきであろう。


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