Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2018. Last Update on 2019年3月7日 (木) at 22:28:27.
38番ゲートの前で日付が変わってからボーディング開始。このメモは後で写真を追加してフィールド紀行に収録予定。
機内映画でボヘミアン・ラプソディをやっていたので,眠かったのだが見てしまった。持参したイヤホンを接続して聞くと最小音量でも大きすぎるのが難点だったが,音楽映画なので飛行機備え付けのヘッドホンでは勿体ない。最初のLIVE AIDでウェンブリーアリーナに出て行くフレディが本人そっくりで,それだけでも凄いと思ったが,おそらくそこからの回想であろう若き日のQUEEN結成前の日々から栄光を掴むと同時に私生活では大きな挫折があり,荒んでいったフレディがメアリーの言葉で真実に気づいて立ち直り,LIVE AIDに出ることになって冒頭のシーンにつながるという構成の妙。これはしかし,劇場で見るべき映画だったな。
バンコクに着いてトランスファーデスクに行き,JALのチェックインカウンターで荷物タグを見せるように言われたと説明して見せたのだが,もう荷物はルアンパバーンまでスルーだから大丈夫だよ,テレビ画面でゲート番号だけ確認して直接ゲートに言ってね,と軽く言われただけであった。大丈夫なのか少し不安だが,トランジット客用のゲートも無事に通り,C1ゲートに向かった。途中の両替屋で日本円をタイバーツに替えたり,機械の案内に従ってパスポート番号とメールアドレスを入力してスマホを無料WiFi接続したり,110バーツのカプチーノを買ったりしていたが,トランジットゲートからC1ゲートがやたらに遠くて,10分以上歩いても着かないのだった。漸くCゲートの入り口に着いたら,ちょうど充電できて座れるスペースがあったので,さっき買ったカプチーノを飲みながらPCを開いた。さっきスマホを接続した無料WiFiサービスは,たぶんパスポート番号1つに付き1回線しか許してくれないらしく,PCは同じやり方では接続できなかったが,スマホをUSBでPCにつないでUSBテザリングしたら問題なくつながった。というわけで,まずはメール受信中。既にスマホで返信したものを除けば急ぎのメールは入っていなかったので安心した。まだ1時間ほどあるので仕事の続きをしよう。
しかし自分の間抜けさには呆れた。C1ゲートに行ったら飛行機会社が違うのだった。コードシェアで表示が出ていないだけかと思っていたが,そんなことはなかった。実はボーディングバスに印字されたゲート前にいるべき時刻(8:45)に離陸する飛行機で,偶然同じルアンパバーン行きがあったのだった。E-ticketを確認したら,ぼくが乗る飛行機は9:25発だった。案内ディスプレイを9:25で探したら,ちゃんと番号が合っている便が表示されていた。ゲートはC2Aなので,すぐ近くで良かった。
なお,WiFiが切れてしまって,何でだろうと思っていたが,2時間しかつながらないのだった。しかしこの空港では3系統のフリーWiFiが使えるので,別の接続を試したら,問題なくつながって,メール送信できた。これでもう,とりあえず日本で終わっていない仕事のことを考えるのは止めて,調査に集中しようと思う。急ぎのメールが入らない限り。
ほぼ定刻に離陸し,無事にルアンパバーンに着いた。日本人は短期間ならビザ不要なのでon arrivalのビザ発給を待つ長蛇の列に並ぶ必要が無く,入国審査書類にも調査だからBusinessにチェックしておいて保健省の承認の書類とかいろいろ用意していたのだが何もチェックされず簡単に通れた。荷物もすぐに出てきて,税関には職員すらいなかった。流石に緩すぎるんじゃないかと思うが,まあ無事に入国できたからいいか。
