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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『父の威厳 数学者の意地』

書名出版社
父の威厳 数学者の意地新潮文庫
著者出版年
藤原正彦1997



Sep 14 (mon), 1998, 11:20

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

「若き数学者のアメリカ」「遙かなるケンブリッジ」など名エッセイを著した藤原正彦さんが去年出したエッセイ集。藤原さんは,いうまでもなく新田次郎・藤原てい夫妻の子であり,名文は幼少の頃よりの環境を考えれば当然かと思われるが,それにしても文章がうまい。本書では,これまで以上に父君の新田次郎さんへの興味を掻き立てられた。

「数学者の意地」がらみ2割,「父の威厳」がらみ6割,その他2割というところか。数学関係で印象に残るのは,ワイルズ教授によるフェルマーの予想の証明の話である。数学の厳しさがよくわかる。父の威厳の話では,やはり書き下ろしの「苦い勝利」であろう。藤原正彦さんがどういう人なのかがよくわかると同時に,日本の学校教育制度における校長の権力の大きさについての疑念が呼び起こされる一文である。修学旅行前に子どもに無意味な検便が義務づけられているのに怒って戦い,最後に「苦い勝利」をおさめるという話なのだが,ひとたびこだわったら最後まで突き詰めてしまうという態度が実に数学者的であると思った。同じ基準で何でもこだわっていたら時間が無くなって破綻するのは目に見えているから,「ひとたびこだわる」ところが鍵なのだ。

しかし,藤原さん,検便によほど酷いトラウマがあるのだろうか? ぼくなら検便は非侵襲的検査だからそこまでして戦わないと思うけれど。不必要な採血なら戦うけど,侵襲的検査なら意義はもっとよく考えられてから行われるのが普通で,どうでもいいことだからこそ等閑にされているのだろうなぁ。

日米英文化論に関していろいろ語られており,肯ける点が多いのだが,偏見も見られる。たとえば,p.226の虫の声を聞いてアメリカ人教授が「あのノイズは何か」といったというエピソードから,虫の声を聞いて「もう秋だねぇ」といって涙ぐむのは日本人の情緒であり世界に教えるべきだと結論しているのは,明らかに偏見である。その(たぶん数学の)教授が「noise」以外の表現方法を選ばなかっただけかもしれないし,百歩譲って情緒がなかったのかもしれないが,それはその教授の個人的な資質であって,文化の問題ではなかろう。子ども向け絵本の「The Quiet Cricket」を見て欲しいものである。あれが世界中で売れているということは,虫の声に感ずる情緒は少なくとも四季がある国なら共通ではないかと思う。こういう偏見は,藤原さんが,子どもの世界を見ようとしないところに根ざしていると思う。そういったら,きっと「大人が子どもに合わせる必要はない」と一蹴されそうだけど。

その反面,このいかにも頑固親父的なわかりやすい態度が,このエッセイを面白くしているのは確かであり,切れ味も良くなっているのは否定しない。それに,等身大の自分を知っていてそれを素直に出しているから,頑固親父でも嫌みがない。「付記」は爆笑ものである。


Jan 24 (mon), 2000, 22:45

徒然三十郎 <tkyo4803.ppp.infoweb.ne.jp>

本書がひとつのきっかけとなって新田次郎の『八甲田山死の彷徨』を読みました。父子いずれも読者をぐいぐいひきつけます。

「苦い勝利」について。なんで検便ごときにむきになるのか理解に苦しみます。小津安二郎曰く「なんでもないことは流行に従う」です。ところで、「乃木大将は自分の息子を二人とも二〇三高地で死なせた」とありますが、これは誤りです。下の保典は乃木希典の第三軍に所属して旅順の戦いで亡くなっていますが、上の勝典は奥保鞏の第二軍に所属して南山の戦いで亡くなっています。武士道にこだわる割には著者は死所というものに鈍感であると思います。

「伝統の力」について。キリスト教では人間は神に似せてつくられたものであり、他の生物は人間に支配されるべきものです。キリスト教を前提としたアメリカの文化とそうでない日本の文化とで、虫の声に対する感覚が違うのは当然です。この点で著者は正しいのですが、日本人の情緒を世界の人々に教えようという発想には疑問を感じます。日本人がどういう情緒をもっているかを紹介するという意味ではなく、数学を教えるように教えるということなのです。人間は文化というものを運命的に背負っているというのが、僕の理解です。

批判を中心に書いてしまいましたが、たいへん面白い本です。しばしば登場する著者の「女房」が輝いています。


Jan 25 (tue), 2000, 13:08

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

きっと,検便にでも拘るところが威厳であり,意地なんではないでしょうか?


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