最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
新しい歌をうたえ | 新潮文庫 |
著者 | 出版年 |
鈴木光司 | 2000年(単行書は1997年) |
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
宮台真司による妙に深読みした解説がついていたが,鈴木光司の本質は,矛盾も抱え込んだ自分の無条件の全肯定にあるわけで,もっとストレートに文化伝播を狙っているのだと思う。「能天気なセリフ」として列挙している「人間の未来は明るい」「人間はお金で動くものではなく,精神的な快楽によって動くものだ」「強く望めば,夢はかなう」「人間の住む社会は競争社会ではなく,共に生かしあう共生社会なのである」には,厳密さには欠けると思うものの共感を覚えるが,それこそが鈴木光司の狙いなのだろう。
もっとも,相変わらずちょっと閉口するのは,男性性と女性性という対置の仕方で,農耕民族は女性性とか狩猟民族は男性性とかいわれると,そうじゃないぞといいたくなる。第一に女性性とか男性性とかいうラベルの貼り方がダメなのだが,農耕民族と狩猟民族という対置も間違っている。遊牧民という話ならまだわかるが,キリスト教世界やイスラム教世界が「何千年にもわたり狩猟で生活の糧を得てきた」というのは真っ赤な嘘である。主に狩猟に頼って生きたヒト集団というのは,きわめて稀なのだ。こういう論考をするなら,鈴木秀夫「森林の思考・砂漠の思考」(NHKブックス)くらいは読んで欲しいと思うのである。百歩譲って鈴木光司の文脈に立ってみても,狩猟は「決断を迫られる場面が多くなる」から「明確な自我が芽生える」だけでなく,瞬間的な決断しか要請されないから,生き方が刹那的になるかもしれない。農耕は,長期的なビジョンを立てて暮らすことを可能にしたわけで,ヒトの予測能力の発露として,脳が発達してきたという進化の歴史の自然な帰結と見ることもできる。きっと鈴木光司は,そこまで考えて書いているわけではなく,たんに日本人の多くが共同体帰属意識が強く自我が希薄だといいたかっただけなのだろうが,中教審の委員である以上,もう少し深く考えて欲しいと思うのは,期待のしすぎだろうか。