最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
私と月へつきあって | 富士見ファンタジア文庫 |
著者 | 出版年 |
野尻抱介 | 1999 |
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
女子高生が宇宙飛行士になって日本製小型ロケットで宇宙開発に携わるという,「ロケット・ガール」シリーズ待望の3作目である。設定としては,日本人,那須田勲が,密かに立ち上げてしまったソロモン宇宙協会(SSA)が,効率を上げるために小型ロケットを作り,当然乗員も体重が軽いことが要求されるという理由で女子高生に白羽の矢が立った,ということになっている。例によって物理的考証には力が入っていて,「そんな無茶な」と思える危機打開策も,専門家のシミュレーションによって不可能でないことを確認しているそうだ。今回は,首を捻らせる医学的描写を避けてあるおかげで,ひっかからずに読むことができた。
本作での我らが3人娘のミッションの目的は,日本に対抗して組織された,フランスのリセエンヌ5人によるアリアン・ガールズ(フィーユ・ドゥ・アリアンではないのか?)が月の北極に着陸して氷を持ち帰るプロジェクトのサポートである。当初はアリアンだけ,しかもそのうち2人だけが月までいくことになっていて,SSAの3人は,地球周回軌道上で2つのロケットの推進段をつなげるときに船外活動をしてサポートするだけだったのだが,アリアンのうち2人が何ともいえない理由でリタイヤしたおかげで月軌道までいけることになり,さらに,地球周回軌道上での事故によって月までいってしまうというのは,まあお約束である。何度も中止になりそうになりながら,「やっちゃえ,やっちゃえ」というのは,未知のものを知りたいという人類の知的好奇心の発露であり,リスクを知りながら,命を賭してでもやりとげようというのは,強い自由意思と人類への責任感であろう。自分の読者心理を内省するに,事故のあと,月へ行くことを決意したところで「やったあ」と思うのは,二重の意味(ミッションサポートからガールズへと,地球から人類へ)での子どもが独り立ちすることへの賛歌なのである。というわけで,誰に感情移入したということもないのだが,非常に盛り上がって読めた。
フランス的いいかげんさと,いざという場合の真剣さの両方を愛しているのであろう作者のひねくれ具合が面白い。アリアンのリーダーの,絶体絶命の窮地での命を賭けた真剣さは,やはりフランス人であるサン=テグジュペリの人間の土地や南方郵便機を思い起こさせる。アントワーヌへのオマージュであるからこそ,フランスのアリアンでなければならなかったのだろう(深読みしすぎ?)。月へ「つきあって」と言っている「私」は,アリアンのリーダーだろうか。それとも野尻さんだろうか。
カバー絵は相変わらず。大人がもつには恥ずかしいのだが,雰囲気はでているから仕方ないか。