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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『私的メコン物語 食から覗くアジア』

書名出版社
私的メコン物語 食から覗くアジア講談社文庫
著者出版年
森枝卓士1999



Jan 12 (wed), 2000, 14:31

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

神田憲行さんから聞いたところによると,講談社文庫の茶表紙はアジア旅本シリーズとして,無名な著者でも気合いの入った作品なら文庫オリジナルで出してくれる編集者がやっているそうだ(本書のあとがきによれば谷さんというお名前らしい)。この掲示板でも紹介した与那原恵さんの「街を泳ぐ、海を歩く カルカッタ・沖縄・イスタンブール」<http://minato.sip21c.org/bookreview/oldreviews/0914113359.html>もそうだった。

森枝さんは既に食文化ライターとして有名なので,その範疇には入らないのだが,本書は単なる旅本でもなければ食文化紹介でもなくて,ぼくがこれまでもっていた森枝卓士観を完璧にノックアウトしてくれた自伝であるという意味で,やはり一味違っている。だから,裏表紙の惹句「市場を歩けば,いつだって目もさめるような果物・野菜,魚介類が溢れている。大河メコン---チベットの氷河から流れ出た一滴は,中国雲南省を経てインドシナを縦断,ベトナムのメコンデルタへいたる。アジアの水辺で営まれる豊かな暮らしに魅せられた旅人がきわめた多彩な民族と食文化。文庫オリジナル作品。」は嘘ではないが,最大の本質を書き漏らしているような気がする。本書を織りなす横糸がメコンであるとするならば,縦糸たる著者の成長記録=自伝的な面に言及しないのは片手落ちであろう。

第一章「天体少年から,自称報道写真家に」に如実にあらわれているが,自伝といっても著者は格好をつけない。チッソとの微妙な関係をもちながら水俣に生まれ育ち,報道写真家ユージン・スミスに接して,衝撃を受ける高校生の著者も,クメール・ルージュがゲリラ戦を繰り広げていた頃のタイとカンボジアの国境付近で朝日新聞の支局のアルバイトのような身分で「従軍記者」をしながら,「最初は何をどうしたらいいのか,どこに行ったらいいのか,何もわからなかった。なにせ,言葉だって,タイ語はまったく分からないのだ。英語を話せる相手を探しては教えを請い,バイクを借りて,走り回った。」中で,ふと「国際政治がどうこうといいながら,その土地の人々が何をどうやって食べているのかという基本的なことも知らなかった」と気づく二十代の著者も,当時の等身大の視点から何の衒いもなく描かれているので,素直にその気持ちが理解できる。

第四章「インドシナ食日記」は,「食は東南アジアにあり」が売れて有名になった後にインドシナ半島を訪れたときの取材メモというか,まさに日記なのだが,生に近い形で呈示されているので,行間をいろいろと想像できて楽しい。p.164で,豚の皮巻が精進料理であるといっているのは何故だろうか?

現在の著者は,誰もが認める食文化ライターである。第六章「氷河の氷でオンザロックを」とエピローグ「マジェスティックでマティーニを」は,読んでいるだけで涎が垂れてきそうな描写を溢れさせている。しかし,美味を味わいながらも,著者が来し方行く末に想いを馳せる様子を読んでいると,この人はまだユージン・スミスに出会った頃の初心を忘れていないのだなと思わせる。万人にお勧めしたい好著である。

●税別657円,ISBN 4-06-264673-0(Amazon | honto


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