チームリーダーの横山さんが既に到着して待っていてくださり,借りていた車で少しでも良いレートで日本円をkipに換金しようと市内まで行ったが,どこもレートが悪くて(たぶん究極的には円安のせいだ)食事だけして空港に引き返し,空港に3つほどあった両替屋の1つで換金した。1円=75.8kipと書かれていたが76kipにおまけしてくれた。暫く待つと長崎大の西本さんとLao TPHIの職員がビエンチャンから到着し,皆で車に乗ってノンキアウに向かった。去年と同じところで途中休憩した他は走り続けて,着いたのはもう夕方だったが,ボートに乗り換えてムアンゴイに移動した。ムアンゴイでも去年と同じゲストハウスに投宿し,レインボーという店に行ってLao Beerを酌み交わしながら明日以降の計画について話し合った。
目が覚めたら5:30頃だったので生温いシャワーを浴びた。外気温が寒い割にヒーターの出力が小さいので,最高レベルにしても生温くしかならないのだ。メールチェックしてから上着まで着込んで外に出た。6:30頃に出発しようという予定だったが,H村からの迎えのトラクタが着いておらず,コーヒーなど飲みながら暫く休んでいたが,暇だったので自分が泊まった建物の外観写真を撮ったりした。
トラクタが来たのは7:00過ぎだっただろうか。去年もお会いしたH村の村長が運転してくれていて,握手をして挨拶してから出発。途中の道路は去年と同じ感じで,左手の洞窟も去年と変わらなかった。山を見ると木が伐り倒された森や,そこに既に火を入れて焼き畑にしたところが目に付いた。乾季に入ってから暫く経った,これくらいの時期に火入れをするらしい。トラクタは1往復で35万kipという話だが,今回の調査チームは2つに分かれて行ったり来たりするので(ぼくは前半3日間がH村,後半3日間がN村で,それ以外は移動しないが),トラクタ代は最後にまとめて支払うことになっているとのこと。ちなみにこの村長には少しだけ英語が通じるが,他の人はほぼラオス語しか通じないので,ラオス語がサバイディーという挨拶,コプチャイというお礼の言葉,去年の調査で知った,主に身体的な健康を意味するスパカープあるいはケンヘンという言葉しかわからない(去年来た後でCD付きの本を買って勉強したが挫折した)ぼくは,横山さんか西本さん,あるいはごくわずかな英語を解する人に通訳を頼まないと,まったくコミュニケーションができない。南太平洋で調査をするときとは,これがまったく違う点で,慣れるまでは予想以上に辛かった。
無事にH村に着いて,まずは朝食となった。前日ノンキアウで立ち寄った家(横山さんや西本さんは旧知の間柄らしい)の庭先でカワノリの加工をしていたが,あれがこうなるのか,という海苔が出てきた。この時期の名物だそうだ。韓国海苔のように味が付いていて,ゴマや薄切りにしたトマトを乾燥させたもの(写真の赤っぽいもの)がくっついているので,餅米をつかんで載せて巻くと(パリパリ割れてしまうのだが),まるで手巻き寿司のような食べ方になる。これが大変美味で,食が進むので困った。空心菜のような葉野菜の水煮も,タマネギスライスが大量に入っている卵焼きも,大変美味で餅米によく合う味だった。
朝食が終わってから,テーブルや椅子を配置し,スーツケースから身長計や体重計を取り出して適当に配置し,調査手伝いに雇った人にとりあえずの役割を振ったが,受付でのチェックのために西本さんの最新の村人リストをプリントしようとしたときに大問題が発覚した。ぼくのPCは昨年11月に壊れて新機種に替えたため,iP100のドライバが入っていないのだった。去年使っていた東芝のPCもWindows 10だったはずだが,そこからコピーしたフォルダに入っていたダウンロード済みのドライバは32bit専用とのことで,最新のWindows 10 Professionalでは動作しないのだった。考えてみれば,東芝Dynabook R83はWindows 7から10にアップグレードしたものだったような記憶があり,Windows 7ではiP100は標準サポートされていたから,このドライバではないのだった。この村でも何とかネット接続は可能だが,遅すぎてメールさえタイトル一覧は見えるが添付ファイルをダウンロードするのはほぼ無理なので,ドライバダウンロードなどできるはずがない。
