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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『夏の闇』

書名出版社
夏の闇新潮社
著者出版年
開高健1983



Feb 03 (thu), 2000, 01:22

今有無 <pae3a60.ick4.ap.so-net.ne.jp> website

(2000年2月2日の日記より転載)

 以前、中澤さんから紹介された開高健の『夏の闇』(新潮文庫)を読了した。正直に言うと、一度読んだだけではその深意を「理解」することができず、ただ茫漠とするだけだった。私の読解力云々ということももちろんあるけれど、それ以上に、私がこれまで過ごしてきた人生の希薄さのゆえなのではないかと思ってしまう。『ベトナム戦記』(朝日文庫)を直前に読んでいるだけに、なおさらそのように思えるのだ。もちろん、内容を「理解」することがはたして可能なのかどうかすら疑問になってもいる。ただ、本書の「私」も「女」もともに開高そのものであり、彼らが抱くそれぞれの思いと、彼らの交わす会話は、開高自身の経験と思索から分泌され、抽出され、蒸留されたものであることは間違いないだろう。そして、開高的に言うのならば、「事実だけを列挙してもそれはおしゃべりにすぎ」ず、「経験は非常な独立」だが、おしゃべりとなった事実は抜け殻になり、それは「なぶればはぶるだけ粉末になるばかり」(すべて239ページ)のものであるがゆえに、開高のベトナム戦争は開高の中でのみ昇華される。私に許されることは、昇華されたものとしての本書から開高を「理解」することではなく、「想像」することだけではないだろうか。

 しかし、ある一点において、私は開高を「理解」できるように思う。「女」としての開高は言う。「政治問題は遠い国のことほど単純に、壮烈にしゃべりたくなるものなのよ。自分の国のことになると一ミリの振動でもびくびくしてたちまち口ごもってしまうくせに、そうなのよ」(227ページ)。「私」としての開高が「遠い国の政治問題ほどきれいに苦悩できるのが魅力だと君はいったが、正解だな。殺すか、殺されるかの覚悟がなかったら何でも語れるし、論じられるよ」(236ページ)と同意した直後、再び「女」としての開高は「どうだっていいわ、そんなこと」と応える(同)。ベトナム戦争について語ることが出来ても、それに「参加」する日本について語らなければならない。開高のそんな「覚悟」を、私は「理解」できる。

 そして、本書を読むという私の「経験」を、開高より遙かに低い次元で昇華させるのならば、本書中の「私」はやはり開高であるが、「女」は日本なのだということが分かってくる。日本を憎みながらも究極では愛する「女」は「独立排除的」な甘美な幸福を求める。ベトナムから帰還した開高としての「私」はそんな「女」との擬似的な愛に溺れる。すりきれ、剥がれ、破片になり、蔦で覆われながら。

ISBN 4-10-112810-3(Amazon | honto


Feb 03 (thu), 2000, 23:24

今有無 <pae3ad8.ick4.ap.so-net.ne.jp> website

http://imaum.pos.to/


Feb 03 (thu), 2000, 23:25

今有無 <pae3ad8.ick4.ap.so-net.ne.jp> website

 「女」は開高自身でもあり「日本」でもある。あるいは開高の中にある開高の「日本」か。壁の上から戦場を眺める開高は、決して当事者ではなく、ただの傍観者に過ぎない。殺しもせずに殺し、殺されもせずに殺される、ただの傍観者なのだ。だから「独立排除的に幸福」であり、「独立排除的に幸福」であるがゆえに蔦に覆われる。しかし「独立排除的に幸福」な日本を憎みながらも、究極では愛している。壁の上にたたずむ開高と日本には「東」も「西」もなく、壁の両側をただ見回して蔦に覆われるしかなかった。


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