最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
ナショナリズムとジェンダー | 青土社 |
著者 | 出版年 |
上野千鶴子 | 1998 |
E. Shioda <ppp948.st.rim.or.jp> website
もう6年以上も前になると思うが、わたしはある疑問をパソコン通信ネットに
書いたことがある。「娼婦(や従軍慰安婦)の存在がなかったら、一般の女性
が男に襲われかねないのだから仕方ないものとして黙認されてきたという論理
をいまだに引きずる人がいるが、男の性欲というのは抑制できる、またはすべ
きものという発想は誰も持たないのか」と。これを真っ向から「できないし、抑制の必要性も感じない」と答える男がある
なら、野獣ですと言っているようなものだ。野獣を認める社会を野獣がつくっ
ていることになる。残念なことに、この話題は(おそらくは場を軽くしようとした)ある男性から
人間は理性で割りきれるものではないという事例に「当たりもしない宝くじを
行列して買っているでしょう」と書かれ、わたしのほうで適当に話を打ちきる
方向に水を向けた。いくらなんでも「宝くじ」とは場違いも甚だしかった。上野千鶴子の「ナショナリズムとジェンダー」を読んで、頭の中でもやもやと
していた疑問が吹き飛ぶ表現にいくつも出くわした。女性が女性の問題に無知
である(または無視をする)ことで男性社会とその論理に迎合し、同性を傷つ
ける積極的な役割を果たすことにも改めて気づかされた。男性の側、家父長制
の論理が実に的確に、実にわかりやすい例とともに書かれていた。戦争で人の国に行って女を蹂躙するのは、男にとっては示威行為だ。女は示威
される立場ですらなく、それを見て屈辱を感じるその国の男に見せつけるため
の道具として蹂躙される。文中に引用されていた山崎ひろみ氏の、強姦された
女に犯人から、夫や父親と合意が成立したから解決済だといわれて納得できる
か、という表現にそれが端的に現れている。本書は別に従軍慰安婦についてのみ書かれたものではないが、最大(かつ説明
を受けたあとではバカらしいほど単純に思える)の疑問がとけたので、長文に
なってしまうが以下を書かせていただきたいと思う。わたしは小学生のころから従軍慰安婦というものを知っていた。父が所有して
いた日本史の全集に、その説明を建物の写真付きで見たのだ。壁に性病予防の
ため避妊具着用を義務づけるという張り紙があったことも、関連の記事に中国
の田舎の写真とともに「日本兵の行くところ処女なしといわれた」という説明
があったことも鮮明に覚えている。性行為への理解そのものはあやふやだったことは考えられるが、これらの情報
を子供時代から頭に入れておきながら、90年代になり詐欺や拉致で「慰安婦」
にされた人がいることを知ったとき、自分がどうしてそこまで見抜けなかった
のかと激しいショックがあった。必要ならば危険な地にでも性を提供しに行く
女性(義務感または職業として)が、当時ならばいたのだろうと想像したこと
自体が、自分以外には無関心な加害者側の発想であり、同性への侮辱だった。
# 以上はわたしの経験だが、本文中にも当時の日本人女性の無関心(現代にも
# 通じる)が記されている。女性は女性に対して冷酷な加害者になりうる。わたしの数年来の疑問とは、なぜこれまで記録に残してきたこと(慰安婦問題)
を、いまさら国が「確認できない」ととぼけられるのか、そこにあった。だが
答えはあまりにも単純だった。「犯罪意識の欠如」だ。「悪いことだと思って
いなかった」から堂々と出版し、曖昧な表現で次の世代を騙すだけでなく自分
たちの記憶すら封じ込めた。あまりにも情けなさすぎる。自分に向き直れない
人たちが記憶を墓場に持っていくなら、次の世代、またその次の世代も、自国
の歴史を恥じつづけて生きていかねばならない。反省と謝罪が歴史に加えられ
るのはいつだろうか。
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
ご紹介ありがとうございます。で,読んでみました。
初めのうちカギ括弧の多さにめげそうでしたが(理科系の本にはあまりこういうスタイルはないのです),論旨は明快だったので途中からは一気に読めました。「自由主義史観」を主張する人々の論法って,環境問題なんかで,「○×の危険性が確認されたわけではないから使っていい」という論法をとる人々(たとえば,遺伝子組み替え作物について表示しなくていい,とか),と似ていますね。どちらも,一般市民の認識能力というか,判断力を馬鹿にしている点で一致しています。少なくとも,論争中なら論争中という現状を公表して,判断は一般市民に任せるべきでしょう。「臭いものにはフタ」をしていては,手遅れになりかねません。
もう一つ感じたことは,加害者は容易に忘れるということです。いや,そもそもそれが「加害」だったことを自覚すらしていないのかもしれません。これは,少なくとも,対等な関係のもとでは,被害者に不満がでますから,許されないことです。逆に言えば,こういう意識を続ける限り,対等な関係にはなれません。
国際社会は対等な関係にあるべきだと思いますので,上野さんがいう通り,ナショナリズムを意識しつつ歴史を現代において再構成することは必要だと思いました。
E. Shiodaさんが「自分以外には無関心な加害者側の発想」と書かれていますが,いじめなんかでもそうですね。非対等な関係を放置するのは,加害者側に荷担していることになりますね。しかも無自覚だから始末が悪い。まあ放置しないでどうするかというと,対等な関係を作るための言説の再構築だから,難しいですが,子どもには無理でも一人前の大人ならできるようになりたい,と思いました。
#おまけ。どうでもいい疑問。
#ナショナリズムとパトリオティズムの違いって
#初めて知りましたが,ワールドカップサッカー
#で自国チームを応援してしまうのはどちら?
徒然三十郎 <snjk036k060.ppp.infoweb.ne.jp>
かつて、万国の労働者の団結によってナショナリズムを消滅させるというお話がありましたが、「労働者」を「女性」に置き換えると本書の趣旨になります。著者はこの趣旨で「従軍慰安婦」をとりあげ、日本のナショナリズムを攻撃していますが、他国のナショナリズムの消滅については全く見通しがたたない様子ですし、謝罪要求が日本人の気持ちを国家と一体化させてしまった例も紹介されていて、著者の前途は多難です。
著者は、櫻井よしこ氏の主張を「「強制連行」を裏付ける公文書がない、したがって事実かどうか証明できない、証明できないようなことがらを教科書に載せることは適当ではない」(p.156)と要約したうえで「公文書」という要素のみを批判しているので、「証明できないようなことがらを教科書に載せることは適当ではない」という命題には(「証明」の意味に注文があるものの)同意しているように見えます。櫻井氏らに対する著者の反論は、被害者側の証言は彼女たちの「現実」であるという芥川の「藪の中」(あるいは黒澤監督の「羅生門」)を彷彿とさせるものです。「加害者側で実名によるほとんど唯一の証言である吉田清治の証言は、信憑性が薄いとして、すでにどちらの陣営からも採用されなくなった」(p.157)という一文もありますが、吉田氏の「現実」はどうなるのかが気になります。