最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
ハワイイ紀行【完全版】 | 新潮文庫 |
著者 | 出版年 |
池澤夏樹 | 2000年 |
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
歴史から現代,未来に至るまで,ハワイイのすべてを論じた本である。ベースとしては確かに旅行記なのだが,先々で目にした事物にまつわるデータや言説を豊富に引用しては一言コメントする,という書き方なので,観光ガイドブックとして使うのには向かない。いや,それは無理ではないが,本書を読み進めるうち,ちょっとした観光だけのつきあいでは満足できなくなりそうだから,気が付いたら長期滞在していたということになりそうで危険だ。
そう,本書は危険な本である。ハワイイを論じながら,アメリカという大国に征服された島嶼社会という視点を提供することによって,オセアニア全体,ひいては近代以前の人類の営みに否応なく目を向けさせられてしまう。だから,気軽な観光ガイドが欲しい人は,本書など手にとらない方が身のためかもしれない。けれど,旅が本当に好きな人なら,本書は驚きと発見の宝庫である。ザックに突っ込んだ本書を時々引っ張り出して読みながら,3ヶ月くらいハワイイ諸島をふらついてみたいなあ,などと本気で思ってしまうのである。
著者池澤夏樹は,旅を始めた意図をこう語る。「これだけの島々にどれほど見るものがあるか。ここがいかなる自然条件をそなえ,人の歴史がそこにどう展開し,いかなる生活を営み,それを近代と呼ばれる時代がどう変えてしまったか。その結果の上に社会を築いている今の人々は何を考え,どういう未来像をもって生きているか。この一連の旅の目的は,大袈裟に言えばそれを探ることにある。実際には,島から島へふらふらと歩きながら,目に入るものを見て,人の話を聞いて,山に登り,海に入り,書物を買ったり博物館を訪れたりして,よく考えて,わかる範囲のことを書く。土地と人の関係を見て,地球と人類の関係を考えるくらいのことはできるだろう。細部からはじめて全体に至るというのが好きだから,逆の流れでものを考えたくはないから,ハワイイは最適のサイズの地と見える。さしあたりそんなつもりでこの旅を始める。」
そう,言ってみれば,本書は優れたフィールドワークの成果なのだ。オセアニア学会の特別会員として招聘したいくらいである。とくに,フラに関する論考は,船曳さんのそれとはまた別の視点で,きわめてエキサイティングである。
細かくコメントしたい場所が20個所くらいあるのだが,また後日時間があったら追加したいと思う。
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
p.140~141「実際の話,誰もが何系統もの血を引いているのだ。(中略)こうなると,ハワイイ人であるかどうかというのはある程度までは自覚の問題ということになる」
マオリもそうだが,自覚の問題として○×人といえるというのは,民族の誇りが抑圧されないという意味では幸せな状況だし,封鎖人口でない限り自然なことと思う。p.140の純血が失われるのが残念といわんばかりの書き方は傲慢であろう。これは,文化が失われるかどうかとは別問題だ。p.203-204は,http://minato.sip21c.org/humeco/myfavor/20000814.htmlにも書いたが,民族の統合と外圧ということに関して考えさせられる記述である。サンダルウッドと工業製品の交換がアフリカにおける象牙とガラス玉の交換と同様だという指摘は正しいと思う。これはハワイイに限ったことではなく,征服者文明が資源を収奪するのは洋の東西を問わずどこでも起こったことである。
p.207,ちょっと長いが引用する。「ハワイイ人としての意識のためには,一度でも統一ができたことは重要だっただろう。それ以前にはマウイ島人とかラナイ島人という気持ちはあっても,ハワイイ人という思いはなかったのではないか。外の世界があってこそ,ハワイイ諸島は一つのまとまった地域として認識される。ナショナリズムの象徴として,カメハメハ大王は今もって大きな役割を果しているのかもしれない。ホノルルにある彼の像の前にはいつも果物が供えてある。祭りの日には像は何本もの派手なレイで飾られる。英雄としてみるかぎり,彼はあまりに古代的かもしれない。だが,それを言うなら,ハワイイ諸島そのものが一人の英雄の登場でがらりと様相が変わるという意味で古代的だったのである。ハワイイはいわば古代からいきなり近代にジャンプしたのだ。ハワイイもまた世界史に少なくない「遅れてきた青年」の一人だったと思いながら,ぼくは煉瓦宮を離れた」
外の世界の存在によって統合意識が生まれたというのは,説明として十分ではない。外の世界が内部のどれよりも異質であったという前提と,内部では情報の流れが濃密であることが必要である。例えば,古代からいきなり近代へジャンプしたといえば,パプアニューギニアなどもそうだが,ドイツとかオーストラリアという外の世界に接してもなお,パプアニューギニア人という統合意識は希薄であるように思われる。それは上記の前提がなりたたないためである。したがって,ハワイイ固有の条件をもう少し掘り下げてくれるとよかった。p.294でハワイイ語で教育を行う特別な学校の先生に「理科や算数のような万国共通の知識を身につけるのにわざわざハワイイ語を使う必要はあるのか?」という池澤の問いに対する答えの後半「理科の基本は自然観察のはずだが,それならばハワイイ人の方がここの自然についてはずっと詳しかった。彼らが見たように自然を見ることから,新しい科学が生まれるかもしれない」は奮っている。EthnobotanyとかFolk-biologyとかいった分野で言われることと一致していて面白い。
まだあるが,今日はここまで。