途方に暮れたが,プリントに成功するまで健診をしないというわけにもいかないので,西本さんのPC画面でリストをチェックしながら健診を開始した。今回の調査目的は既に(来る前に)村長を通じて全員に説明済みなので,インフォームドコンセントもスムーズに進む。ここにムアンゴイのヘルスセンターから手伝いに来てくれた,割と年がいっていて,N村には親類がたくさんいるという男性を配置した。彼の仕事は,西本さんが既に作っている名簿と,健診に訪れた人を照合して,受付番号(1からの連番)と名簿記載のID番号の対応表を作って,村人からインフォームドコンセントの用紙に拇印を押して貰い,受付番号を書いた採尿カップを渡すことである。これだけの作業で,別に難しくはないと思うのだが,西本さんにサポートしていただきながらでも結構手間取っていたし,完璧ではないようだった(後で西本さんが確認して修正してくださった)。
トイレで採尿してきた人がテーブルに置いてくれたコップに,順番にアークレイの10PAスティックを入れて,リーダーで読むのが,ぼくの主な役割の1つであった。1検体測るのに約1分かかり,この結果は別途ノートに記録する。その間に健診参加者は,ビエンチャンから来て貰ったLao TPHIの職員に頼んで,健康意識と健康行動についての簡単な質問紙に答えて貰う。去年は,聞き取りをしてくれたTPHI職員が博士号をもっている女性医師だったので英語もうまくて,時々ディスカッションしながら詳細な聞き取りができたが,今年来てくれた人は事務職員で,英語がほぼまったく通じないのだった。それでも,去年と違って質問内容が簡単だから大丈夫だろうと思っていたが,最初は予想以上に難航していて,尿検査の方が進み方が速いくらいだった。そのうち慣れてきてスピードが上がり,ちょうど尿検査と同じかやや速いくらいのペースになった。
聞き取りが終わった健診参加者の上腕三頭筋部分と肩甲骨下の皮脂厚をキャリパーで測るのと,巻き尺で腕周りとウエストを測るのが,ぼくの2番目の役割である。これは訓練を受けていないとできないので,自分でやるしかない。記録用紙に自分で書くよりも,測りながら読み上げた数字を書き取って貰う方が効率が良いので,書き取りを件のTPHI職員に頼んだ。当初,英語でも数字くらいは通じるだろうと思っていたのだが,これが大変な誤算であった。ともかく全然通じないのだった。何度言い直しても正しく聞き取れないようで,とくにdotとかperiodとかいう小数点をわかってくれないので,とんでもない数字を書いてしまう。これなら自分で書く方がよほど早い。困ったなあと思ったが,ここで工夫して事態を打開するのが真のフィールドワーカーである。要は,彼に英語が通じないなら,ぼくがラオス語で数字を覚えればいいのだ。そこで,尿検査結果を右ページに記録しているノートの左ページに,0~9の数字と小数点と,ラオス語の読み方(アルファベットで)の対応表を書いておいて,それ(下表)を参照しながら読み上げることにした。
- 0 SUUN
- 1 NUN
- 2 SON
- 3 SAM
- 4 SI
- 5 HAA
- 6 HOK
- 7 JET
- 8 PEET
- 9 GAO
- . CHAM
つまり,例えば肩甲骨下の皮下脂肪が12.6 mmであれば,ヌンソンチャムホクと言えばいいのだ。この作戦はうまく当たり,TPHI職員の彼は間違いなく記録してくれるようになったし,何十人も続けているうちに暗記することができたので,ぼくにも苦ではなくなった(というと言い過ぎか)。まあ何にせよスキルアップは嬉しいものだし。
ここまで終わると,健診参加者は記録用紙をもって身長計,体重計,血圧計がある場所へ移動する。身長計と体重計の設置には平らな地面が欠かせないので,これはH村ではゲストハウスの食堂を借りた。日陰だし一石二鳥だった。これを担当するのはノンキアウの病院に勤務するナースの青年男性(ちょっとグースハウスの齋藤ジョニーに似ているとぼくは勝手に思っていたが,西本さんに齋藤ジョニーの動画を見せて同意を求めたら同意してくれなかったので,そんなに似ていないかもしれない)で,彼は少しだけ英語が通じるし,大変真面目な青年で助かった。気の毒なことに左目がものもらいのような状態で腫れていて,H村にいる間は,ぼくが持ってきていた抗菌目薬を点眼してあげたがあまり効かなかった(N村に移動した日に,彼が頼んでいたホウ酸水と点眼薬が届いて,それ以降は快方に向かったが)。たぶん体調も良くなかったと思うが,大変頑張ってくれていた。ナースって基本的に真面目だよなあ,と思う。
