最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
秘伝 中学入試国語読解方 | 新潮社 |
著者 | 出版年 |
石原 千秋 | 1999 |
天婦羅★三杯酢 <tc-srv3-p61.alpha-net.ne.jp>
『都内の私立大学の助教授である「僕」が、一人息子の中学受験を通して、時に導き、時に悩みながらも父親として、教育者として、研究者として息子と共に成長していく物語』この本をこの本自身に即して言えば、このようになるであろう。
何も知らないで手に取る人は、星の数ほど出版される中学受験参考書の1つぐらいに思うかも知れない。そしてそれは正しい。「秘伝」などと銘打たれたところなど、受験参考書に限らず、ジャンルにおける後発の常としての胡散臭ささえ十分に発揮している。すでに評価の定まっている先発者を追いかける者は、なりふり構わず売り込まねば成らない。冷静な第三者(やじうま)にはその胡散臭さが笑いさえ呼び込むが、受験に悩む人はわらをもすがる気持ちでこの本を手に取る事請け合いである。
しかし、この本はただの受験参考書ではもちろんない。これは、中学受験という物をまるでわかってなかった家族が、その現実に圧倒されながら、自らの持つ力を存分に発揮して難局を乗り切り、ついに栄冠を勝ち得た、その記録でもある。普通ならばイニシャルなどでごまかす塾の名前なども、ばしばし出し、あくまで受験生とその親の立場から是々非々の論を展開している。
しかししかし、この本はこれだけではないのだ。付属小学校から備えている私立大学の教員の立場からの、自分の学校、さらには日本の教育制度そのものに対する分析と提言が盛り込まれている。
また、別の角度からすると、本の後半の、実際の試験問題集は、質のいいアンソロジー(撰文集)ともなっている。日本におけるアンソロジーは、非常に貧弱であり、ようやく「高校生のための文章読本」シリーズが読むに耐える良質のアンソロジーとされる中、中学生や小学六年生が読むべきアンソロジーとして本書は取り上げられてしかるべきであろう。
さらに、この本には仕掛けがたくさんある。恐らくこの本を現役の小学六年生が読んだとして、更に6年後の大学受験時、あるいは大学に入って文学理論を学んだとき「あっ」と叫ぶ事請け合いの事項が、さらりと小学生にわかる何気ない言葉で書かれていたりするのだ。
さらにさらに更に・・・・これ以上は是非本文を読んで欲しい。読者を深読みへと誘い、深読みすればするほど、その深さに見合っただけの果実を手にする事が出来る稀代の本である。それもそのはず、この著者こそ、夏目漱石のテクスト分析の第一人者である石原千秋氏なのだから。自らが
「もはや『作者』も『作品』も自明の物ではなくなった。文学において、特権的な作者や、作者が意図したとされる唯一の解釈しか認めない作品というものは単なるフィクションになった。いや元々文学自体がフィクションなのだから。有るのはただ目の前の本であり、言語(日本語)であり、その素材をテクストとして、つまりてがかりとして読んでいく『私』=読者、しかいないのだ。『私』がどう解釈するのか(もちろんそれは1つではない、常に複数であるはずだし、私だけしか了解し得ないような解釈でもあり得ないはず)これが問題だ。」
という「テクスト論」の旗手である。
このテクスト分析、なかんずく「構造分析」の手法で中学入試問題をばさばさ解いていくことで、読者はテクスト分析の力をまざまざと見せつけられるのだ。
この分析手法によれば、物語はすべて1つの文に還元する事が出来る。そして、この1つの文をどんどん抽象的にしていくと、物語(中学入試レベルのものでは、特に)は4つの型に収斂していく事がわかる。そしてその4つの型のうち、この文章はどれだろうという事から把握し、徐々に細部を見ていく方式を提唱する。そして、実はこの「書評」そのものが、この本で得たことの実践であるつもりなのだが・・・千秋先生、私のこの評はいかがでしょうか?ヽ(^。^;)丿
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
面白い本の紹介,ありがとうございました>天婦羅さん。
書誌情報としては,
●「秘伝 中学入試国語読解法」新潮選書,1500円,ISBN 4-10-600560-3(Amazon | honto)
ですね。
以下,ぼくの書評を書きます。=====
