最終更新:2019年2月13日(水)
書名 | 出版社 |
私のエネルギー論 | 文春新書 |
著者 | 出版年 |
池内了 | 2000年 |
中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website
何度か書いているような気がするが,何でこんなにと思うほど,基本的なスタンスがぼくのそれと似ていて,共感した点が多かったし,エネルギー源について実に要領よくまとめられていて,頭の整理になった。データについては,井田徹治「データで検証! 地球の資源ウソ・ホント」(講談社ブルーバックス)と併読すると,より具体的イメージが湧いて役に立つ。
第1章では自然界における動物としてのヒトの位置から,ヒトにとってのエネルギー消費の意味を考察する行が面白い。
「原生動物が遣う代謝エネルギーを一とすると,変温動物が遣う代謝エネルギーはその一〇倍であり,恒温動物はさらにその一〇倍の一〇〇であることが知られている。このように,動物は,進化の梯子を一段昇るたびごとに,一〇倍ずつエネルギーを多く遣うようになったのだ。この事実は,私たち人類が今どのような進化段階にあるかについて,面白い洞察を与えてくれる。(中略)人体の延長を周辺に作り出すことによって自己を拡大してきただけでなく,変動する自然とは切り離された恒常的な環境を拡げ,安全で便利で快適な生活空間を創り上げてきたのだ。このような環境を整えるために遣っているエネルギーを人間の体重当たりに換算すると,通常の恒温動物が遣うエネルギーの一〇倍以上にもなっている。(p.21~p.23)」
エネルギーを「つかう」のは「遣う」でなく普通は「使う」と書くと思うが,全部そうなっているから,誤植でなく意図的にuseでなくwasteあるいはlossであるといいたい著者の思いを,p.24の「私には,なんだか無理し過ぎているとしか思えないのである」という締めくくりのコトバにも感じる。もし進化の方向性としてそうであるなら,ヒトはエネルギーを遣うべくしてたくさん遣っている生き物なのだとも考えられるわけだが,それで地球生態系が成り立たなくなりそうなら,進化の方向性を変えてでもエネルギー消費を抑えよう,というのが,おそらく本書の主張であり,ぼくもそれには共感する。
第2章「寒暑涼暖を楽しむ」は,環境が変わるのを不快とばかり感じるのではなく,うまく対処しながらそれを楽しめばいいという発想を主張している。これももっともだと思う。「うまく対処しながら」の体験的具体例が面白い。
第3章「原子力発電って?」は,原子力発電の功罪を要領よくまとめた章である。わりとどこかで聞いたことがあるような内容が多いが,こうしてまとまっていると読みやすい。なお,p.103の熱効率の説明は,ちょっと納得がいかない。「なるべく最初の蒸気の温度を高くし,排水として流し出すときの温度を低くすると熱効率が上がることになる」とのことだが,熱でなく電気になって欲しいわけだから,放熱量が少ない方がいいのではないだろうか?
第4章「自然エネルギーの今」も,さすが自宅に太陽光発電パネルをつけているだけあって,その説明は実に具体的でわかりやすい。現在最も実用レベルで使われている風力発電の説明がややあっさりしすぎているような気がするが,紙幅の点からいって仕方がないところかもしれない。
第5章「新しいエネルギー源はあるの?」では,エネルギー源の本質的考察に続けて,核分裂も核融合も取りあえず明るい見通しはないが,化石燃料の可採年数は100年のオーダーだから,その間に新しいエネルギー源を見つける可能性はあるとして,主にメタンハイドレートを含む天然ガスと,燃料電池,宇宙太陽発電,MHD発電の将来性が論じられる。
第6章「エネルギーの有効な利用-ゴミを見直す-」は,いわゆるゴミ発電やコジェネの話だけではなく,ゼロエミッションなどゴミを減らすという方向性も語られる。その延長として,第7章「おわりに」で,今後人類が環境圧を受ける時代に如何に生きるべきかという思いを語り,本書は締めくくられているが,この辺りのスタンスに共感するかどうかは,行動原理を考えるときのタイムスパンの長さに依存してくるかもしれない。