こうして健診を進めている間に,横山さんがいろいろと奮闘してくださり,Mac上で仮想的にWindows 7を動作させ,Google検索によって双方向データ通信を可能にする方法を見つけて2つの村の住民リストのプリントに成功したのは昼過ぎだったと思う。今回,横山さんのメインの調査地はムアンゴイであり,これからムアンゴイに戻られるというので,64bitのWindows 10用のiP100ドライバのダウンロードをお願いした(ムアンゴイのゲストハウスでは無料でWiFiが使えるので)。翌々日にH村でパーティが行われるのに招待されているため帰ってくるときにドライバを持ち帰っていただければ,結果のプリントにも間に合うという目算である。綱渡りだが他に手はない。人智を尽くした後は天命を待つのみである。
35人を受け付けたところで人の流れが途切れたので,初日の調査は終わりにしてデータ入力した。後は去年と同様にpdf化してプリンタに出力すれば良い。最短でも横山さんが帰ってくるまで出力できないが,まあそれは仕方ないだろう。Excelで入力したデータをCSV出力し,それを読み込んで必要な情報を整形し,\includegraphics[width=13.5cm]{IrfanView64のバッチ変換機能でpdf出力した写真ファイルのファイル名}という形で写真も一緒に出力できるようなupLaTeXのソースを吐き出すRコードを完成させるのに2時間くらい掛かったと思うが,できたソースファイルをTeXLive2018で読み込んでpdf出力するのは簡単だった。気がついてみると辺りは暗くなっていた。
ディナーはタケノコのスープと鶏肉が美味かった。この村は去年も書いたがラオラオという泡盛のような蒸留酒を自家製造していて,初日の夜となれば当然その洗礼があって,倒れるまで呑まされ,最後は村長の肩を借りてゲストハウスの部屋まで連れて行ってもらい,蚊帳の中のマットレスの上にそのまま眠ったらしいが,よく覚えていない。
若干頭は痛いが,思ったほど二日酔いの症状がなくてホッとした目覚めであった。とりあえずトイレに行ってから部屋の外で深呼吸しながらストレッチしていたら,西本さんも外に出てきたので,朝食前から健診を始めることにした。が,西本さんが手伝ってくれる3人に声を掛けたらまだ眠っていたので,開始まで暫く待つ必要があった。コーヒーを淹れて貰ったり(西本さんが1杯ごと淹れるタイプのドリップコーヒーを持ってきたら村長が大変気に入ったので,この村においていくことにしたもの)机を並べたりしているうちに起きてきてくれたので,7:00前くらいから健診開始。
要領は昨日と同じだが,もうラオス語の数字と小数点は覚えたので,昨日よりスムーズに進んだ。もちろんキャリパーや巻き尺の目盛を直接ラオス語で読める域には至らず,いったん日本語で読んでおいてから頭の中でラオス語に変換して読み上げる必要があるので,若干の間は空いてしまう。当初予定していたように英語を聞き取ってくれるなら直接読めるので,それよりは効率悪いが,まあ許容範囲だろう。
1時間半くらいしたところで人の流れが途絶えたので,いったん健診を休止して朝食をとることにした。コーヒーを淹れて貰う前に村長とすれ違ったときに抱えていたリスが調理されたものがメニューに入っていた。リスは罠で捕るのかと思っていたが,西本さんの話では,こちらではだいたい散弾銃で捕るらしい。そのため,時々鉛の破片が入っていることがあるから注意しなくてはいけないということだった。鉛中毒になるのはいろいろと悲惨なので,散弾銃を使うより罠猟の方が良いと思うが,効率の問題なのだろうか。たしかタケネズミは罠猟で捕るのがメインと聞いた記憶があるのだが,リスは罠に掛かりにくいのだろうか?
