最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
生殖革命 | ちくま新書 |
著者 | 出版年 |
石原 理 | 1998 |
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
産婦人科医であり,不妊治療の第一線で活躍する著者が,最新の技術の進歩とその医療現場の様子をわかりやすく説明した本である。その意味ではお薦めできるが,科学書として読むには注意が必要である。
最初の合計出生率の変化のグラフと,晩婚化の進行の話は,不妊症の増加とは無関係である。日本の少子化の原因は晩婚化にあり,有配偶出生率は低下していないというのが,日本人口学会では共通認識である。そんなところから説き起こすのは著者の任ではないと思う。
この「序章」は最後まであやしい記述だらけである。
精子数減少の話を書くなら,Carlsenが筆頭著者のいわゆる「スカケベック論文」だけでなくて,せめてそれへの反論として出た,同一施設のデータで減っていないとする論文や,メタアナリシスをやり直したSwan論文を含むいくつかのものは引用しないと科学として公正な態度でなくなる。ぼくの「枕草子」のページ(下記URL参照)にも書いたことがあるが,この話は「結論は出ていない」というのが現状である。
環境ホルモンの話も半可通を露呈している。ダイオキシンが女性ホルモン類似物質だから生体内で女性ホルモンの受容体に結合するというのは徹頭徹尾事実誤認である。ダイオキシンはステロイドとは分子構造が全然違うし,結合するレセプターはAhレセプターであって女性ホルモンレセプターではない。女性ホルモン類似の環境ホルモンの例をあげるなら,ダイオキシンでなくてビスフェノールAとか,ヒドロキシベンゼン基をもったものを出さなくてはおかしい(これくらいのことは去年から今年にかけてたくさんでた環境ホルモン本の大抵のものに書かれている)。
さらに,不妊遺伝子はないから「社会的淘汰圧に起因する」ものであり,不妊治療は生物学的に淘汰されなくともよい「多様性」をヒト自身の社会的淘汰から救い出してきたものだ,という不妊治療の正当性の理由付けもおかしい。不妊遺伝子が存在しても,劣性形質ならそれが集団内に保持され続ける可能性もあるし(とくに,生存に有利な形質と連鎖不平衡の状態にあったらなおさらである),突然変異で現れる可能性を考えていないのは致命的である。社会的淘汰圧という用語の意味も,(文脈から判断するに環境ホルモンや性病や現代社会のストレスのことと思われるが)不明である。「淘汰」という言葉の意味がわかっているのだろうか? 専門外のことについても今年出た論文まで押さえていた「味と香りの話」とは対照的であり,それは著者の本分が研究者であるか臨床医であるかの違いによると思う。だから,著者の臨床経験に基づく記載は信用できると思うが,(とくに専門外の)文献の引用で書かれた部分については裏をとる必要がある。文頭に書いた「注意が必要」というのは,この意味である。
そういうわけで,「序章」は不要である。むしろ,生殖内分泌学の最新の知見をもっと充実させて欲しい(なんでレプチンの関与とか出てこないんだよ~)。きっと,著者にとっては不妊症の背景は二の次で,悩める患者に子どもができて喜ぶ顔が見られることが最大の喜びなのだろう。それならそういう姿勢で書いてくれればよいので,変に格好をつけたこの序章は本書の価値を落とすだけである。また,「受精」と「授精」の使い分けが徹底していないように思う。言語感覚が鋭敏でないように思われる。「委縮」とか。ぼくだったら「萎縮」と書かないと気持ち悪いのだが。
1章から5章までは面白いし,安心して読める。とくに無排卵の診断には超音波断層撮影が一番だというのは重要な記載だ。6章は,著者の気持ちというか姿勢がもっとも明示的に語られている部分である。自分がやっていることに落とし前をつけたい気持ちはわかるし,この論旨には肯ける(同意するわけではないが)。