最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
認められぬ病:現代医療への根源的問い | 中公文庫 |
著者 | 出版年 |
柳澤桂子 | 1998 |
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
柳澤さんが三菱化成生命科学研究所で発生学の優れた研究者だったが病に倒れ,研究の継続を断念した人だということは知っていた。しかし具体的な事情は知らなかった。読んでみて不覚にも涙が出そうになった。
この本は,登場する固有名詞をすべて仮名にすることでプライヴァシー保護を果たしながら,ご自分の体験を正確に語ることで現代医療への問題提起をすることを意図した,「ノンフィクション・ノベル」である。解説の柳田邦男さんが言うように,この執筆形態自体が著者柳澤さんの優しさを示すものだ。「心身症」というのは中枢神経系の器質的あるいは機能的な疾患だということを無視する医者が多いのは,よく指摘されていることだが,やはり怒りを覚える。無知なら処方しなければよいのだ。これはatopic dermatitisに対する皮膚科医師のステロイドホルモン含有軟膏の乱発にも共通する。
いいかえると,柳田さんは指摘していないが,現代医療は木を見て森を見ない場合が多いのだ。これは時間的にも,身体的にもそうである。発病したときにアナムネーゼをちゃんととって,そのときに2歳時の日本脳炎の後遺症がある可能性を考慮して治療方針を決めればよかったのだし,全身の検査をしておけば,後になって血行の状態を調べたときに出てきた「調べるたびに異常値」というのがもっと早くわかっていたはずだ。しかし,ライフヒストリーを視野に入れた研究は,生物学ですら端緒についたばかりであり,それが医療に生かされるのはまだずっと先の話であろう。人体を一つの統合系としてみるという研究もまだ進んでいない。それまでの間は,わからないけど治療する,という立場とわからないから治療しない,という立場双方無理があり,どうすべきか難しいところである。ぼくとしては,わからないときはリスクベネフィット予測をして利点の方が大きければ治療する,という立場を支持したい。「これまでの常識からありえない」というのは著者の指摘する通り,科学的判断ではないが,医療が科学ではないことを(つまり目的が真理探究ではなくて「病気」と定義される症状を減らすことにあることを)如実に示すエピソードだと思う。
現代医療批判とは別の意味で,本書で特徴的なのは,著者の「生きる」ことに対する真摯かつ謙虚な態度である。ぼくの母よりも2歳ほど年上の彼女が,研究者として自己実現をしていくのはどんなに大変だったことだろうか。そんなに大変なら家事なんてしなくていいのに,と思うが,あの年代の人たちには(周囲も含めて)そういう選択肢は存在しなかったのだろう。
「医学的に病気であっても,社会的に病気でない状態はあるはずである」という著者の主張には全面的に賛成する。病気は,ある意味では,医療が作っているのである。そのためにも,健康科学は,鈴木継美先生の「生態学的健康観」(篠原出版)の「健康指標論」で示されたのより先の「健康」を示さなくてはならないと思う。
それにしても最終的についた診断名が多発性硬化症(multiple sclerosis)とは。中枢神経系の難病で,一時はニューヨーク郊外のBuffaloで多発したことが知られ,最近ではInoue-Melnick virusとの関連が示唆されているようだが,もし,著者がマウスの扱いを習った留学中に感染し,それが発病のきっかけになったのだとすると,それも悲劇だなぁ(考え過ぎか?)。
(参考文献:Ito M (1995) Seroepidemiology of Inoue-Melnick virus in the general population of Buffalo, New York. Journal of Medical Virology, 47: 83-86.)