本書は,2つの部分からなる。前半は親子の中学受験体験記であり,後半は中学国語入試問題の読解法の解説である。前半は,単なる体験記に留まらず,日本の現代の社会情勢の中で,私立中学を受験するということが何を意味するか,私立の中高一貫校の将来はどうなるのか,といった論考が行われていて,読み物として面白い。後半は,学校での「国語」が道徳教育であると喝破した上で,「まず問題に取り上げられている文全体を1つの文に集約し,それが4つのパタンのどれに当てはまるかという視点で大づかみしてから解答するべし」として,過去の入試問題を実際にいくつかの主題にわけて解いていく構成が功を奏して,たぶん小学生でも納得しやすいできになっていると思う。しかし,いくつかの点で不満が残る。まず前半であるが,もともとが受験の素人であったせいか,受験の「都市伝説」のようなものに振り回されている面がある。現代社会の切り方が経験と直感に頼っていて,データに基づいていないのが,いかにも文系的である。塾通いの開始年齢の変遷など,データを取って言えることであるはずだが,ぼくが中学受験をしたころから,まったく同じ誤解が囁かれ続けている。曰く,「小学校6年からなんて言語道断,5年からでも遅いくらい,4年からが普通」「毎日何時間も勉強しなくてはならない」「何年か前と違って,今の受験は大変」「御三家でも中学に入ってすぐに塾通いを始めないと東大に受からない」全部嘘である。おそらく,そんなデータはない。仮に塾通い開始年齢が低年齢化しているというデータがあったとしても,それはフィードバックによるサンプリングバイアスと思う。最後の都市伝説についていえば,開成の場合,現役で東京大学に受かることを目指す者は,高校1年からZ会のいくつか,高校2年の夏から駿台予備校に入るというのが通例であったが,中学で塾通いをする者は,むしろ落ちこぼれであった。
ぼくは,小学校6年の夏休みまで全く塾通いなどしていなかったし,それ以後も塾以外での勉強の時間はせいぜい一日2時間くらいだったが,開成中学に合格した(もちろん小学校2年から塾通いをしていたという同級生も何人かいたが,とくに差は感じなかった)。著者のご子息は勉強時間が長すぎたと思う。子どもの集中力はそんなに続かない。基本的な知識量と受験テクニックがある程度必要なことは当然だが,基本的な知識をしっかり身につけるのには教科書や読書,それとたくさんの実体験の方が,塾で暗記するより適していると思うし,受験テクニックなど半年もあれば十分身に付く。小学校4年や5年といえば,一番何も考えずに昆虫採集や魚取りや「探検」ができるときだし,他の遊びもできる時期である。もったいなくはないだろうか(もっとも,個人の資質もあるので,一概にぼくのやり方が誰にでも正しいとは言い切れないのだが)。
ぼくが中学受験をしたとき,時折,父と早朝マラソンをしたことがある。とくに何を話したか覚えていないが,きっと父なりに気を遣っていたのだろう。受験の出願もしてきてくれたが,番号が301番だったのには笑ったものだ(注:開成中学の定員は300人である)。緊張しなくていいじゃないかといわれたような思い出があるが,もしぼくが父の立場だったら,と考えると,その気まずさは想像するに難くない。いま改めて真意を聞いてみたいような気もする。
さて,後半についてだが,最大の秘伝が明記されていないのが不満である。国語の問題を解くとは,問題に使われている本文を読み解くことではなくて,むしろ出題者の意図を読みとることである。従って,設問から読め,と浪人したときに駿台予備校の国語科の……誰だっけ? 忘れたなあ……講師がいっていたのは正しい。出題者の読解能力と作文能力が低すぎる場合は,これでは通用しないこともあるのだが,入試の問題文というのは相当に吟味されているのが普通だから,まず大丈夫である。自慢めくが,中学受験のときも大学受験のときも国語では偏差値80とか85とかいう成績だったから,「国語の極意は出題者の意図を掴むこと」に間違いはないはずである。もっとも,偏差値というのは受験者の分布の中での位置を示すものに過ぎないから,絶対的な意味はないのだが。
著者の方法論は概ね有効と思うのだが,当てはめられない例外もたくさんあると思う。とくにSFには主題が重層構造になっていたり,錯綜していたりする作品はたくさんある。そういう文章は中学受験には採用されないということなのだろうけれど,方法論として万能ではないことに留意すべきである。
もっといえば,1文にまとめられるならば,普通は1語にまとめられる。これが,文章の主題(テーマ)である。テーマを掴むことが文章の理解に大事なのは当然である。著者はテーマを伝えたいと思って文章を書いているのだから。つまり,1文にまとめられること自体に新奇性はあまりない。
おそらく,一足飛びにそこに到達するのは難しいから,まず1文にしてみようというのが方法論のミソなのだろう。要約をどんどん短くしていくという方法論は多くの受験産業でも教えていると思うけれど,「4つのパタン」の提唱によって,著者は入試問題文の読解の準拠枠を与えることに成功しており,そこが本書の功績といえるだろう。
#偉そうな書評でごめんなさい>石原さん(面識はないけれど)