そのリス肉を炙ったのが,右写真では左側の皿に盛られた黒っぽいものである。より黒いのはレバーと思われた。まあ美味いと言えば美味い。動物の肉というよりも鶏肉に近い食感であった。上の白っぽいのはラタンの芽を潰したものだそうだが,これがメチャクチャに美味かった。大量の野菜もあり,例によって餅米を手につまみ,これらのおかずも一掴み合わせてから,右上の調味料をちょっと付けて食べるのが普通の食べ方である。好きなだけ食べられて良いのだが,こういう食べ方をする地域では食事調査が大変難しい。
食後暫く休んでから健診を再開したら,ちょうど良いペースで村人が来てくれて,かなり多くの人をカバーすることができた。それとともに頭痛も治まってきた。
来る人が途絶えたところで,この日の健診は終わり。データ入力してCSV出力し,写真をpdfに変換し,RとTeXを使ってpdfができたのは,ディナーの後,夜も更けてからだった。その後,焚き火で炙られていた薄焼きせんべいのようなものをいただいたら,大変美味であった。美しい星空を眺めながらゲストハウスの部屋に戻って眠ったのは23:00頃だったか。
今日も6:15から行動開始。まず朝食を済ませてから健診受付開始。さすがに残りわずかなので村人が来るペースもゆっくりだが,14人が来てくれて,H村の村人ほぼ全員が健診を受けたことになる。
昼飯はタケノコとサヤインゲンの水煮が美味だった。タマネギ入りの卵焼きと餅米をつまんでいるといくらでも食べられる。ラオスに来る前には若干減少傾向にあった体重が増えている気がしてまずいなあ。
データ入力を完了しpdfができあがった頃,ムアンゴイから横山さんが到着した。iP100のドライバをいただいてPCにインストールし,95枚の出力を終わらせた時点で15:00近くになり,パーティが始まる直前であった。調査補助員の2人に,結果付き写真の見方を説明し,説明しながら本人に配るように頼んだら,パーティ始めの式典のために村人が集まってきていたので,式典が終わってから効率よく配ってくれたようだ。
式典は塔のような形の飾りの周りに食べ物を並べ,さらに白い糸の束をたくさん並べた円卓を囲むように座って始まった。ラオス語で語られるので何を言っているかわからないのだが,村長や祭事を仕切る係の人らが厳かに何かを語った後,我々の側も横山さんが代表で挨拶した。横山さんも西本さんもラオスでの調査が長く,ラオス語会話は非常に流暢なのだが,こういう儀式の場で使われる言葉は特殊な敬語なので,横山さんをもってしても大変しゃべりにくいということであった。
その後の順番はよく覚えていないが,テーブル上の食べ物をつまんだり,ラオラオを飲んだり,何やら唱えながら白い糸を両手首に巻かれてみたり(ミサンガのように),日本語でも英語でも良いということだったので自分でも「スカパープ,ケンヘーン(どちらも健康を意味する言葉),あなたの健康をお祈りします」などと唱えながら周りの人の手首に白い糸を結んでみたりした。テーブル上の食べ物があらかた無くなってから,パーティのメインテーブルに移動した。
普通のテーブルの上に,テーブルクロス代わりにバナナの葉が敷かれているのが良い感じ。ビアラオという,まあ普通のビールがたくさん並んでいる。村には冷蔵庫はないが,村長が横山さんを迎えにムアンゴイに行った帰りに,クーラーボックスに大量の氷を買い込んできていて,ビールにこの氷を投入して飲むというスタイルなのだった。豚を一頭潰したということで,式典のテーブルにも脂身の部分を角切りにして甘く煮たものが出ていたが,他にも食べきれないんじゃないかと思うほどのご馳走が並んでいた。
テーブルが並んだ広場にPAを含む音響設備が置かれ,進行担当の人と村長がマイクで何やら演説してからパーティが始まった。暫く普通に飲んでいたが,1時間くらい経った頃だろうか,突如としてPAから音楽が流れ出し,村人から誘われて広場で踊ることになった。踊るといっても決まった振り付けがあるわけではないし,フォークダンスか盆踊りのような感じなのだが,大音量で流れるラオスの歌謡曲に乗って,果てしなく踊り続けるのであった。時々休みながらだが,たぶん3時間くらい踊っていたと思う。
メインのパーティがお開きになった後も,ゲストハウスの食堂(ゲストハウスを経営しているのが村長なので,村長の家とも言える)でビールを飲みながら1時間くらい語っていたように思うが,いつ限界に達して部屋に戻ったかはよく覚えていない。日付は変わっていなかったと思うが。
6:15頃に目が覚めたら,腰に鈍い痛みがあるが,酒のダメージはそれほど残っておらず良かった。
昨日のうちに結果返却も済んでいるという話なので,食事代やゲストハウスの宿泊代などを精算してから荷物をトラクタに積み,早々にN村に移動した。横山さんはそのままムアンゴイに戻られた。
N村でも基本的にやることは一緒で,村長の許可を得てから健診会場を設営し,あとは村人が来たらインフォームドコンセントを得てから,淡々と健診を進めるのみである。ここでも既に伝えていたこともあり,村長の許可は簡単に取れた。
しかし健診を始める前に腹ごしらえが必要である。実はN村では選挙管理のグループや不発弾(ベトナム戦争時の)処理のグループが来ていて,選挙管理チームでゲストハウスが満室だったので我々は泊まれないかもしれないという怖ろしい話があったが,暫くしたら何とか泊まれることになった。最悪H村かムアンゴイから通うかという話まででたが,例によって最後は救われた。
ゲストハウスで作って貰った,卵とキャベツ入りのラーメン(1杯で20000 kip=約263円だったと思う)を食べてから,徐に健診を始めた。
ところが,10人くらい順調に進んだときに大問題が生じた。選挙チームからストップが掛かったのである。選挙管理活動の邪魔になるからダメだと言われ,我々は保健省の許可を得てTPHIと一緒にやっているんだと説明したら,選挙グループが保健省経由でTPHIに圧力を掛けたらしく,TPHIから派遣されている人に電話が掛かってきて,とりあえず止めるしかなくなったのだ。保健活動よりも選挙の方が優先度は高いということだった。困ったなあと思ったが,まだ2日あるし,何とかなるだろう。無理に強行して村との関係が悪くなってはいけないので,とりあえず休止にした。
鶏肉ぶつ切り煮込みや空心菜のようなものの煮込みやお馴染みの餅米という昼食を挟んで,ともかくひたすら許可が出るのを待っていた。既に終わった10人くらいのデータ入力を済ませたり,この村用にRスクリプトを書き換えたり,昨日のパーティの疲れをとるためにハンモックで休んだりできたので,まあちょうど良かったかもしれない。
夕方になって許可が出たので健診を再開したが,結局この日は30人余りで受付に並ぶ人が途切れたので終了。晩飯を食べてからデータ入力して眠った。PCのバッテリーが切れそうなので,ゲストハウスに水力発電で来ているコンセントから充電しようと思ったが,たぶん電流が小さくて,スマホの充電には支障がないがPCには充電できなかった。作業完了前に切れそうなので,何か手段を考えなくてはなあ。
6:00頃目が覚めた。昨日は飲まなかったので,漸く酒が抜けた感じ。朝食後,TPHI職員が,選挙管理グループからの許可がでてからでないと怖くて健診できないというので,ゲストハウスのオーナー経由で選挙管理グループにお伺いをたてていたのだが,数十分待ったところで許可が出た。
というわけで,朝から健診を開始したら千客万来で,この日は昼食を挟んで昼過ぎまでの間に数十人が来てくれて,この村での参加者数も90人を超えた。この村には謎の韓国人長期滞在者とか,白人(とくにフランス人)の観光客が大勢いて,落ち着かない面もあるのだが,そのぶん,いろいろな活動が活発に行われている。ゲストハウスも前から村の入り口にある一軒(我々が泊まっているところ)に加えて,もっと村の奥の方にも一軒建設されていた。まだ完成していない感じだったが,カウンターパートの3人は,休憩時間にはそちらに行ってビアを飲んでいたようだ。
データ入力を済ませてpdfを作り,プリンタに出力していたらバッテリーが切れてしまった。予備バッテリーを2本持ってきていたのだが,1年放置していた間に自然放電してしまったらしく,これが使えないのには困った。しかし,これくらい開発活動をしているなら,村内に発電機をもっている人くらいいるだろうと思って,西本さんからゲストハウスの女将さんに尋ねてみたら,発電機を持っている人を紹介してくれた。行ってみると簡単に給電して貰うことができ,無事に印刷も終わったし,PCにも充電することができた。お礼はいくら払えば良いか尋ねたら,気持ちで良いよということだった。燃料代+αくらいとうことで,1万kip進呈したが,少なかったかなあ。
西本さんは翌朝にはルアンパバーンに向けて移動しなくてはいけないということで,この時点で調査を離脱しムアンゴイに向かい,入れ替わりに横山さんが来てくださった。ぼくが少しでもラオス語ができるか,カウンターパートに英語ができる人がいれば良かったのだが,今回はこうするしかなかった。
夕方も少し健診をしながら結果返却をしたが,10人余りで新しい人が来なくなったので今日は打ち止めにした。
晩飯を食べてからデータ入力を済ませ,この日も酒は飲まずに眠った。
村での最終日も6:00頃に目が覚めた。そうはいっても,日本とは2時間の時差があるので,日本時間の8:00であって,そんなに早朝というわけではない。
最後の健診への来場者も十数人いて,村にいて暇がある成人の大半をカバーすることができた。欠損もないし,全部自分で性状がわかっているデータがとれたので,これまでのところ,今回の調査は大成功といえる。もちろん,早く分析して論文を書かねばならないが。
データ入力してpdfを生成してから,再び昨日給電してもらった人にお願いして電源を借り,結果をプリントして対象者に配った。その後,いろいろと支払いして領収書をもらったところでトラクタが着いた。
N村の村長にお礼を差し上げてから皆でトラクタに乗ってムアンゴイに向かった。相変わらず揺れるが,気分は軽い。途中,山の木を刈って火を入れているところがあった。この辺の人たちは,基本的に棚田を作っているのだが,焼き畑で陸稲を作ったりもするし,バナナや野菜なども作っているので,焼き畑もするのだそうだ。人口密度が高まるにつれて,焼き畑の休閑期間が短くなり,リスやタケネズミなどの森の恵みが減っていくとしたら(狩猟採集と焼き畑農耕を併用している集団ではよくあることだ),持続可能性という観点では問題があるが,簡単な解決策はない。
ムアンゴイのヘルスセンターの前で,調査を手伝ってくれた人2人がトラクタを降りた。残りのメンバーはそのまま船着き場まで。
船着き場のわきのレストランに丹羽さんとNAFRI(農業研究所)から派遣して貰ったオフィサーがいた。トラクタを運転しているH村の村長も含め,全員で昼食となった。スープや大きめの魚のフライが美味だった。食後は,H村村長のトラクタに丹羽さんにNAFRIのオフィサーが乗ってH村に向けて去って行った。
横山さんとTPHIのオフィサーとぼくはボートに乗ってノンキアウへ移動した。帰りは川の流れに乗っていくことができるので往路より早い気がする。無事にノンキアウに着き,車で橋を渡ってゲストハウスへ。5分くらいの移動だったが,この車代が6万kipと意外に高かった。チェックイン後,とりあえず金がないと困るのでATMを探しに行った。橋を渡って銀行の前まで坂を上がらないとダメかと思っていたが,橋の手前にATMがあり,地元の人らしいラオス人が普通に使っていたので,そのATMで,旧CITIBANKであるPRESTIAのSAVING ACCOUNTからkipを引き出したら1円=74.49kipというレートだった。このATMは1回には150万kipが引き出し上限で,1回につき2万kipの手数料を取られる。日本の時間外よりやや手数料が高い。しかもこのレートでは(PRESTIAのレートが悪いのか,この1週間で円安またはkip高が進んだのかわからないが),日本円か米ドル現金をもっと持ってきておいて,初日にルアンパバーンで替えておくんだったと後悔した。
ゲストハウスに戻って,まずはPCとスマホを電源につないで充電を開始した。ゲストハウスの高速WiFi接続が使えるので,N村のゲストハウスで通知だけは受信していたZenfone Zoom Sのシステム更新ダウンロードを開始し,PCでは溜まっているメールを全受信させた。シャワーを浴び,髭を剃ってさっぱりした後,PCのメール処理をやり始めたが,全然終わらないまま夜になったので,メール処理を中断し,Zenfoneの更新をさせたまま晩飯を食べに行った。ラオス風に餅米をつまみながらおかずをシェアしたが,タケノコとキクラゲのようなものが入ったスープもニンジンとピーマンが入った野菜炒めもフライドチキンも美味だった。このレストランには白人観光客が多く,右写真のようなフラッグが立っているのに少し驚いた。マイクロプラスティック汚染を防ぐために竹ストローを買いませんか? という広告なのだった。実効性があるのかどうか不明だが,環境保全意識が高い人が多く来るということなのだろう。
漸くPCで添付ファイルも含めて受信できた数百通のメールの処理が終わらないので,ノンキアウの店先を冷やかす暇も夜景を楽しむ暇も無くゲストハウスの部屋にこもっている。そのまま力尽きて眠った。
TPHIのオフィサーが乗るビエンチャン行き飛行機の時刻が早いので,7:30頃に車に迎えに来て貰うことになっていた。逆算するとドライバーは4:30にルアンパバーンを出てこなくてはいけない。ちゃんと来るかなあと少し心配だったが,ちゃんと約束を守ってくれた。この車のチャーターは往復250米ドル(しかも米ドルでの支払いしか受け付けない)と,結構な値段ではあるが,それだけに責任感もあるプロフェッショナルであったのが素晴らしい。
途中の町の食堂で朝食をとるなどしたが,11:30頃には無事にルアンパバーンに着いた。TPHIのオフィサーとは空港で別れ,横山さんとぼくは,ドライバーが経営しているゲストハウスで休憩することにした。少し休んでから昼食で焼き飯を食べに出て,甘いアイスコーヒーを買って戻ってきた後,昨日受信したメールの未読分を処理していたら,ちょうど全部目を通し終わったところで15:00近くなったので,再び車に乗って空港へ向かった。途中の店で川海苔とかペースト状の調味料を妻へのお土産として購入し,空港ではコーヒー豆を買った。チェックインも出国手続きも簡単に済んだので,Bangkok Airwaysのラウンジでボーディングを待った。エコノミーでもボーディングバスを提示するだけでラウンジが利用できるBangkok Airwaysは太っ腹な会社だと思う。
無事にバンコクに着いたところでゲートも違うし,横山さんは次もラウンジが使えるという話なので別行動にすることにした。
この空港の4階にはATMがたくさんあって,PRESTIA(旧CITIBANK)のキャッシュカードで現金を引き出すことができるのだが,バーツは引き出せず,米ドルか英ポンドやユーロに限られているのが面白い。次回以降のことを考えて,ここで米ドルを300ドル引き出しておいた。まだ手元に日本円が5000円ほどあったので,それをタイバーツに両替し,事務への土産として乾燥マンゴーを買ってから,軽食をとりながらPCで作業した。1時間くらい作業をしたところでボーディングが近づいたのでE4ゲートに移動した。ほぼ定刻にボーディング,離陸した。往路と同じくたくさんの映画が楽しめる機体だったが,映画は見ずに,関空までの夜間飛行の間,軽食の時以外はほぼ眠っていた。
疲れたが久々に実り多い調査行だったといえよう。
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